大雪山を離れた私たちは、その後杉元さんの提案通り釧路へ向かって移動を始めた。
追っ手に痕跡を辿られないよう、当面は月形への移動時のように近隣の村へ近づくことは避ける。以前と違って銃の使えない状況は何かと不便は多いものの、初夏の森はお腹いっぱいとはいかずとも私たちの体力を保つだけの食料を恵んでくれた。少なくともまだ虫に手を出す話は誰からも出ていない。
そして日も傾いた今、一行は白石さんの用足し待ちをしていた。
アシㇼパさんと杉元さんが進行方向に集まっていたのでなんとなく後方を見張る尾形さんのそばにいたら、杉元さんに呼ばれた。「そんなとこいないでこっちにおいでよ」と笑顔で手招く彼に誘われるがまま一歩踏み出そうとしたら、上半身だけがぐいっと後ろに引き戻される。途端に杉元さんの顔からすとんと表情が抜け落ちて、背後で短く鼻息を漏らす音が聞こえた。
「……おい尾形、手ぇ離せよ」
「こっちはこっちで追っ手を警戒してるんだ、無駄話なら後にしろ」
「耳クソ詰まってて聞こえなかったか?その手離せって言ったんだよ。なまえさんが嫌がってんだろうが」
「どこがだ、別に嫌がってないだろ。色々と教えてやってるからな、むしろ慕われてるくらいだ。なあそうだろ?」
「……もう一度顎割らなきゃ分かんねえみたいたな」
「おいおいムキになるなよ。いくらこいつが“小僧”だからって過保護すぎるんじゃないか?」
“二人とももうやめてっ!私のために争わないで!”
背中から肩に移動した手の重みと前から近付いてくる気迫をどこか遠くの出来事のように感じる中、どこで見たのか聞いたのか、ふと頭に浮かんだセリフ。何故か私の記憶の引き出しは今の状況を同じものだと判断したらしいけど、とても口にする気にはなれない。だって。
「二人とももうやめろ、なまえを使って争うんじゃない」
そう、それ。
いつの間にか杉元さんの隣に居たアシㇼパさんがよく通る声で窘めると、図星だったのかやや間を置いてすっと離れていく握力と圧力。そこでようやく自分の体が強ばっていたことに気付いて、小さく溜息を吐いた。
旭川ではかなり大人しくなっていた二人のやり取りに再びトゲを感じるようになったのは、白石さんを救出して杉元さんが調子を取り戻したからか、はたまた二人とも肉が食べ足りないからか。まあ事ある度にという訳でもないので、残り三人とも実害がない限り相手にしないことにしていた。杉元さんアシㇼパさんにはほっときなよって言ってたのに。
「痛あッ!!」
その時、風下にある大木の裏側から白石さんの悲鳴が上がった。命に関わるような緊急性は感じられない声にアシㇼパさんと杉元さんがやれ肛門に小枝だの金玉に笹だの好き勝手言っている間に戻って来た白石さんの顔は、忌々しげに自分の手元を睨んでいた。
「転んでヘビに頭咬まれた」
「あ」
「ヘビ!?ぎい〜ッ!!」
白石さんの手から垂れ下がったゆったりとくねる紐を見た途端、威嚇のような呻き声を上げたアシㇼパさんに物凄い力で杉元さんの横に引き寄せられて、二人並んでアシㇼパさんの壁になる。片手を背後に回して上着を掴む腕をあやすように優しく叩いてみたけど、荒い鼻息が治まる気配はない。
アシㇼパさんは昔からヘビが大の苦手だ。そもそも小樽のコタンでは大人も子供も毛嫌いしていたから、アイヌの人達は大抵ヘビが嫌いらしい。
「蝮じゃねえか!!毒あるぞソレ」という杉元さんの指摘によくよく見れば確かにそれは北海道で唯一だと聞いている毒蛇で、こういう所は引きがいいんだなあと蝮の生死を確認するアシㇼパさんの声を聞きながら頭の端っこで考えてしまった。その間に白石さんの体はどんどん地面に近付いていく。
「咬まれたとこすげえいたくなってきた……毒で死ぬかも……アシㇼパちゃん吸い出してくれれ!!」
「いろいろと気持ち悪いから嫌だ!!蝮の毒ではめったに死なないから我慢しろ。日が落ちて暗くなる前に薬になる草を探してくる!」
清々しい即答の直後に背中の圧力がなくなり振り返れば、かなりの速さで離れていくアシㇼパさんの背中。
「アシㇼパさんま」
「逃がすかッ!!」
「うわっ」
慌てて追いかけようとしたら白石さんが勢いよく長靴にしがみついてきて、転びかけた体勢を整えている間にアシㇼパさんはさっさといなくなってしまった。毒が回る前に迅速に対応しなければならないのは当然なのだけど、それにしても早い。
こうなったらとりあえず足元の彼をどうにかせねばと思い、しゃがみ込んでなるだけ穏やかな声をかける。
