配膳されたオハウの肉を口にした後、誰かが次の言葉を発するまでの時間はいつも以上に長かった。
「う〜ん…」
「泥臭いようなムッとする変な匂いだろ?」
杉元さんに語りかけるアシㇼパさんの隣で、「なんで丹頂鶴なんか獲ったんだ!」と頬を膨らませて不服を示す白石さん。舌の肥えた彼には一段と不評らしい。
かく言う私も丹頂鶴を食べるのは初めてで、確かに三鳥五魚として持て囃されていたあの頃も食べられていたのはナベヅルかマナヅルだったなあ、とそれらに比べて餌の影響がよく出た風味の肉を噛み続ける。酒で洗ったり行者ニンニクを入れて臭みを取ればまた違うのかもしれないけど、残念ながらここにはない。
とはいえ空腹にはこのオハウも十分ごちそうで、称賛の声は聞こえずとも誰も箸を止めることはなかった。
「普段は獲らないけど、杉元が『北海道の珍味を食べ尽したいんだ』といつも言ってたから…」
「へー」
「言ってねえだろ。俺はそんな目的で北海道を旅してるんじゃないんだよ!」
その話記憶にないなあと思っていたら本人も初耳だったらしい。すかさず入った訂正を聞きながらオハウを食べ進めていたら、目の前に空になった飯盒の中蓋がずいっと突き出された。伸びた腕を辿れば持ち主の尾形さんと目が合って、無言のまま顎で鍋を指される。鍋の中身をよそえということらしい。
全員で鍋を囲んでいるのだから当然私の目の前にある鍋は尾形さんの目の前にもあるわけだけど、特段気にする事でもないので蓋を受け取り汁杓子を持ち上げる。
「肉増やせ」
「他の方も召し上がるかもしれませんから、とりあえず私の分ひとつ差し上げますね。──はいどうぞ」
「塩も少し足せ」
「少し待ってくださいねー……このくらいでいかがですか?」
無言は肯定とみなし指先に摘んだ塩をよそったオハウにかけて「まだ熱いですよ」と差し出せば、返事はないものの口を付ける前に汁へと軽く息を吹きかけているのが見えてちょっとばかり頬が緩む。そのまま食事を再会しようとしたら視界の端でこちらを向いている顔を見つけて、顔を上げるとそこには不満げな表情でこちらを見下ろす杉元さん。
もぐもぐと顎を動かしている彼の物言いたげな様子に首をかしげれば、ごくりと喉が上下した後、への字になった口が開かれた。
「…なまえさんさぁ……このところ尾形の世話焼き過ぎじゃない?」
「うっ」
図星な言葉に、思わず呻き声を上げる。
「…それ杉元が言うか?ここしばらくなまえちゃんの面倒見まくってたのお前じゃねえか」
「そこまでじゃねえよ。それに足怪我してんだから手助けするのは当然だろ」
白石さんとのやり取りを聞きながらそっと視線を逸らせば、「ねえアシㇼパさん?」と偶然にも視線を外した先へ向かって声が続く。
「……ん?ああ…」
なんだかちょっとぼんやりした様子のアシㇼパさんに違和感を覚えたけど、空になった器に気付いて先に声を掛ける。
「アシㇼパさんもおかわりいかがですか?」
「食べる」
「器預かりますね。お肉増やしますか?」
「いい、なまえもしっかり食べておけ」
「はい。あ、口元に菜っ葉が付いてますよ」
「ここか?」
「反対です。杉元さんすみません、前を失礼します。アシㇼパさん顔を近づけてもらえますか?」
「ん。──で、なまえが尾形の世話を焼き過ぎているって?別にそんなことはないと思う」
「そーねそーね、アシㇼパさんからしたら誰でもそうなるでしょうねっ!」
期待通りの返事がもらえなくてか急にぷんすこと不機嫌になってしまった杉元さんに戸惑いつつアシㇼパさんへ器を返し、流れが悪化する可能性を心配してちらりと反対側に視線を向けると杉元さんには目もくれずに黙々と食事を進める尾形さんの姿。興味のない話だったかあと思っていたら器で隠れる直前の口元が弧を描いているのを見てしまった。本当にいい性格をしている。
「ちょっとちょっとぉ、さっきは俺にあんなに怒ってたのになんか反応薄くない?贔屓だ贔屓!」「お前は自業自得だろバカ」と聞こえてくるやり取りの横で、もう一口汁を啜る。
