「それならそうと早く言わんか」
「……」
「紛らわしい言動は慎むように」


その言葉に返事をする前に、頭の中に先程の硝子戸に映っていた自分の姿を思い描く。
まあまあ落ち着きなさい。落ち着きなさいよ私。

さっきまでのやり取りでこの人の自尊心が強そうだというのは察しが付いていたことじゃないか。それに今思い出したけどあの母親の言っていた“将校”って、確か軍の中でもある程度上の役割を持つ人のことだったはず。それならそもそも彼は、これだけ人の目がある場で簡単に非を認められるような立場にはないのかもしれない。

とはいえそんなこと私にはどうでもいい。今私がするべきことは第七師団の関係者らしき彼の前でこれ以上騒ぎを大きくせずに、速やかにこの場を立ち去ることだろう。
大丈夫。さっきの彼の様子ならこちらが腰の低い態度でいれば、きっと強く咎められることはないはずだ。


「……はい。土地に慣れない中でどうすればよいのか考えあぐねてしまい、将校様、や往来する方々に大変なご迷惑をおかけしてしまいました……。
それにもかかわらずこうしてお助け頂きましたこと、心より嬉しく存じます」

だから、さっさと、帰れ。
今更ながら少しばかり声の高さを変えたセリフの合間に深々と頭を下げ、顔を上げると同時に胸に手を当てて肩の力を抜きながら眦を下げる。
念じる声がちょっとばかり強めになったのはただただ私の未熟さであるが、これでも元はくのたまの端くれ。この手の殿方のあしらい方は低学年のうちに学習済である。
少し言い訳がましくなってしまった気もするけど角が立つほどではないはずだし、これなら相手も悪い気はしないだろう。


……が、目の前の彼が立ち去る気配はない。てっきりこちらが非を認めれば満足して帰っていくと思っていたのに、無言のまま変わらず機嫌が悪そうな目つきでじっとこちらを見下ろし続けている。

放置して帰ってもいいかな?と答えの分かりきったことを思いつつ、眉尻が下がるようにして「あの…?」と細い声を出せば、はっと我に返った様子で軍帽の庇に触れながら顔を逸らされた。その姿になんとなく、見慣れた彼を思い出す。

「……どこじゃ」
「…はい?」
「どこに行こうとしていた」
「あ、その、“なみぐち”という菓子処に……」
「ふん、あそこか」

唐突な尋問に咄嗟に永倉さんに教わった店の名前を答えると、私の後方へ続く道をずんずんと歩き出す男性。いまだに周囲で見物していた数人も、彼が動き出した途端に慌てて散っていった。

え、今の流れで解散?
理解が追いつかずに人混みから頭ひとつもふたつも飛び出ている後ろ姿が離れていくのをぼーっと眺めていたら、二軒分ほど歩いたところで不意に振り返り私と目が合うと顔をしかめてこちらに戻って来た。なんだ解散じゃないのか。

「おい、何故ついてこない」
「…どちらに……?」
「なみぐちに決まっているだろう。旭川に不慣れなら連れて行ってやる。さっさとついてこい」

そう言って断る猶予もないまま再び離れ始めた背中に思うことは多々あるものの、これ以上機嫌を損ねないようにとりあえず追う。
多分恐らく、勘違いでなければ、彼は土地に慣れていないと言い訳した私の道案内をしようとしてくれているらしい。
男の子との関係が誤解だったと気付いた直後の表情からしても心底嫌な奴というわけではなさそうだったけど、これが彼なりの詫びの形なのかもしれないと後に続きながら思い付いた。嬉しいかと問われたら微妙だけど。

まあ道案内されるくらいなら大人しくしていれば問題ないかと判断して「ありがとうございます」と言いかけた言葉を、はっと呑み込む。
いやこの状況かなりまずいのでは?

確信はないけど、それなりに立場のありそうな第七師団の関係者らしき人間を私は今、永倉さんとの待ち合わせ場所へ連れて行こうとしているのだ。それに気付いた瞬間、さっと血の気が引いていく。

「あ、あの、わざわざお手を煩わせるほどのことではございませんので…!」
「かまわん」
「ですがお務めの最中に、」
「くどい」

ぴしゃりと言い切られてしまってはそれ以上続けるわけにもいかない。急いで次の手を考えながら大きな歩幅に合わせて足早に後を追っていると「……私用で出ていたところだ、案ずるな」とこちらを振り返ることなく独り言のように呟かれた。気遣ってるんじゃなくて断ってるんですよ察してくださいな!


