「なまえ、預かっていた毛皮だ。弓矢はキロランケから受け取る暇がなかった」
「はい、ありがとうございます」

合流するまではなるだけ身軽になるようにとアシㇼパさんに預けていた毛皮を受け取って、ぐっと胸に押し付ける。手に馴染んだ物だからということもあるだろうけど、毛足の長い物に触れていると心が落ち着く気がする。

ガスの力で浮いてカラクリによって進行方向を変えているこの乗り物は、飛行船と呼ばれているそうだ。
始めは理解の範疇を超えた状況に木材にしがみ付いていることしかできなかったけど、なんとなくでも原理が分かった今は、下さえ見なければ奇妙な船に乗っていると思えなくもない。

でも「このまま網走まで飛んでいけるんじゃねえの?」なんていう白石さんの言葉に驚きと期待を向ける余裕が出てきた頃、それまで同じ動きを繰り返していたカラクリが突然うんともすんとも言わなくなってしまった。
白石さんたちがあの手この手で喝を入れてもどうにもならず、結局後は風任せになり少しずつ消えかけていた不安がまた膨らみ始めた。


聳え立つ大岩のそばを通り過ぎた時、「風に流されてあんな岩場にぶつかったらやばいぞ」なんて縁起でもないことを言う杉元さんの横で、アシㇼパさんがそれがパウチカムイの砦と呼ばれていることを教えてくれた。その由来を聞いて一笑する白石さんを見ていたら、ふとした疑問が頭に浮かぶ。

「……それでこの飛行船って、最後はどうやって止まるんですか?」

そう口にした私に四人分の視線が集まって、それから誰も何も言わないまま、三つの顔が明後日の方向を向いた。
その横顔と後頭部を順に見回せば最後に澄みきった紺碧と目が合って、思わず笑みがこぼれる。なるほど、理解した。

「アシㇼパさんすみません。どうにかなるまで手握っててください……」
「まーったくしょうがないなあなまえはぁ!ほらそっちの手も出せ」
「絶対離さないでくださいね?絶対ですからね?」
「よぉ〜しよしよし、後で美味い脳味噌食べさせてやるからなっ」
「よりにもよって頼るのがアシㇼパちゃんかよ情けねぇな」
「アシㇼパさん、なまえさんつれてこっちにおいで」



結局その後大きな木に飛行船の浮き袋が絡まり、なんやかんやあって船は使い物にならなくなってしまったものの、全員追加の怪我はなく地上に降り立つ事ができた。でもそのなんやかんやの間に上げた悲鳴は白石さんに「日高のアザラシ思い出した」と言われ、私ごとアシㇼパさんを庇ってくれていた杉元さんの外套には涎を付けてしまった。もう当分空の旅は遠慮したい。地面に立っているのにまだ足元が揺れてる気がする。


短い時間でかなりの距離を移動したものの、上空にいる間に尾形さんがこちらを馬で追う兵士の姿を確認していた。追い付かれる前に飛行船の下から移動して、急ぎ杉元さんの止血を行う。
杉元さんが着物を脱ぐ間にサラニㇷ゚から包帯を取り出し上着の下で背中に縛り付けていた風呂敷を外しながら、鈴川の死を知り動揺する小さな背中に声をかける。

「……アシㇼパさん、代わりますか?」
「…いや、いい。私の指が一番細くて負担が少ない。なまえは補助を頼む」
「はい」

杉元さんの傷口を洗浄し、そのままメノコマキリと指を使って弾を取り出すアシㇼパさんの手元に溢れる血をこまめに洗い流す。痛みに耐える唸り声に怯むことなく手を動かす姿はいつものことながら頼もしく思うのに、見ていると少しだけ胸がざわめく。

「──よし、取れたぞ」
「二人ともお疲れ様です。杉元さん、ご自分で水は飲めますか?」
「……ああ」

さすがにぐったりとした様子の杉元さんに水袋を渡して顔を上げると、周囲を警戒していた尾形さんと偶然目が合って、すぐに外れた。

飛行船に乗って早々に起きたあのアクシデントからここまでの間、時折り尾形さんの視線を横目に捉えてはいたものの、見て見ぬふりをする私に声がかかることは無かった。そんな場合じゃないから当然といえば当然だけど、何か考えがあって機会を窺っているのか、私から声がかかるのを待っているのか。

いや、そもそも尾形さんが気付いた確証はないのだ。この視線は飛行船での私の情けなさに呆れているのかも、と淡い希望でこの件についての思考は一時中断して、足りない包帯を補うために風呂敷に包んでいた未使用の手拭いを取り出した。


***


その場凌ぎに近い手当を終えれば、後は追っ手から逃れるために移動し続ける。でも斜面を登るほどに身を隠せる草木は減り、とうとう背後を確認していた尾形さんから「見つかった!!」と声が上がった。

他に選択肢もなく、飛行船の上からでも遥か上空に頂が見えた山々の連なる大雪山を登っていく。町や平地では夏の気配を感じていたのに、天候の崩れ始めた山は進めば進むほど冷たく水気を帯びた風が強く吹き付けてきて、肩に掛けた毛皮を体に強く纏いつかせる。

どんどん耐え難くなる寒さを凌ぐ決定的な一手を見出せずにいる中、とうとう人一倍凍えていた白石さんの意識が朦朧とし始めた。同じ方向に歩き続けてはくれるものの声をかけても明確な返事はなくて、小さく笑いながら何事か呟き続ける姿を見て焦りが募る。
細身の白石さんが一番最初に寒さを訴えるのは、出会った頃からいつも同じだっだ。そして次にそれに同意するのが、私であることも。


