意識とほぼ同時に取り戻した視界は、新月の夜のように真っ暗だった。
あれ、今って夜だっけ?と一瞬混乱したものの、すぐにここが鹿の中であることや、ここに至るまでの経緯を思い出す。つまり後ろの呼吸は尾形さんか。下手に動き出す前に思い出せてよかった。
感覚や空間の暖かさで目を閉じてからそこまで時間は経過していないことが分かるけど、あれだけ騒がしかった外は今とても静かだ。そう思ったのも束の間肉の壁の向こうから物音が聞こえた気がして、耳を澄ませるより先に足先に何かが触れた。
驚きで固まっている間に、今度は尾形さんの足ごと脹脛に軽く小突かれたような感覚。耳元で「おい」と囁く声に「気付いています」と呟き返す。
「追っ手か」
「分かりません。先に出て確認します」
問答無用で殺すつもりならとっくに鹿ごと刺し殺されているだろうけど、かと言って外に出るよう促す声も聞こえない。訝しげに思いながら毛皮を肩から外して、短刀に手をかけたままずるりと外へと這い出した。
想像以上の眩しさに短い瞬きを繰り返しながら上体を起こすと、青空の下に見慣れない山塊の景色が広がっていた。
視界に危惧すべきものは見当たらず警戒を続けたまま体ごと頭をぐるりと背後へ回した瞬間、目の前に見知った顔が現れてヒッと息を吸い込む。
焦げ茶色の毛に覆われたヒグマの大きな顔が、私が出てきた鹿の匂いをフンフンと嗅いでいた。迂闊に動かせない視界の端で、他にも三頭程立派な体躯のヒグマたちが人の足の生えた鹿の周りをうろついているのが見えて、じわじわ血の気が引いていく。息を潜めて硬直している私よりも今は目の前の鹿肉に夢中な様子で、鼻面がこちらを向く気配はない。
興味を持たれないよう自分の心臓の振動を感じながら少しずつ体勢を変える中「あッ」と聞こえた声の方を見ると、鹿の中から出てきたアシㇼパさんと目が合った。周囲を警戒しつつ顎で方向を差す彼女に無言で頷き、肉の味見を始めたヒグマから目を離さず尾形さんの足を数度叩いて中から毛皮を引き出す。
銃を携えて出てきた直後、周囲の状況にさすがに動揺を態度に示した尾形さんへ「刺激せずに移動しましょう」と伝えて、近くにあったサラニㇷ゚を回収しなるべく音を立てずにアシㇼパさんに指示された方向へ向かう。
その最中、「白石が持って行かれる!!」という杉元さんの声に振り返ると言葉の通り鹿ごとヒグマに引きずられていく白石さんが見えて、「げっ」と思わず声が飛び出す。
が、次の瞬間偶然外に放り出された白石さんが耳障りな産声を上げた。今まで一度も耳にしたことのない音に驚いたのか、一斉に距離を取ってこちらを警戒し始めたヒグマたち。その隙に一切状況の掴めていない白石さんを回収して、アシㇼパさんの先導でゆっくりとその場を離れた。鹿肉は惜しいけど、少しでも人の痕跡が消えることを良しとするしかない。
「なまえさん」
しばらくするとヒグマの気配もなくなり、現状と今後について整理するために落ち着いて話ができそうな場所を探す中、呼ばれて顔を向けると杉元さんがこちらを見て手招きしていた。
少しだけ歩みを早めて横に並べば、チラリと後方に視線を投げてから声を潜めて話しかけられる。
「その……大丈夫だったかい?」
おおよそ推察していた通りの言葉に、口角を上げて頷く。
「はい。そもそも尾形さん、前から気付いていたそうです」
「え」
「それに口外もしないでくださるそうです。得がないからって」
旭川で白石さんへの疑いが晴れた後日、杉元さんたちには土方さん方に隠し事がとっくに気付かれていたことを簡略に伝えてあった。だから殆どの人にばれちゃいましたねという意味を込めてへらりと笑いかけたけど、杉元さんの眉間にははっきりと皺が刻まれる。
「……そんなの信じられるわけないだろ」
「そうですけど、まあ、その時はその時ですよ。尾形さんの言う通り、誰かに知られたところでご迷惑をかけることはないでしょうから」
「そうかもしれないけどさあ……」
どうにも納得していない様子の杉元さんの表情に、はて彼は何を懸念しているのだろうかと疑問を抱く。でも頭の中に候補を並べるより先に、さらに前方から鈴の音が転がってきた。
「杉元はなまえの秘密を知っている奴が増えるのが単純に面白くないんだ」
「え」
「アシㇼパさんっ!言わないでって言ったでしょ!」
「言われたけど約束してない」
声を潜めつつも即座に抗議した杉元さんに、ケロッとした顔で言い返すアシㇼパさん。そんな彼女の発した言葉の衝撃に、ただでさえよろしくない頭の回転が極端に悪化していくのがわかる。
杉元さんが尾形さんへの心象の悪さをあからさまに態度に出すのは、別に今に始まったことじゃない。でもそんな、たかが私の性別を知られたくらいで理屈もなく気に入らないと機嫌を悪くするなんて、そんな子供みたいな態度、尾形さん関係ではいつものことだけど、そんな、そんなの──!