結局特に良い案も思いつかずにそれでも頭を絞り続けていると、突然前を歩いていた背中が立ち止まり慌ててこちらもぶつかる前に足を止める。振り返った彼が顎で差した先を横から覗くと、目の前には教わっていた名が大きく掲げられた目当ての菓子処があった。存外近かった上にかなりの速さで歩いていたものだから、早々に着いてしまったらしい。
聞いていた通り人気の店のようで外にも中にもそれなりに人はいるものの、永倉さんの姿は見当たらない。少し荒くなった呼吸の合間に、小さく安堵の息が漏れた。

とはいえ、あまり時間はない。今のうちに追い払わなければと振り返り深く礼をする。

「あの、何から何までご親切にしていただき、本当にありがとうございましたっ…!」
「ああ」
「無用な気遣いであることは承知しておりますが、どうぞお気をつけてお戻りくださいませ」
「ああ」
「……」
「……」

どうしようこの人全然動かない。
こちらは見送りの姿勢に入っているのに、男性は立ち去るでもなく何か話し始めるでもなく、目の前に立ったままそわそわと落ち着かない空気を出している。

え、なに?謝罪が足りなかった?お金……なわけはないだろうし、もしかして私が知らない女性からするべき所作があったりするとか?まずいぞそんなの全然わからない……!とまで考えたところで、ふと気付いた。

「……お恥ずかしい思い違いかとは思いますが…もしや、私はまだ将校様にご心配をおかけしているのでしょうか?」
「……」

そう尋ねればわずかに開いた口はまたすぐ閉じて、私が言葉を発する間合っていた視線は再び逸らされた。肯定はない。が、否定もされなかった。

「お心遣い恐れ入ります。ですが私なら問題ございません。ここからなら迷うことなく宿にも戻れます」
「…そうか。……いや…」

男性はまだ何か言いたげだけど、これ以上一緒にいられては本当に困る。とはいえこの不器用な善意をつっぱね続けるのもなんだか気が引けるし、矜持を傷つけられたと思われるのも面倒だ。だからさっさと彼の方から諦めてもらいたくて、袖口で口元を隠しながらそっと目を伏せた。

「ここまで良くしていただきましたのに、私には何もお返しできるものがございません。どうか、去られるお背中を見送ることだけでもお許しくださいませ……」

そう言っておずおずと上目に顔色を窺えば、大きく目を見開く男性。
ダメだったかも、と不安がよぎった私に向かって無言のまま一度首を縦に振ると、先程よりもかなりゆっくりとした足取りで元来た道を戻り始めた。
徐々に離れて行く背中を固唾を呑んで見守る中、ここに来る時に最後に曲がった角で立ち止まり、こちらへ振り返る。追撃に深々と頭を下げた後、顔を上げてもまだ目が合う彼に、少し躊躇した素振りを見せてから胸元に手を添えてなるだけ人好きのしそうな笑みを作って向けると、とうとう建物の影に消えていった。


「っ……!!」

その姿が完全に見えなくなってゆっくり一から十まで数え切った瞬間、胸元に当てていた手で小さくガッツポーズを作る。横をすれ違おうとしていた妙齢のご婦人との距離が離れた気がしなくもないが、今はそんなことよりも自分を褒め称えたい。偉いぞ私。よくやったぞ私。
大きな達成感に浸っていたところで後ろから名前を呼ばれて、振り返った先に予想通りの人物を見つけて自然と顔が綻んだ。

「すまない、待たせてしまったな」
「いえいえ、今着いたところでした」
「それは何より。だが良い時分だから昼食に付き合ってはくれまいか。旭川で口にできるか難しいところだが、ウナギは口に合うかな?」
「わあっ、大好きです!」

新しくできた嬉しい予定ににこにこしながら、永倉さんに続いて店内に入る。大きな硝子の箱の前には数名の先客がいて中はまだよく見えないけれど、少し高めの場所に並んだ貼り紙には馴染みのある物から見慣れない物まで、菓子の名前らしき言葉がいくつも記されている。