正直なところ、杉元さんの言葉は大当たりだ。ここ最近の尾形さんへの甘さは自分でもまあまあ自覚していた。
だって旭川を出てからは突然髷を引っ張られることもなくなったし、気に入らないことがあっても最近は理不尽な暴力の代わりにさっきみたいな地味な嫌がらせで済むことが多くなった。あまりにもヘマをすると手か足が出てくるけど。
おまけに横暴な態度の中にもさっきみたいな素直さを感じる機会も増えて、なんだか尾形さんも尾形さんなりにこの一団に馴染んできているような気がして微笑ましく思えてしまい、ここ最近はちょっとした我儘のような要求を大抵言われるがままに叶えてしまっていた。確かに杉元さんから見れば、私が尾形さんの世話をせっせと焼いているように思えたかもしれない。
何だかんだ要望を主張してくる白石さんや尾形さんと違って、杉元さんには我儘どころか何かを頼まれることだって滅多にない。逆にアシㇼパさんだけでなく私のことまで気にかけてくれる彼には、私の方が何かをしてもらってばかりになってしまっていた。
特に足を捻挫してからはアシㇼパさんが世話を焼いてくれる横で「俺も何かしようか?」「必要なことがあったら言って」とこまめに声をかけてくれるから、言葉に甘えてあれこれと手を借りてしまっていた。
ああ、言われてようやく気づくとは情けない。これでは杉元さんだけがフェアじゃない。
「すみません杉元さん…たしかに私、杉元さんには何かするんじゃなくてしてもらってばかりになっていました」
「え、いや別にそれはいいんだけど…」
「いいえよくないです。杉元さんには頼ってもいいんだってすっかり甘えきって、最近はあれしてこれしてとお願いしてばかりでしたから」
「…そう、なの?」
「はい。でも、いただいてばかりではだめですね。ちょっとずつですけど、お返しできるように精進します。あ、とりあえず杉元さんもおかわりいかがですか?」
「あ、うん…」
あっという間に毒気が抜かれたように大人しくなった彼から受け取った飯盒の蓋にオハウをよそって返した後、ふと思い付いて上着に手を引っ込めて風呂敷を外す。大雪山での出来事を思い出してなんとなく白石さんの死角でこっそり目当てのものを取り出すと、杉元さんの膝を指先で叩いてそこに金平糖を乗せた。
貰ったものをお礼に使うのはどうかと思うところはあるけど、私の持ち物で杉元さんに喜んで貰えそうな素敵な物はこれくらいしかない。
口直しに後でアシㇼパさんにも渡そうと思いながらちょっとしたいたずらを仕掛けた気分で見上げれば、いつもより少しだけ大きくなった瞳が今度は柔らかく細められた。
「なまえちゃーん、おれもおかわりー」
「はーい」
「ねえねえ俺は?頼りにしてる?」
「いつも色々教えていただいて感謝してます」
「うんうん!」
白石さんに器を渡してついでに空にした自分の器も満たしたところで視線を感じて横を向くと、もう一度尾形さんと目が合った。草を投げ付けられた時と同じわずかに細められた瞳が、じっとりとこちらを見ている。
大丈夫ですよ。尾形さんは今のままで十分ですからね。
そんな気持ちを込めて、シパシパとゆっくり瞬きしながら微笑んだ。伸びてきた箸に肉を取られた。
「杉元は…どうして金塊が欲しいんだ?」
「まだ言ってなかったっけ。戦争で死んだ親友の嫁さんをアメリカに連れてって、目の治療を受けさせてやりたいんだ」
不意にアシㇼパさんが口にした言葉に、杉元さんが事もなげに返した。アメリカといえば、確か日高で出会ったダンさんの生まれ故郷じゃなかったっけ。初めて聞いた杉元さんの目的にとても彼らしいな、なんて頭に浮かんできた考えを振り払う。たかだか数か月の付き合いで何を知った気になっているんだ私は。
「『惚れた女のため』ってのは、その未亡人のことか?」
意識していた方角とは反対側から聞こえてきた言葉。顔を向けると薄ら笑いを浮かべた尾形さんが、髪を撫でつけながら杉元さんを見上げていた。
「え、そうなの?」なんて白石さんの呟きの後に数瞬を置いてその言葉の意味を理解して、胸がきゅっと締め付けられたような感覚に陥る。二人で恋のお話をしたの…?