「やだかわいい…!」
「……ちっとも嬉しくないんだけど」
「おっと失敬」
うっかり零れ落ちてしまった言葉に唇を尖らせた杉元さんを見て自分の口を手で押さえるけど、その下で口角はどんどん上がっていく。尾形さんが気に食わない杉元さんの神経を逆撫でしたものに今回は偶々私が関わっていただけだと理解はできても、アシㇼパさんの言葉を鵜呑みにする単純な頭は杉元さんが損得抜きで私の隠し事を特別なものとして扱ってくれていたことが嬉しくてたまらない。
浮かれた足取りのままいつの間にか少しだけ距離が開いていた杉元さんの隣にもう一度並びながら、空の上にいた時よりも随分血色の良くなった横顔を覗き込んだ。
「杉元さん。大変な旅の中なのにいつもありがとうございます。こんなに心配してくださる方にそばにいてもらえて、とっても頼もしいです」
「あ、そ、そう……?」
もちろん自分の身は自分で守るつもりだし、なるだけ迷惑をかけたくない思いも変わらない。
でも今は、夕張の頃とは違って杉元さんの優しさを素直に受け取ることができた。
そんな気持ちを込めて本心を伝えれば、すうっと消えていく眉間の皺。それから少しの間前方に視線を戻してポリポリと指で顎を掻いた後、精悍な顔がもう一度私を見て目を細めた。
「……困ったことがあったらいつでも言ってね。特に尾形に絡まれた時とか。ギッタギタにしてやるから」
「あはは……その時はよろしくお願いします」
善意と優しさに満ちた物騒な言葉をとりあえず受け取り前を見ると、少しだけ先で立ち止まっていたアシㇼパさんのもの言いたげな半眼と目が合った。「アシㇼパさん?」と近付きながら声を掛ければこちらを見たまましばしの無言の後、ゆっくりと口が開かれる。
「……困ったら一番先に私に言うんだぞ」
「ン゛ンッ」
「はわっ」
息が吸えなくなって、たまらず胸を抑えた。
***
見晴らしの良い岩場での休憩中に杉元さんから出た提案は、東の網走方面ではなく南の十勝方面への下山だった。追っ手の目を掻い潜ると同時に、鈴川が生前杉元さんに打ち明けていたここから南東の地釧路にいたという刺青の囚人の足取りを追う案だ。正直なところ鈴川の話が口から出任せの可能性も捨てきれないけど、前者の目的もあって反対意見が出ることなかった。
「それにしても腹減ったなあ……。なまえちゃーん、何かないのー?前は干し肉持ってたでしょ?」
話が一段落したところでお腹をさする白石さんに声をかけられた。確かに私もそろそろ胃に何か入れたい時分ではあるけど、期待に応えられないことを伝えるために首を横に振る。
「夕張からの道中で食べきっちゃいました。私の作り方は暖かいと日持ちしないので補充もしてなくて……あ、そうだ」
「え、なになに?何かあるの?」
白石さんへの返答で思い出した荷物。もぞもぞと背中の風呂敷を解いて中から小さな袋を取り出し、勝手に両手で器を作り待っていた白石さんの手のひらへ中身を三粒ほど落としてみせた。
「……なにこれ」
「兵糧丸」
「忍者かよ」
「んえぇ〜?」
どうでもよさげに言われた白石さんの台詞にどきりとしつつ、気にも止めていない態度を装い話を流す。麦粉に餅粉に酒、あとは黒豆とか胡麻なんかの手に入ったものを適当に混ぜて蒸して干した携帯食は、旭川での滞在中にもっぱんと一緒に作ってみたものだった。
古臭いくらいは言われても合戦中は身分に関わらず食べていたから特に問題はないだろうと思っていたのに、まさかピンポイントで指摘されるとは思わなかった。今はそういうイメージが浸透しているのだろうか。
「味の想像が全くつかないんだけど。……ほんとに食えるのコレぇ?」
「勿論。ささ、とりあえず一気にどうぞ」
「んえぇ〜……?」
あからさまに嫌そうな顔で自分の手の中を眺めていた白石さんだったけど、その顔をじっと見続けていたらやがて意を決したようにがばっと口に放り込んだ。
興味深げな視線がおまけで二つ増える中、眉間に皺を寄せて咀嚼し続ける白石さん。やがてごくりと喉仏が動いたのを見逃さずに期待を込めて声をかける。
「どうです?どうです?」
「……まあ、食えなくはないし不味くもないけど、腹は膨れないっていうか……」
「……そうですか」