「土産に買って帰ろうと思ってな。折角だからなまえに選んでもらうとしようか」
「えっ」

「食べたい物を選んでおきなさい」と突然決定権を与えられて、慌てて品書きを見直す。団子に羊羹、饅頭にカステラ。どれもここに来てから口にしていない。桃山、鹿の子は一体どんなお菓子なんだろう。知っている味と知らない味、どちらも同じくらい魅力的に文字が輝いて見える。

……ああ、困った。

「永倉さん…すみません。全部美味しそうで選べません……」

心底困り果てた私の言葉に、永倉さんは「それは大変だ」と朗らかに笑った。


***


「皆様お疲れ様です。街に出ていらした永倉様がおはぎを買ってきてくださいましたよ」
「…茶が飲みたくなるな」

家永さんが置いたおはぎを見た牛山さんの呟きが聞こえて、小さく笑いながらその横に白湯を置く。確かに一緒に買ってきてもよかったかもしれない。

「……なまえ、お前髪はどうしたんだ?」

口の周りにあんこを付けながら一足先に食べ始めていたアシㇼパさんの視線の先には、私の不自然に波打った髷。
油で固めなかった髪型は確かに直ぐに解けたけど、いつも通り束ね直した髪には編み込んだ跡が残ってしまっていた。街に行ってくるとしか伝えていなかったアシㇼパさんからすれば当然の疑問に、ひとまずこの場では言葉を濁そうとした私より先に、家永さんが答える。

「お互いに少し時間が空いたので、なまえさんの髪をお借りして気になっている髪型を結わせて頂いたんです。私は簡単に髪を解くことができませんから」
「……そうか」

当然納得した顔ではなかったけど、私が否定しないことを確認したアシㇼパさんは目の前のおはぎに視線を戻した。本当に気になるなら後でまた聞かれるだろうから、その時にちゃんと答えればいいだろう。

「もう一つのお土産の松前漬けは、明日お出ししますね」

その言葉に顔を上げると、ちょうど家永さんにおはぎを差し出されていた土方さんと目が合う。
松前漬けは今回のお礼のひとつのつもりで永倉さんに相談して私が買ったものだった。昼食時に永倉さんからそれとなく訊ねられた身の上話についても、当たり障りのない程度には答えたつもりだ。そんな私の考えを知ってか知らずか、土方さんの口元が少しだけ弧を描いた気がした。

でもその表情はすぐに消えて、そのままおはぎに手を付けることなく腰を上げると、アシㇼパさんの隣、ちょうど私が白湯を出したばかりの杉元さんのそばまで歩み寄り足を止めた。チセの中の視線が全て二人に向けられる中、静かにおはぎを食べていた杉元さんがゆっくりと顔を上げる。


「はっきりさせておこう」

そう言って土方さんが懐から取り出したのは、見た目や音からしてどうやら油紙のようだった。折り畳まれたそれには見覚えのある模様や文字が描かれていて、おおよその正体を察する。

「札幌で牛山が白石から受け取った、辺見の刺青の写しだ。積丹の鰊番屋で複製を作るよう私が指示した」

へんみ。積丹。聞き覚えのある言葉に、なんだか随分と以前のことに思える小樽のコタンでの一時を思い出す。あれ、でもたしか積丹では刺青人皮は見つからなかったはずでは?と頭に浮かんだ疑問は、胸の内に留め置くことにした。アシㇼパさんたちの持つ情報を私が全て教えてもらっているとは思っていないし、そんなことをしてもらう必要もない。

土方さんの台詞に、杉元さんはしばし無言を貫いた。でも不意に片手に持っていた残り半分ほどのおはぎをばくりと一口で頬張ると、背後に置かれていた自分の背嚢を引き寄せる。咄嗟に差し出したアシㇼパさんにと濡らしておいた換えの手拭いは、「んんんん」と返されながら受け取られた。

全員が静かに見守る中、あんこを拭き取った手で土方さんが差し出した油紙を背嚢に片手を入れたまま受け取った杉元さんは、口を動かしながらしばしそれを眺めた後、にっと口角を上げた。


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