「フン!トリ!フンチカㇷ゚!!」
その時、突然気迫のこもった声が辺りに響いてびくりと体が強張った。声の元を辿ればいつの間にかアシㇼパさんが鍋を囲む輪の外で上着の裾を持ち、バッサバッサと上下に大きく動かしている。
「アシㇼパさんどうしたの?」と私が頭に浮かべていた言葉と全く同じ杉元さんの問いかけに、アシㇼパさんはそれが釧路に伝わる鶴の姿を模した踊りだと教えてくれた。
「へえ……どうして急に踊ったの?」
「別に…鶴食べたから」
アシㇼパさんは杉元さんのことをどう思っているんだろう。
突然のアシㇼパさんの言動に、ふとそんな疑問が浮かぶ。
もちろんアシㇼパさんが杉元さんを慕っていることは承知している。苫小牧でもそんな気配はあったし、強くて優しくて頼りになって、性別や年齢で侮ることなく自分を尊重してくれる人と一緒に旅をしていたら、好意を持つことは極々自然なことだと思う。
でも、人の気持ちって色々だ。家族として恋人として友達として、言葉にしてみたら“好き”になる思いは存外沢山あって、同じ気持ちを持ち合えるとは限らなくても相手に向ける思いに互いの生まれも年齢も関係ない。
アシㇼパさんの杉元さんに対する好意がどんなものなのか分からないけど、それは私が意図して知るべきことでも、勝手に気を回すべきことでもないだろう。私にできることはアシㇼパさんがその気持ちを打ち明けてくれた時、決して否定しないことだけだ。
それから日高のコタンでの夜を思い出してそっと杉元さんを盗み見る。
あの時杉元さんが見ていたのは、亡くなられたご友人か、その奥方だったのかもしれない。当時の自分が感じた気持ちを思い出して、杉元さんの視線の先にいた誰かが生きているとは限らなかったのだと自分の浅慮さを恥じる。
杉元さんがご友人の奥方を思う気持ちはそれこそ分からないし、私が知るべきことでもない。ただ、過去には結果としてはこの国、今はご友人とその奥方、そしてアシㇼパさんのために自ら争いの中に踏み入る彼は、どこまでも誰かのために戦う人なのだなと性懲りも無く思ってしまった。
だからさっきから消えないこの胸のざわめきは、きっとそんな杉元さんを勝手に私が哀れんでしまっているんだろう。そんな自分が浅ましく思えて、こんな気持ち早く消してしまえと静かに息を吐いた。
「──こっちに誰か来るぞ」
そんな中、尾形さんの声がもう一度その場の空気を変えた。言葉に従って彼の視線の先を見れば、遠くからまた大小二つの姿が近づいて来ている。今度は心当たりのない、でもなんとなく見覚えのある姿に目を細めていると、すぐにその正体に気付いて自分の目が大きく見開いたのが分かった。
「チロンヌプと…チカパシだ。なんでこんなところに!?」
「知ってる子?」
「小樽のコタンの子です。どうしてあの人とここに…」
どうしてあの子が、しかも苫小牧にいたあの占い師と一緒に釧路にいるのか。何一つ理解できる状況がなく戸惑う中、女性──たしか、インカㇻマッさんだったか──を置いて駆け寄ってきたチカパシと目が合うと、こちらへ向かって振られていた腕が大きく広がり駆け寄るスピードが上がった。
「なまえーーッ!!」
「チカパう゛っ!?」
「でッ!」
