泥濘に足を取られないよう気を付けながら、六間程離れた先の背中からは決して目を離さない。
脛程の高さの草を蹴り分けて黙々と歩き続けていると不意にその背中が立ち止まり、振り返った口元が薄く笑った。

「なんだ、付いてまわる相手を間違えたか?」
「……谷垣さんをどうするおつもりですか」

犯人の痕跡を求めて鹿の死体を確認しに戻ったアシㇼパさんたちと別れてすぐ、あてもなく歩きながら犯人について話し込んでいた白石さんたちに何も告げずに突然一人別方向へと歩き出した尾形さんの後を追ってここまで来た。
わざわざアシㇼパさん達がいなくなってから単独行動を取り出した彼の目的はひとつしか思い浮かばなくて、揶揄う声を無視して尋ねれば微かに鼻で笑う音が聞こえた。

「察しの悪い脳ミソだな。先手を打つに決まってるだろ。奴は鶴見中尉の命令で俺を追ってきた可能性が高い」
「…仲間の兵士を殺した件、まだ疑っているんですか」

そう続けた私へ見下すような視線だけを返して双眼鏡を覗き込んだ尾形さんに、近付きながら言葉を投げ続ける。

「もう一度よく話し合ってみてください。きっと誤解があるんだと思います。だって、」
「『谷垣さんは殺していないって仰っていました』なんてふざけたこと抜かすなよ」

皮肉たっぷりなセリフを被せるように吐かれてしまい、ぐっと黙り込む。大体合ってる。

尾形さんが谷垣さんを疑う気持ちも理解できる。彼が仲間の兵士を殺していない確かな証拠は私も知らない。あの時の私には、谷垣さんが鶴見中尉を裏切っていようがいまいがどうでもよかった。
だけどあの谷垣さんが。動けるようになって何より先にコタンへの恩返しを望んだ谷垣さんが、フチさんとオソマとの約束のために自らの意思でコタンへと戻って来てくれた谷垣さんが、怪我が癒えたからとチカパシを案内に連れ出してまで尾形さんを殺しに来たとはどうしても思えなかった。


それなら私に谷垣さんと話をさせてください。油断して有益な話を聞き出せるかもしれませんよ。
とにかくチャンスが欲しくてそう言いかけた時、突然近くの森から銃声が聞こえてきて驚き顔を向けた。
最近耳慣れてきたものとはなんとなく違うような気がする音の先を息を潜めて注視する中、「おい」と私しか相手のいない呼び掛けに視線を戻す。そうして目が合った彼は、得意げに髪を撫で上げた。

「お前、俺を選んで正解だったな」

言うなりさっさと銃声の聞こえた方向へと歩き出した尾形さん。その先に誰を見たのか察しつつ、無言で後に続いた。



少しだけ斜面になった地形の上に辿り着き見下ろした先にいたのは、銃を持ったアイヌの男性たちに囲まれた見知った顔。咄嗟に名前を呼ぼうと開きかけた口は突然間近で響いた破裂音で思考ごと固まってしまった。
音源に近い右耳を押さえて衝撃に耐えてから顔を上げれば、大きく見開かれた目と視線が交わる。

「なっ、なまえ!?」
「谷垣さんッ!」
「おっと」
「ゴェッ!!」

駆け寄ろうと尾形さんの横を通り抜けた瞬間、首の前後に衝撃が入り喉から濁った悲鳴が押し出された。久々の感覚にちょっとした懐かしささえ感じる。できれば二度と思い出したくなかった。

「動くな、お前に弾が当たると後が面倒だ」
「ゲホッ、だ、だったら!」
「自惚れるなよ。お前ごとあいつを撃ち抜いた方が俺にとって都合がいいことには変わらん」

先程の食事で感じていた穏やかさが一瞬で消し飛ぶ冷え切った声に大雪山での出来事を思い出して、それが出任せに口にした言葉ではないことを悟る。私が二人の間に立ち塞がったところで弾除けにもならないのだ。

