昨日よりいくらか雲の多い空模様の中、人を探して外に出たものの昨日買った本をうっかり預かったままであることを思い出してチセに戻ると、中には炉のそばで談笑している家主夫妻と、そこから離れた壁際で銃を抱えたまま本を読んでいる尾形さんがいた。
後者の光景に物珍しさを覚えつつ、夫妻に笑顔を向けてから尾形さんの横にある自分の荷物に近付こうとした次の瞬間、バッと勢いよく顔を隣に向ける。
尾形さんの手の中にあったのは、昨日私が買った料理本だった。
昨日のうちに確かにサラニㇷ゚に入れたはずの本の頁を、一定の間隔で捲り続ける尾形さん。目の前に立つ私の存在には確実に気付いているはずなのに、手を止める素振りは一切ない。
「……あの、尾形さん。それ私物なんですが……」
戸惑いながら出した一声を聞いて少しだけ顔を上げた尾形さんは、ちらりと私の姿を確認するとすぐに視線を落として、髪を撫で付けながら「…袋が倒れて出てきた」とだけ言うと、再び静かになってしまった。
確かに壁に立てかけるように置いていたサラニㇷ゚は倒れているけど、だからと言って出てきた物を当然のように手に取るのはどうかと思うし、よくよく見れば尾形さんが壁と背中の間に挟んで腰当てにしているのは私の毛皮だし、言いたい事が多すぎてどれから口に出せばのかわからない。
「こんな物コソコソ買うくらいなら次は春本でも買ってこい童貞」
「どっ」
こともなげに言い放たれた言葉に童貞ちゃうわと勢いで返しかけた言葉をすんでのところで呑み込む。だって男じゃないし。
そんな私を本で顔の下半分を隠しながらじっと観察する尾形さんがこちらの反応で遊ぶつもりなのは目に見えていて、口にしたら最後どう転んだってろくな結果にならないのは分かり切っている。
妙な言い掛かりをつけられないうちにその視線からさっと目をそらして、ついでに今の発言が家主ご夫妻の耳に入っていないことを確認し、それからひとつ大きく深呼吸した。
……まあ、他の人の目に留まるようなところに置いた私にも問題はあるか。
間を置かずに頭に浮かんできた結論に、すん、と心が凪ぐ。
夕張からの道中「尾形さんは猫ちゃん」と懸命に自己暗示に励んだ結果、その理不尽な言動の殆どをなんやかんや諦めの形で流したり受け入れられるようになってしまい、現在完全に格下として扱われている。どう考えても自業自得だけど、口でも手でも勝てる見込みはないからこれが一番平和な解決策だと思うことにしていた。
「……読み終わったら袋の横に置いといてくださいね」
ささやかな要望だけ伝えながら、サラニㇷ゚の中と周囲ををざっと見て他に飛び出してしまった物や壊れた物が無いことを確認し、今度は倒れないように置き直してから隣の風呂敷を手に取る。もし尾形さんが中身を見ていたとしても、昨日買った物も含めて荷物は全て一目で女物とは分からないように整理してあるから問題はないだろう。
玄関に向かう背後で人の動く気配がしてちらりと振り返ると、尾形さんが立ち上がりながら本をサラニㇷ゚の横に置いていた。それだけでじんわり込み上げてくる喜びと感動を噛み締めながらチセを出て数歩踏み出したところで、尻に衝撃が走った。
当然受け止めきれずにそのまま前に倒れ込み、咄嗟に片手を前に出して顔面を摩り下ろすことは防いだものの、犠牲となった手のひらがじわじわと熱を持ち始める。
何の仕業かおおよそ察しながら振り返れば、案の定、真後ろで浮かせていた片足を地面に着ける尾形さんがいた。
思い込み云々以前にどうしてこんな目に合わなければならないのかまったく意味が分からなくて、倒れたまま呆然と見上げる私を、真っ黒な瞳が見下ろす。
「どうして家永には触らせた」
「は…?」
何?なんの話?家永さん?
意味が分からず続きを待つけど、それ以上の言及はない。でも表情の抜け落ちた顔に浮かぶ二つの目玉は咎めるように私を見続けていて、わけがわからないまま推理を始める。
家永さんが触った物なんて、私が全部把握しているわけがない。でも尾形さんが私に話すって事は少なくとも尾形さんと私が知っている物のはずで、しかも“触らせた”なんて私が許可したような言い回しだ。
でも家永さんに私の私物を貸したことなんて一度もない。逆に昨日は色々とお借りしたわけだけど、あれはそもそも私の物じゃな……ん?
