「淀川中佐が部屋に入ったぞ」
「…杉元さん、本当にあの格好で大丈夫でしょうか……」
「さあな。今から答え合わせだ」
広大な敷地内にある目当ての建物へ双眼鏡を向ける尾形さんの言葉に同じ窓を眺めながら声を発せば、幹を挟んだ向こうから返ってきたのは案の定そっけない返事。でも反応があっただけこれまでの関係からの歩み寄りを感じる気がしないでもない。
あの一室で今まさに、白石さんの救出計画が敢行されている。
作戦の要である鈴川と杉元さんが27聯隊の牙城へと乗り込む中、私の役割は存外容易に侵入できた第七師団の敷地内、人気のない場所にあった雑木林で不測の事態に備える尾形さんの周囲の警戒と必要に応じた雑用係だ。
本来なら尾形さんが狙撃に集中できるように私が双眼鏡を使って状況を確認することが望ましかったようだけど、計画遂行までの期間で敷地内と周辺の地図は頭に叩き込んだものの、特に警戒するべき兵士や将校の人相までは把握しきれなくて、結局今の役割分担に収まった。
周囲の気配を確認しつつ時折り視線を向ける離れた窓の中の状況は、服装や体格でおおよその目星を付けるしかない。遠目でも見間違いようのない杉元さんの横で洋装を見に纏った鈴川らしき姿と向かい合っている軍服を着た男が、おそらく歩兵27聯隊の聯隊長である淀川中佐なのだろう。
そこから視線を外したところで、建物へ向かって走っている人影が目に入った。濃紺の軍服が行き交う中で目新しい色は最近見たものだけど、位置が悪くてここから顔は確認できない。
「尾形さん、誰か建物に向かっています」
「……鯉登少尉だ。まずいぞこれは」
「例の薩摩隼人ですか」
「お知り合いなんだろ、行って足止めしてこい」
「無茶言わないでください。あと知り合いじゃありません、町で見かけただけです」
白石さんを連行した隊が鶴見中尉の所属する歩兵27聯隊だったことが判明した時、以前の買い出しで出会ったあの将校様の首元にも27の数字があったことを思い出してその場でかなり掻い摘んで口にしたところ、それが鶴見中尉お気に入りの鯉登少尉という人物であることが尾形さんによって明らかになった。
さらには犬童が薩摩弁に精通しているという情報が出たところで鯉登少尉が薩摩出身であることも判明し、淀川中佐が鶴見中尉に弱みを握られているとはいえ、周囲の目もある以上鯉登少尉が常にそばに控えていることはないだろうという尾形さんの証言はあったものの、若干の不安の種を残したままこの日を迎えてしまっていた。
雲行きの怪しくなってきた状況に胸のざわめきも大きくなるけど、今更後戻りはできない。
「周り、見てろよ」と狙撃に備えて体勢を変える尾形さんの指示に従って、視界を確保するために鉢巻をずらし上げる。
と、同時に視線を感じて黒目を動かすと、細い幹越しにこちらを横目で見上げる尾形さんと一瞬目が合って、すぐに逸らされた。それを確認して同じく視界から尾形さんを外しながら、まただ、と思う。
尻を蹴られたあの日から、なんだか最近妙に尾形さんの視線を感じる機会が増えた。
計画の話し合いや食事の最中、突然連れ出されたコタンの外で「扱い方も知らない奴に触らせるわけないだろ」と至極ごもっともなお言葉を頂戴して銃の撃ち方を見て覚えていた時にも、ふと気付くと真っ黒な目がこちらを見ていた。
尾形さんが周囲の物事をよく見ているのは前からのことで、その対象から私が外れていたこともない。でもここ最近の彼の目は、ただ動いたから見ていたような今までとは違っていて、まるで何かを見つけ出そうとするようにじっとこちらを観察していた。
そこまで思い出したところで、ふっと一つの考えが頭に浮かぶ。
……尾形さん、もしかして。
その時、建物の方から耳慣れない銃声が二発聞こえてきた。
咄嗟に身構える私を「動くな」と横から声が戒める。続いてもう一度聞こえた破裂音に焦る気持ちを抑えながら窓の中へ目を凝らしたところで、派手な音を立てて硝子を突き破りながら、馴染みと若干の懐かしさが入り混じる配色が窓枠から飛び出した。
間を置かずに私の耳元でも火薬が爆ぜて、二つの塊を追って窓から乗り出そうとしていた濃紺がよろめき「行け!」と言う声が耳に届いた瞬間、枝から降りて走り出す。
人目を気にすることなく二人の現在地におおよその検討を付けながら進んでいくと、すぐにこちらに向かって走ってくる目的の二人を見つけた。でもその姿に安堵したのは一瞬で、白石さんに腕を支えられて走る杉元さんの外套が赤く染まっているのが見えて、さっと血の気が引く。
「杉元こっちはダメだッ、南へ逃げろあっちだッ!さっきの銃声で蜂どもがあちこちの巣から飛び出してきた!」
追いついた尾形さんの声がすぐ背後から飛んできて、はっと我に返り杉元さんに走り寄る。
「杉元が撃たれちまった!」
「不死身なんだろ?死ぬ気で走れ!」
白石さんの支える腕とは逆の腕の下に肩を潜り込ませて、反対側の腰に手を回す。私より背の高い彼の体重がずっしりと肩にかかってきて、事の危うさを実感する。今更ながら鈴川の姿がここにない理由も察しがついた。
「無理だッ!こんな傷の杉元が走り続けられるわけねえッ!」