「オマエたち仲間か?」
「谷垣きさまは小樽にいたはずだ、何をしにここへ来た?
──鶴見中尉の命令で俺を追ってきたのか?」

谷垣さんを囲む男性の一人が尾形さんに声を掛けたけど、それには答えることなく尾形さんは谷垣さんへと問いかける。問答無用で引き金が引かれなかったことに少しだけほっとする私をよそに、二人のやり取りは続く。

谷垣さんの言う「世話になった婆ちゃん」とはまず間違いなくフチさんのことだろう。チカパシが言っていた通り、二人は本当にアシㇼパさんを探してここまで来たらしい。事情を詳しく聞きたいところだけど、今はそれどころじゃない。


「──頼めよ、『助けてください尾形上等兵殿』と」

谷垣さんの話を聞き終え僅かな沈黙の後、あくまでも挑発的な態度を崩さず次の発砲に備える尾形さんへアイヌの男性たちがさらに殺気つ中、谷垣さんは尾形さんが取るであろう選択を否定し、あくまでも話し合いで解決すると訴える。

「テッポ オスラ!」
「俺に銃を向けるな。殺すぞ?」
「尾形さんッ」

意味なんてないと分かっていても、谷垣さん大当たりの一番物騒な手段を口にする彼の名を呼ばずにはいられない。とはいえこれほど激昂している男性たちが矛先にいる谷垣さんの話をきちんと聞いてくれるのか疑わしいのも事実で、彼らが制裁に命を奪うことはないはずだといくら自分に言い聞かせても考え得る最悪の事態が頭から離れない。


「テッポ アマ ヤン」

そんな中、男性たちに向かって銃を置くよう告げたのは、一人離れた場所で事の顛末を見守っていた老人だった。「エカシ」と呼ばれた彼の言葉に他の男性達は暫し躊躇した後、不満げながらも銃を下ろす。

「おい、あのジジイはなんて言ったんだ」
「……推測が入りますが、谷垣さんをコタン…村へ連れていく、と。彼らの様子からするとあのご老人は彼らの村の村長のようですから、これから先はあの方が場を取仕切り決定を下すのだと思います」
「ふん、殺す手間が省けそうだったんだかな」

つまらなそうに口角を下げた尾形さんの隣で、不安な気持ちのままに拳を握る。彼らの谷垣さんへの誤解がどれほど広まっているのか分からないけど、今この場にいる男性たちだけがあの怒りようなのだと考えられほど楽天的にはなれなかった。


***


コタンに着くや否や谷垣さんはペペレセッに縛り付けられ、殺気立った男性たちがそれを囲んで激しい議論を始めた。警察へ連れていく、足の腱を切ってしまえ、いいややはり殺そう。
いずれも谷垣さんを犯人と決めつけた内容に、堪らず高床式の食料庫に上り傍観を決め込んでいる尾形さんから離れて谷垣さんと男性たちの間に割り込めば、怒りに満ちた視線が一斉に突き刺さった。

「なんだオマエ!」
「そんな見せかけの姿で俺たちを騙し通せると思っているのか!オマエもそいつの仲間か!?」

しまった、上着と鉢巻きの裏表を返しておくんだった。よりにもよってなタイミングでの自分の失態に舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、勢いに気圧されないように声を張る。

「共にアイヌの方々に命を救って頂いた身です、私も彼もあなた方が丁重に扱われてきたカムイを冒涜するようなことは決して致しません!件の犯人は他にいます!」
「でまかせを言うな!犯人はソイツだ!!」
「殺されたシカのそばでソイツの銃を見たやつがいるんだ!間違いない!」

だめだ、この人たち頭に血が上りすぎて話を聞く気がない。私の訴えに考える素振りもなく言い返してくる聞き取り切れない数の声に、つい言葉に詰まってしまう。先ほど冷静に場を収めたエカシさんも谷垣さんを裁く方針に異論はないようで、輪の中で何も言わずこちらを見守っている。
ダメ元でチラリと視線を向けた尾形さんは案の定手を貸してくれるつもりは一切なさそうで、こちらを観察する表情は少し面白がっているようにさえ見えた。尾形さんとしては谷垣さんが自分を追って来られなくなりさえすればそれでいいのだから、当然と言えば当然だ。