正直な感想をありがたく受け取りつつも、気持ちは少しばかりしぼむ。本当ははちみつを入れたかったけど高くて買えなかったし、代わりの砂糖もあまり沢山は入れられなかった。自分で味見した時にはまあまあの出来だと思っていたけど、舌の肥えた白石さんにはいまいちだったようだ。
そもそも効率の良いカロリー補給が売りの兵糧丸は、白石さんの空腹を満たすという目的には適していない。試しに作ってはみたものの季節が夏に変わる今、アシㇼパさんと尾形さんがいれば食料に困ることも、体を動かすための最低限の栄養摂取に迫られる機会もまずないだろう。
つまり今回の出来は。
「失敗かあ……」
「食ってる人間の前で失敗とか言わないでくれる?あとないよりいいからもっとちょうだい」
再び差し出された手に追加で渡していたら、先程から一人背中を向けていたアシㇼパさんに「何やってんの?」と杉元さんが話しかけた。
辺りに見かけるネズミらしき生き物を獲るために“プラーシカ”という罠を仕掛けていたそうで、実際にぺしゃんこになった獲物を見せてくれた。
ロシアに暮らす少数民族の罠だというそれを見ていたらくいくいと袖を引かれ、顔を向けると口を大きく開けた顔がこちらを見上げて白石さんを指さしていた。求められている物はすぐに分かったけど、風呂敷から別の包み紙を取り出してそっと開く。
「アシㇼパさんはこっち」
「あーっ!?」
白と黄の金平糖を一粒ずつアシㇼパさんの口に放り込むと、背後から白石さんの大きな声が飛んできた。
「俺もそれ欲しい!ちょーだいちょーだい!」
「だめ」
「杉元は関係ないだろ!!」
「なまえ、まだこの罠は教えていなかっただろう。一つ作ってみろ」
不服を訴える白石さんは杉元さんに任せて、私はアシㇼパさんと少し離れた場所に移動して手頃な岩に腰かける。
「仕組みは単純だからまずはやってみろ」
「はい」
山杖を少し分けてもらい早速作業に取り掛かることにした。まずは小さな板を三つだ。
「なまえは柿を知っているか」
木片を縦に割って大まかな形を削り出していたら、横からアシㇼパさんの声が聞こえた。久しぶりに耳にした食べ物の名前に一度手を止めて視線を向ける。
「かき?……木の実のですよね?」
「ああ」
私の手元を覗き込む後頭部がこくりと頷いたのを確認して、指先に意識を戻す。
「はい。でも、そういえば北海道に来てからはまだ見ていないです」
「ここにはないんだ。私も言葉でしか知らない」
「ああ、そうでしたか」
道理でこの五年間一度も目にしなかったわけだ。それでも容易に頭の中に浮かぶ鮮やかな色の実は、もしかしたらいくらか実物とは異なっているのかもしれない。
「なまえは干し柿は好きか?」
「はい。甘くて美味しいんですよ」
「……また食べたいくらい?」
「もちろん。機会があればぜひ」
冬の楽しみの一つだったその味は、さすがに朧気にしか思い出せない。柿の木がないなら北海道ではそれなりの値段がするだろうなあと思っていたら、「私も、」とアシㇼパさんが再び口を開いた。言葉を遮らないよう続きを待つ。
「私も干し柿、好きになるかな」
手を止めて顔を上げた。相変わらず私の手元を見ている顔がどんな表情を浮かべているのか分からないまま背後を振り返り、アシㇼパさんが捕ったネズミを摘み上げている彼を見る。
北海道にはない木の実について彼女が知った経緯をなんとなく察せば自然と口元が緩んで、もう一度艶やかな黒髪を見下ろした。
「……はい。きっとアシㇼパさんも気に入ってくれると思います」
「……そうか」
指先に力を入れ直しながら、いつの日か干し柿を口にした彼女がどんな表情をするのか、想像せずにはいられなかった。それを横で見守る、彼の姿も。
その後作り上げたプラーシカはアシㇼパさんから無事合格を貰えたものの、餌にしようと思っていた兵糧丸は「なんか癖になる」と制作中にも催促してくる白石さんに袋ごと渡しておいたら全部食べられていた。やっぱりちょっと食べたかったらしいアシㇼパさんの指示で杉元さんが白石さんの尻を引っ叩いた。杉元さんの回復力本当にどうなってるんだろう。
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