「ュクだッ!!」

その時、アシㇼパさんが少し離れた場所に鹿の群れを見つけた。
牡鹿を四頭撃つよう言われた杉元さんが銃を構えるより先に銃声が響き、姿の重なっていた二頭の鹿がその場に崩れ落ちた。意識のある人間たちがその妙技に息を呑む中、聞き慣れない音に驚き駆け出した鹿たちから目を逸らさないまま即座に弾を装填した尾形さんが再び引き金を引けば、また別の二頭がよろめき、先に手前にいた一頭の体から力が抜ける。

「は…すご、また二頭仕留めた……」
「……いや、一頭だ」

思わず漏れた声に忌々しそうに返された言葉通り、よろめいた四頭目はすぐに体勢を立て直して、急所とはやや外れた位置から血を流しながら他の鹿たちと一緒に走り去ってしまった。あの位置なら出血死することはまずないだろう。事態に気付いた杉元さんが咄嗟に撃った一発は、直後吹き荒れた風に目を閉じている間に行方知れずとなってしまった。

そのままアシㇼパさんの指示に従って白石さん以外の全員で鹿の毛皮を剥いで内臓を取り出そうとする中、錯乱した白石さんがよりにもよって素っ裸になりだしてもう全てがしっちゃかめっちゃかだ。
杉元さんが白石さんを捕獲して服を着せ直してくれている間に残りの三人で鹿を捌き、「なまえ、お前は白石と入れ!」と叫ぶアシㇼパさんの声に返事をして、私の捌いた鹿の中に杉元さんが連れてきた白石さんを誘導する。私とアシㇼパさん以外が二人一組で中に入るには無理があるし、私なら万が一白石さんが外に飛び出しても連れ戻すことができる。諸々の問題は後で考えるしかない。

「って白石さん頭そっちじゃないです!!逆!!それじゃ私が入るスペースなくなっちゃいます!」
「出てこいシライシ!おい潜るなッ!!」

素直に従ってくれる様子に安堵したのも束の間、そのまま足の先まで鹿の中に消えてしまった白石さんの満足気な顔が、にょきっと後ろ足の間から生えてきた。慌てて頭をベシベシ叩きながら訴えたものの、いやいやとさらに潜り込んでしまう。

無理矢理移動させようと両腕を入れた鹿の中は驚くほど暖かくて涙が出そうになるけど、鹿を捌く作業ですっかり悴んでしまった指先は白石さんの半纏をまともに掴むこともできない。歯が震えて勝手にカチカチと音が鳴る。

「なまえさんどいてくれ、一度引っ張り出す!」と言われて後退しかけた体を、不意に鳩尾周りを圧迫してきた力にぐっと後ろへ引き寄せられた。


「それに入るのは諦めろ!見張らなくてもこの寒さの中でわざわざ抜け出さんだろう!」

そんな尾形さんの声をすぐそばで聞きながら、半ば引き摺られる形で白石さんの入っている鹿から離される。その間に膝を曲げた格好で固まっていた杉元さんと目が合えば、はっと我に返った様子でこちらに手を伸ばしてきた。

「ちょっ、待った!!尾形待った!!」
「待てるか!全員凍死するぞッ!」
「いやでもっ…!」

この一刻を争う事態の中、言葉を濁してもう一度私を見た彼が誰のためにこんな行動を取ったのかすぐに分かって、ガチガチと鳴り止まない歯を無理矢理開ける。

「すすす杉元さん、私は大丈夫です!アシㇼパさんををおお、願いしますっ……!!」
「杉元!早くしろこっちだ!」
「…っ!」

それでも釈然としない様子の杉元さんに、別の鹿のそばで待つアシㇼパさんが一喝する。その声に視線を動かしてから再び私を見た杉元さんへどうにか顔を歪めて笑い返せば、ぐっと眉間に皺を寄せ、それから視線だけで人を射殺せそうな形相を私の背後に向けて「……なまえさんに何かあったらぶっ殺すからな」と地を這うような声を吐き出し、ようやくこちらに背中を向けた。

そのまま尾形さんに連れられて辿り着いた最後の鹿。何も言わずに私から剥ぎ取ったサラニㇷ゚を粗雑に足元に置き、先に中に入っていった尾形さんに渡された鹿皮を二人の足に巻き付けようとしても感覚のほぼない手では上手くできなくて、モタモタしていたら出てきた尾形さんに舌打ちしながら鹿皮を奪われ、代わりに鹿の中に押し込まれる。それから少しして再び尾形さんが中に潜り込んできて、鹿と私の背中の間に無理矢理体をねじ込んできた。


ほんの少しだけ遠くなった、轟々と唸る風の音。隙間のある足元から入る僅かな光も視界を確保できるほどではなくて、血肉と脂と獣の匂いが満ちた暗闇の中、胸の前で両手を握りながらじっと凍えの余韻に耐える。やがて体を包む鹿の命の暖かさは少しずつ私の中に染み込んできて、震えが治まり始めたのを実感しながらゆっくりと息を吐いた。外に出さざるを得なかった足も、鹿皮のお陰で凍傷になるようなことはないだろう。

「居心地が良いとはお世辞にも言えんが、凍え死ぬことはなさそうだ。あとは風が治まるまで大人しく待つ他ないな。

……さて、時間はたっぷりできた。せっかくの二人きりだ、腹を割って色々と話そうじゃあないか。なぁ?」
「ひぇ…」

すすす、と私の横腹を滑り降りた手が腰の辺りで止まり、背後であの三日月のように歪んだ目と口が真っ暗闇の中に浮かんでいる様子が容易く想像できて、ぶるりと大きく身震いした。

杉元さんごめんなさい。前言撤回します。全然大丈夫じゃないです。


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