「どけ!ソイツと同じ目に合わせるぞ!」

そう言って前に進み出たのは集団の中でも一際体躯の良い男性だった。鼻息荒くこちらを睨み付けながらマキリの柄に手をかけて近付いてくる姿に、思わず短刀に手をかけようと浮かせた手を我に返ってぐっと止める。とてもじゃないけどあの男性の一撃を受け止められる気はしないし、受け流す方向を間違えたら谷垣さんが危ない。かといって男性を傷付けでもしたら最後、それこそ誤解を解く機会は永遠になくなってしまうだろう。

どうしよう、どうしよう。
焦りばかりが募って一歩、また一歩後ろに下がり、谷垣さんの体に腕が当たる。
「なまえ離れていろ!」と背後から聞こえる声を無視して、いっそのこと女だと打ち開けて涙でも見せれば少しは話を聞いてくれるだろうかと思い付き口を開こうとした私の視界に、大きな影が入り込んだ。


「ちょっと待った」

見慣れた背中に耳に馴染む声。目の前には犯人を探しているはずの杉元さんが男性の姿を遮るように立っていて、それを理解した瞬間胸いっぱいに安堵の気持ちが溢れて下瞼にギュッと力が入る。

「オマエもこの男の仲間か?どけっ!!」

でも杉元さんの言葉を顧みることなく怒声を発した男性は、杉元さんの横顔に躊躇なく拳を打ち込んだ。息を呑む私をよそに「まあまあ落ち着きなって」と男へ言い放つ声はいたく落ち着いていて、それが余計に神経を逆撫でしてしまったのか、さらに男性が杉元さんへと殴り掛かる。
男性を焚き付ける怒号が響く中次々拳がめり込む体は両足でしっかりと大地を踏み続けているけど、その光景に不安がどんどん募っていく。

「杉元ッ!」とすぐそばから聞こえた鈴の声を辿れば、いつの間にか隣に顔を強ばらせたアシㇼパさんがいた。
そんな彼女を手で制し、アシㇼパさんへと優しく微笑む杉元さん。

大丈夫だよ。
そんな気持ちが手に取るように伝わってくる表情を一緒に見て僅かに和らいだ不安は、次に男の顔面を真正面から殴り抜いた杉元さんの姿で他の感情と一緒に根こそぎ頭から吹き飛んだ。

一撃で地に沈んだ巨躯に周囲の空気が静まり返る中、輪の外から場違いに軽快な手拍子が聞こえてくる。


「犯人の名前は姉畑支遁。上半身に入れ墨がある男だ」

静寂が続く中よく通る声で話を始めた杉元さんが谷垣さんに近付いてきたので、そっとアシㇼパさんを挟んだ位置に移動する。その間に伸びた杉元さんの指が谷垣さんの胸元の釦を小気味よい音とともに弾き飛ばして、とてもワイルドな胸元が露になった。その瞬間感じたよく分からない違和感に戸惑っている間に、何故か杉元さんは谷垣さんの胸毛を毟り取る。痛そう。

それから杉元さんがなんだかすごく頼もしいことを言ってくれたけど、彼の手から飛び散った胸毛がこっちに飛んできて意識が持っていかれる。
ふよふよと揺れ動く毛はそのまま風に乗って幸いにも私のすぐ前を通り過ぎ、そして──。

「──くしゅんッ!」
「……」

アシㇼパさんの顔を優しく擽ったソレを、懐から取り出した手拭いでそっと払い落した。


***


「三日やる」

エカシさんを取り囲み何事か話し終えた後、私たちにそう言ったのは先ほどぺぺレセッを取り囲んでいた集団の中には見かけなかった男性だった。
三日の間谷垣さんの身柄はコタンで拘束する。その間に私たちで真犯人を連れて来いと彼はエカシさんの、ひいてはこのコタンの意向を伝えてきた。


「そういえばなまえ、おまえどうしてここにいる?白石たちと一緒じゃなかったのか?」
「すみません、危険があった訳では無いんですがいろいろあって途中ではぐれました」

ペペレセッに入れられてしまった谷垣さんの前に集まり、アシㇼパさんからの問い掛けへ曖昧に返す。アシㇼパさんたちと二手に分かれた時にいざという時の集合場所は決めていたので、大事にはならないだろう。