転びそうな勢いの彼に名前を呼ばれて咄嗟に前に出て両腕を広げたら、躊躇なく飛び上がってきた額に胸骨を突き上げられて息が止まった。たまらずひとつ咳き込む中、額を手で押さえたチカパシが愕然とした表情で私の胸を凝視したまま一歩下がる。
「なまえの、トカプが、ない……!?」
「チカパシホントに何でここにいるの?」
そうだこの子そういう時期だったわ。ショックを受けた様子で小さく呟いた彼に胸を押さえたまま淡々と尋ねれば、「そうだ!」とはっとした顔で離れたチカパシはアシㇼパさんに近付く。
「遠くからアシㇼパが踊ってるのみえた、やっっと見つけた!!」
「私を探していたのか?」
「谷垣ニㇱパと小樽から探しにきた!!」
「谷垣さん…?」
どうして谷垣さんの名前が出てくるのか。どうして二人がアシㇼパさんを探していたのか。ますます訳が分からない状況に混乱する頭は、「でも…谷垣ニㇱパが大変なことに!!」というチカパシの言葉でさらに坩堝を極める。
「谷垣に一体なにが?」
「谷垣ニㇱパは私たちを巻き込みたくなくてはぐれました」
杉元さんの言葉に返したのは、追いついたインカㇻマッさんだった。
アシㇼパさんに続きを促された彼女によれば、この辺りで最近家畜やシカを惨殺して粗末に扱う人間がおり、谷垣さんは地元のアイヌにその犯人と誤解されて昨日から追われているのだという。谷垣さんを知っているからこそ分かるとんでもない濡れ衣に、「そんな…」と思わず声が漏れる。
「アシㇼパさんさっきのオス鹿…」
「鹿?」
「…さっき森の中で殺されているのを見つけた。嫌な予感がするからお祈りだけしてきたけど、恐らくは数時間前にその犯人が殺した鹿だったんだろう」
心当たりがありそうな二人に尋ねれば、なんともタイムリーな答えが返って来た。真犯人はまだ近くにいるらしい。
インカㇻマッさんはさらに詳しい経緯を教えてくれた。数日前に森で"姉畑支遁"と名乗る学者と行動を共にしたところ、翌日その男性と一緒に谷垣さんが携えていた銃と弾薬が消えてしまったのだそうだ。偶然にもその前日に出会ったアイヌの男性が谷垣さんの銃の特徴から知人だった前の持ち主を言い当てていて、恐らくはその銃が新たな犠牲に使われたことで谷垣さんが犯人であるという誤解が生まれてしまったのだろう、と。
舌打ちと一緒に「銃から離れるなとあれほど…」という忌々しげに呟く尾形さんの隣で、白石さんが網走監獄にいた学者の囚人の噂を教えてくれた。あちこちで家畜を殺し、見つかった牧場主に大怪我をさせて捕まったらしい。
「詐欺師の鈴川聖弘から聞いた情報と一致するぜ。そいつが入れ墨脱獄囚24人のひとりだ」
杉元さんの一段と低くなった声が、私にとっての不幸中の幸いを告げた。つまりは杉元さんにもその姉畑支遁を追う明確な理由ができたのだ。
それにしても谷垣さん、不運が重なってしまったとしか言いようがない状況が不憫でならない。
普段は穏やかな性格の人なのに何故かよくよく誤解されるうえに、よりにもよって誤解の内容がいつも物騒なのだ。ここでは動物を殺して回っていると誤解されているし、小樽の時なんて仲間を殺したと誤解さ──。
「──あ゛」
やっばい。忘れてた。
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