「……もしかして、昨日の髪の話、してます……?」
「……」
「えぇ…?」
最近家永さんが触ったもので私に拒否権があるものなんて、昨日の私自身くらいだ。その中でも尾形さんが知っている可能性があるものといえば、おはぎを食べている時に家永さんがアシㇼパさん説明した髪くらいだろう。
とりあえず思いついた答えをそのまま口にしたところ、尾形さんの眉がピクリと動いた。気に入らない答えだったらきっともっと不愉快な顔かそれ以上の態度で示されるだろうから、多分合ってるんだろう。
猫ちゃんだからなんていうのは所詮私の思い込みなわけで、実際のところ今は短髪にしている男性が多いから、口にしないだけで邪魔くさいとか鬱陶しいとか思われてるんだろうなと思ってた。
それが本心はとかく自分以外の人が触ったことに機嫌を悪くしているような素振りをされて、なんで?揺れるから?そんなのもう猫ちゃんじゃん。と口にしたら今度こそ顔面に拳を入れられそうな感想が頭の中を駆け巡る。
「おい、答えろ」
「え?あ、うーん……」
急かされたことでまともな回答をしていないことを思い出して、頭を捻る。尾形さんの質問は……質問かあれ?…まあいいや。たしか、なんで家永さんに私の髪を触らせたのか、だったはず。
女装するためです、なんて勿論言えないし、そもそもアシㇼパさんとの会話を聞いていたなら家永さんの説明も聞こえていただろうから、そういう“どうして”じゃないんだろう。
だとしたら残るのは尾形さんと家永さんの違いくらいで、そんなの答えはひとつしか思い付かなかった。
「……思いっきり引っ張ったりしないから、です、かね……?」
頭に浮かんだことを考えなしに言葉にしてしまってからしまった気に入らなくて蹴られるかも、とひやひやしながら確認した先には、夕張からの道中で初めて髪を掴まれて振り返った時と同じ顔をした尾形さんがいた。
「……それだけか?」
「……まあ」
逆に他に何があるというのか。
意外にも敵意の無い態度に拍子抜けしつつ、恐る恐る肯定した私から目を逸らさない尾形さん。気まずくなって先にそっと視界をずらす。
しばらくその状態が続いた後、やがて尾形さんは額に一房落ちた前髪を撫で上げると地面に這いつくばったままの私の横を通り過ぎて、もう一軒のチセの方向に歩いて行ってしまった。
「……なに?」
私の疑問に答えてくれる人は誰もいなかった。
***
「キロランケさん」
土方さんに本を届けた後、その場にいなかった目的の人物を探していると愛馬たちの世話をしている姿を見つけて小走りで近付く。私の声に振り返ったキロランケさんが、こちらを見て目を細める。
「ん、なまえか。どうした?」
「実は、キロランケさんにご相談したいことがありまして。計画とは無関係のものなんですが、少しお時間をいただくことはできますか?」
「ああ、かまわない。こいつらの世話が終わるまで待たせてもいいか?」
「はい、もちろんです」
キロランケさんの言葉に頷いて世話を再開した姿をなんとなく眺めていると、突然上着の袖を横から引かれた。振り返ると小樽から夕張までよくキロランケさんと私を乗せてくれていた子が上着を口に咥えていて、「構ってくれとさ」との愉しげな声に従って目の前にあった鼻梁を撫でると、ぐいぐいと手のひらを押し返された。ねだるようなそのしぐさに、思わず笑みがこぼれる。小樽で馬肉の美味しさを知ってしまったのは失敗だったかもしれない。
「……そういえば、お前のマキリとタシロは模様を彫ってないな。何かこだわりでもあるのか?」
負けじとわしわしと撫で返していると、キロランケさんが私の腰のあたりに視線を落としながら疑問を口にした。その言葉に首を振る。
「なーんにもありません。どんな模様を入れようかなかなか決められなくて、そのうちそのうちと思っていたらここまできちゃいました」
「なに、それでいいさ。お前はなんでも一人でできるが、一つくらい旦那の仕事を取っておいてやれ」
「……そう、ですね」
当然のように返されたのは、私には来ることがないだろういつかの話で。
いつもなら軽く流せるはずなのに何故か今日は咄嗟に返さなくて、そんな私を見た整った顔立ちがわずかに曇る。
「……嫌な思いをさせたか?」
「あ、いえいえまさか!あんまり考えたことがなかったので、咄嗟に想像できなくて…」
「なに?周りの男共は誰もお前に声をかけなかったのか?とんでもない腑抜けばかりだな」
「うーん、そういう奇特な方もいなかったわけではないんですが……」
小樽のコタンで女性の仕事を手伝っていた頃には、そういう話のタマゴのようなものをいくつかもらったこともあった。でもやんわりと遠慮し続けてアシㇼパさんの狩りに付いて行くようになると、そうした話を振られることも殆どなくなった。
だからといって誰も私への態度を変えることはなかったから肩身が狭くなることもなかったし、フチさんは今でも私がコタンに戻る度に、どうやって話を見つけてくるのか別のコタンの男性を紹介しようとしてくれる。
どこから来たかも分からない、何の付加価値もない私自身を見てそうした声をかけてくれたことは、今でも本当に有り難いことだったと思っている。
でも、だからこそ。
「そういう話が出ると、私が逃げちゃってました。私みたいな戸籍も後ろ盾もない変な女、一緒になってくださる方のご迷惑にしかならないですから。…それに、」
あの夢を見ても見なくても、ふと思い出す時がある。
昨日まで確かにそばにあった愛に、これから先二度と触れることができないのだと気付いた瞬間の、あの感覚。
幸せだった思い出に縋って過去の自分を責め続けて、どこか深い場所へ沈んでいくばかりの日々を、もう一度味わうくらいなら。
そばにいてくれた誰かが、私のせいで味わうくらいなら。
「──ひとりはさびしいから。
私はもう、ずっとひとりでいいかなって。
……でもキロランケさんくらい素敵な殿方がいたら、ころっと心変わりしちゃいそうですねえ」
「…そりゃ手強いな。俺みたいないい男なんて滅多にいないぞ」
「ひゃーっ」
喋りすぎたこちらの気持ちを容易く汲み取り、長い睫毛に縁取られた瞳から飛んできたウインクがくすぐったくて、顔を背けた先にあった逞しくあたたかな頸に顔を埋めた。
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