とにかく今は一刻も早く谷垣さんの身の安全を確保しないといけない。肝心の姉畑支遁の行方について心当たりがないか杉元さんが尋ねると谷垣さんは暫し考え込んだ後、何か思い出した様子で口を開いた。
曰く姉畑支遁と出会った日の夜、シカの調査に意欲的に見えた彼に今の時期にはクマにも気を付けなければならないと伝えたとき、彼は一段とその瞳を輝かせたらしい。

「あの力強く美しい生き物のことをもっとよく知りたい」と。

インカラマッさん伝手に聞いた北海道の動植物を調査しているという自称と違わぬその様子に、ならば何故今回のようなことをと考え出した私の思考は、「それやばいやばいッ!!」と突然叫び始めた杉元さんの声で中断された。

「ヒグマに恋しちゃったら…入れ墨ごと喰われちまうだろうがッ!!」
「え、こい?」

こい?恋?
こんな時に突然意味不明なことを言い出した彼に思わず眉をひそめたら、つんつんと下向きに上着の袖を引かれた。振り向いた先にはなんだか思い詰めたような、怒りをこらえるような表情のアシㇼパさん。どうしてさっき見逃したのか、その鼻から生え出たように突き刺さっている毛を摘んで取り除く。

「なまえ……私には、どうしても分からない…」
「ん、何がです?」
「どうして…どうして姉畑支遁はシカやヒグマとウコチャヌㇷ゚コㇿしたがるんだ?」
「ウコチャ…って、えーっとたしか……

……あ?」

アシㇼパさん、今なんて言った?

……いやいや待て待て落ち着け私。ウコチャヌㇷ゚コㇿっていったらあれだ。アシㇼパさんと狩りをしていた頃、彼女の口から何度か聞いた言葉だ。
意味を間違えて憶えていたか?……いや、初冬のシカの時にも夏のヒグマの時にも、なんなら町の外れで野良犬を見かけた時にも、アシㇼパさんと私の視線の先で彼ら彼女らは決まって一つの行動を取っていた。


「人が人以外とウコチャヌㇷ゚コㇿしても子供は生まれないのに……そもそもウコチャヌㇷ゚コㇿするのはオスとメスなのに。なんで、なんで姉畑支遁はオスのシカとウコチャヌㇷ゚コㇿなんて……」
「──おっと」

いつの間にか思考を放棄していたらしい。我に返ったところで一度目を閉じて、大きく深呼吸をする。

“このあたりで最近家畜や野生の鹿を斬殺して粗末に扱う人間がいるらしく、「カムイを穢す人間がいる」と…”

合流した時のインカラマッさんの言葉を思い出しながら、鮮やかな夏の青空を仰ぎ見た。



穢すって、そっちかあ。

断じて事件を軽んじていた訳では無い。
それでも先程「家畜の次は女房や子供かもしれんぞ!!」と怒り狂っていた大柄の男性の言葉が、収まっていた五臓六腑の更に奥底にストンと嵌め込まれた音がした。


壮大な迷子になってから早五年。
天下泰平とはいかずとも日の本が一つの国となった明治と呼ばれるこの世で生きて、いつ戦や騒乱が起きても不思議でなかったあの頃の平和なひと時がなんと儚く慈しむべきものだったのか、事あるごとに痛感してきた。

だけど。

「どうして、どうしてなんだなまえ…?」

この旅に同行して数か月。家永さんや顔も知らぬ夕張の剥製の彼、そして今回の姉畑支遁。
あの頃幾度となく見て触れてきたそれらとはまた別の方向へと振り切った人間という生き物の、なんというか、その、深いところに触れる機会が一度にやってきたのは、偶然か、はたまた学園という学びの場に守られてきたあの頃の私が無知だったのか。

私の袖を握りしめて俯くアシㇼパさんへ気休めの言葉すら与えられない己を情けなく思いながら、ズンと重たくなった気がする額をもう片方の手で支えた。


そうだった。好きって気持ちを持つのに、相手の生まれも年齢も、姿形も関係なかったね。



だからこそ姉畑支遁、アナタはダメだ。


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