「白石さん今はとにかくっ…」
先を走る尾形さんに吠える白石さんを諫めようとしたところで、「俺の…」と杉元さんの力のない声が聞こえて口を閉じる。
「足が止まったら……白石ッ、お前がなまえさんとアシリパさんを網走監獄まで……」
絞り出すようなその言葉を聞いた途端、色んな感情がごちゃ混ぜになりながら腹の底から込み上がってきて、口から出かけた言葉を呑み込むためにぐっと奥歯を噛みしめる。
「……なまえさ」
「白石さん少し離れます杉元さんお願いします」
続けて呼ばれそうになった自分の名前を遮って、何を言い出すか自分でもわからない口を二人から引き離す。
それからたった今曲がったばかりの建物の角に戻って顔を出すと、状況を把握しきれずとも不穏な様子を察知したらしい数人がこちらへ走ってきているのが見えた。
風がないことを確認しつつ上着の中から目当ての容器を取り出して、中心から伸びた紐を思い切り引き抜く。予定通り火花が吹き出したそれを追っ手に向け地面を滑らせるように投げて、再び杉元さんたちの後を追う。
「止まれ!何か投げたぞッ!」と背後から聞こえた直後、軽めの爆発音と狼狽える声が続く。さらに間を置かずにそれらが悲鳴や咳き込む声に変わったことで、角の向こうの様子がありありと伝わってきた。
「なにあれ!!」
「もっぱん!」
「はあ!?」
「話す体力あるなら今はとにかく走ってくださいッ!!」
知ってか知らずか白石さんから返ってきた反応に、杉元さんに再び肩を貸しながら声を張り上げた。角の向こうからすぐに人が飛び出してくる気配はない。
煙草と胡椒と唐辛子、灰と煤と石灰。本当は砒素も入れたかったけど、余った分の管理が面倒だし簡単に処分できる物でもなかったので今回は断念。
火薬やら竹やら私では入手に難があった品をキロランケさん協力の下揃えたり代用しつつ、おまけに紐を引くだけで火薬に火が付く素敵仕様となった私とキロランケさんの努力と汗と涙と涎と鼻水の結晶は、一応の時間稼ぎにはなってくれたらしい。せっかく腰を据える時間と場所ができたからと、行動に移した甲斐があったというものだ。
キロランケさんありがとうございます、と試作品の実験中に私が風を読み間違えたせいで二人一緒に中身を全身に浴びたあの日を思い出しながら改めて感謝する。勿論ものすごく怒られた。反省している。
その間にも先導する尾形さんは、人気のない方向を選びながら迷わず走り続ける。確かこの先は練兵場だった筈、と頭の中に敷地内の地図を思い描く。
長短の直線がぎっしりと書き込まれていた紙の上で逆に目に留まった余白ばかりのあの場所を、着実に迫る追っ手を振り切って走り抜けられるとはとてもじゃないけど思えない。
前と横の戦力を確認して、最後の手段で務まるわけもない殿の覚悟を決めていると、開けた視界に奇妙な物体が現れた。
「何だありゃあ!!」と声を揃えて叫ぶ白石さんと意外と元気そうな杉元さんの横で、首を傾げながらそれを見上げる。
木製の枠組みとその上に浮かぶ白い布が見えた時、一瞬それは船に見えた。
でも周囲に川や池は見当たらないし、人が乗るにはやけに不便そうな構造の枠に取り付けられた白い布袋は、大した風も吹いていないのに少しずつ膨らみながら宙に浮かんでいる。
「気球隊の試作機だ!!」
「あれだッ、あれを奪うぞッ!」
「ききゅうたい?」
尾形さんの言葉にピンときたらしい白石さんの提案についていけずに耳慣れない言葉を繰り返したけど、応えてくれる声はない。そのままそれのそばに辿り着くとすぐさま尾形さんが周囲の兵士を牽制し、杉元さんは動揺する近くの兵士から銃を奪って中心にあるカラクリを操作する兵士に銃を向けて、その間に枠組みに飛び乗った白石さんが兵士にカラクリを動かすよう迫る。
一方私は今だにこの未完成にしか思えない代物を奪おうとする三人の真意が分からず、それでも短刀を取り出して加勢しようとしたら「いいから乗れ!」と尾形さんに怒鳴られて慌てて枠組みに足を乗せた。
そのまま白石さんのそばに行こうとした瞬間、ぐらりと足元が揺らぎ咄嗟に下を見れば枠組みがゆっくりと地面から離れていて、「はぁ?」と声が漏れた。
「なになになに?なんで?なんで浮いてるの!?」
「いいから口閉じてそこら辺に掴まってなッ!」
こちらを振り向くことなく言い放たれた白石さんの言葉に従って、真横の木材にしがみ付いて口を真一文字に結ぶ。混乱する頭を整理できないまま頭を左右に動かせば、遅れて飛び乗った杉元さんと尾形さんが人の背丈より浮き上がった枠組みにしがみ付こうとする兵士の手を叩き落としているのが見えて、とりあえず見様見真似で私の真下で手を伸ばしていた兵士の手を蹴り払った。で、結局なんで浮いてるの?
その間にも枠組みはどんどん地面から離れて、とうとう束になってしがみついていた兵士の最後の一人の手が離れる。
でも負荷がなくなり平行になった感覚に安堵したのは一瞬で、次の瞬間再び大きく傾いた先に現れた影に、杉元さんがその正体の名前を口にした。
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