「白石さん、まずは落ち着きましょう。興奮すると毒の回りが早くなりますから」
「そんなの噛まれてないから言えるんだろ!もうなまえちゃんでもいいからさあ、俺が死なないように毒吸ってくれよ!」
「……白石さん、最後にお風呂に入ってシャボンを使ったのいつですか?」
「え……いつならいい?」
「アシㇼパさんが戻ってくるまで安静にしていましょうね」
「水でなら飲むついでに洗ってるってばぁ!」
できなくはないけどできればしたくない。食い下がる白石さんへ何も言わずに首を左右に振り続けたら、今度はこちらを見下ろす二人にも頼んでいたけどあっさり断られた。あんなに静かにきっぱり断る尾形さん初めて見た。正論だけどよっぽど嫌だったんだろうな。
そうこうしている間にも白石さんの頭はどんどん腫れ上がっていく。顔や首を噛まれていたらそれこそ窒息の危険もあったわけだから、本当に運がいいのか悪いのか。
「頭すんげえ腫れてきた……お前ら俺が死んでもいいのかよ……!」
「それは勿論よくないですけど、他に私が知ってる治療法って毒が回る前に患部を火薬で吹っ飛ばすくらいしか……」
「無理ッ!!おいそこの二人弾薬盒漁るな!!」
「でももう遅いから効果はないと思いますよ」と続けようとした言葉を飲み込む。きっと火に油を注ぐことにしかなるまい。
安静にしないといけないのに、さっき蛇に咬まれたばかりの状況で懲りずに地面に伏せたまま一向に落ち着く気配のない白石さんをしばし眺めて、一つため息をついた。
できなくはないけどできればしたくない。
でもまあ、できなくはない。
口の中で舌をグルリと這わせて、痛みや怪我に覚えがないことを確認する。
「ほら、白石さん起きてください」
「なんだよ薄情者ぉ……」
手拭いを取り出しながら声をかければ、文句を言いながらも体を起こす白石さん。手頃な高さまで来たところで出血の続いている二つの赤い点の周りを気休め程度に撫で拭いて、両手で頭を挟んでから息を止めて傷口に吸い付いた。
唇の薄い皮膚に熱とブニブニとジョリジョリが一度に伝わってきて、思わず眉間に皺が寄る。やっぱりジョリジョリは手で楽しむものだな。
なるだけ舌を付けないように口を窄めると唇の端からネズミの鳴き声に似た音が不規則に盛れて、やっぱり大雪山で聞いたネズミは少し鳴き方が変わっていたなと今更ながらに思う。
そのまま傷口を吸って唾液を吐き出す流れを数度繰り返した後、顔を離してひとつ大きく鼻で息をした。
「──はい終わりです。あとはアシㇼパさんを待ちましょうね」
頭蓋骨があるから深くは噛まれなかっただろうし、毒を吸い出すためとはいえこの状況で頭を切るのはやめた方がいいだろう。今更この程度の処置をしたところで効果があるとは思えないけど、白石さんの気休めになって落ち着いてくれたらそれで十分だ。
もう一度唾を吐き出して口元を拭った手の甲はちょっとキラキラしていて、それ以上深く考えないようにしながら手拭いで擦る。それからサラニㇷ゚から水袋を取り出して顔を上げると、両手で傷口を抑えて呆然としている白石さんと目が合った。
「はわ……」
「……冗談だったのになんて言ったら流石に怒りますからね」
「む、胸がドキドキする…」
「えっ、動悸?」
ほんのり赤みの増した顔を見て首元に触れるけど、発熱も脈拍の乱れも感じられない。腎不全や意識障害が起こるには少し早い気がするし、そもそも蝮の毒の症状に動悸ってあったっけ?
はてと首を傾げていると背後に人の気配を感じて、振り返ればちょうど杉元さんが私の横にしゃがみ込んだところだった。場所を譲るべきか眺めていたらそのまま大きな手に肩を掴まれ、もう片方の手に外套の袖を口に押し付けられてゴシゴシと左右に擦られた。
「んぶ!?す、すぶっ、すぎぼ、い゛ぁっ!?いふぁいぶぁいッッ!!」
薄い皮を襲う激痛に咄嗟に目の前の腕を掴むけど、動きを鈍らせることさえできない。それでも力一杯顔を背けながらバシバシ腕を叩いて拒否の意を伝え続ければ、おまけで何度か繰り返された後ようやく開放された。
ビリビリ痺れる口は閉じることも触れることもできなくて、痛みに悶えながら杉元さんに抗議の目を向けたら真顔で「ばっちいから」と一言呟かれたけど一切納得いかない。
ふと視線を向けた先では口を半開きにしたまま愕然とした表情の尾形さんがこちらを凝視して固まっていて、ネコチャン!!とまた余計な引き出しが開いた。
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