「なまえ、お前はここに残るんだ」
姉畑支遁を見つけ出すために出立しようとした矢先、アシㇼパさんから言い渡された言葉にガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。
「…私も行きます」
「お前はまだ足の怪我が完治していない。ここに残るべきだ」
「もう問題ありません」
「弓もないだろう」
「姉畑支遁がヒグマを見つける前に捕まえられるかもしれません。それにもしもの時には毒矢がなくてもヒグマの気を引くくらいはできます」
「…だめだ。いざという時ヒグマから姉畑支遁と一緒に守ってやれるかわからない」
「そうなったら私のことは放っておいてください。だから」
「なまえ」
「なまえさん」
「っ…」
こちらを咎めるような二つの声に言葉を遮られてしまい、そのまま押し黙る。分かってる。アシㇼパさんも杉元さんも、その時はきっとどうにかして私を助けようとしてくれるに違いない。今の私が二人に同行したって邪魔になるだけなのだ。
でもこのまま閉じ込められた谷垣さんを見ていることしかできないなんて耐えられそうにない。何か二人を説得できる手札はないかと考えを巡らせる中ふと感じた視線に顔を上げると、物言いたげな目付きでジーッとこちらを見ている二人がいて思わず張りつめていた糸が震えた。なに。なに?
「…なまえさん、谷垣とそんなに仲良かったの?」
「……」
杉元さんの言葉になんと返せばいいのか咄嗟に思いつかず、沈黙を続ける。
確かに杉元さんからすれば、少しの間治療を手伝っただけの間柄の彼にどうしてそこまで、と思うのかもしれない。
でも。
「なまえ、今のお前は自棄になっているようにしか見えない。いつものなまえらしくない」
私らしいってなんですか。私の何を知っているんですか。
その辺りにいる誰かに言われたのなら容易く噛みつき返せるセリフも、彼女に言われてしまうと途端に耳が痛いものになる。何故ならアシㇼパさんのいう通り、今の私は間違いなく冷静じゃないから。
下手なことを言わないように避けたかった話題だけど、説明するよう促してくる二つの双眸に見つめられ続けてはこれ以上沈黙を貫くわけにもいかなくて、少しだけ深く吸った息を吐きながら肩の力を抜いた。
「……私が今アシㇼパさんのそばにいられるのは、谷垣さんのお陰なんです」
返される声を待つことなく、言葉を選びながら口にする。頭の中に、あの時込み上げた感情と私を見る彼の顔が浮かんだ。
「仮小屋の中で二人が組んだ目的を聞いた時も、二人が積丹に向かうことになった時も、本当はアシㇼパさんに付いて行きたいってずっと思っていました。でもアシㇼパさんから声がかからなかったことを言い訳にして、私は必要ないんだから、無関係なんだからそばにいられなくても仕方がないんだって、勝手に諦めて物分かりの良いふりをしていたんです。
……そんな私に谷垣さん、『やりたいことを言ってみたらどうだ』って言ってくれて。あの言葉がなければ私、きっと網走へ旅立つアシㇼパさんを笑顔で見送って、自分の気持ちを伝えなかったことをずっとずっと後悔し続けていました。
私、谷垣さんにはアシㇼパさんを言い訳にするのを止めて前に進むきっかけをもらった大きなご恩があるんです」
アシㇼパさんや杉元さんに迷惑をかけたいわけじゃない。でも、谷垣さんが助かるために私にできる精一杯のことをしたい。
その理由を口にすれば暫しの沈黙の後、アシㇼパさんの小さく息を吸う音が聞こえた。
「なまえ」
先程よりも鋭さの凪いだ声にのろのろと顔を上げれば、紺碧に輝く瞳が私を真っ直ぐに見据えていた。
「なまえが谷垣を助けたい気持ちは分かった。それでも今のお前を連れては行けない」
「……」
「村長が決めたこととは言え、みんな気が立っていて約束の日まで絶対に何も無いとは言い切れない。小樽の方とは少し違いはあるけど、お前がこのコタンにいればキラウㇱニㇱパがいない時でも言葉の違いで状況が悪化することはないはずだ。谷垣のことを頼んだぞ」
「……はい」
「それでも」
私から外れたアシㇼパさんの視線の先を辿り顔を上げれば、頭上からじっとこちらを見下ろす真っ黒な目があった。
「私と杉元が三日以内に姉畑支遁を連れて戻れなかったときは、尾形となまえで谷垣を守ってくれ」
そう言ったアシㇼパさんを一瞥して、尾形さんは少し離れた先にあるペペレセッに視線を移して口を開いた。
***
二人の背中が消えていくのを見送った後、鋭い視線を投げてくる見張り番の男性と少しだけ話をしてからペペレセッに近付く。
「谷垣さん待っていてくださいね。きっとアシㇼパさんと杉元さんが犯人を捕まえて戻って来てくれますから」
「ああ、俺は大丈夫だ。だからなまえ、お前も気に病む必要はない」
そう言って微笑む谷垣さんに、ぐっと込み上げてくる気持ちを抑え込む。自分の命が危ういこんな状況でも私を気にかけてくれる優しい彼を、どうにかして助けたい。そう思いながら背負っていた毛皮を広げて檻の隙間に押し込む。
「これ、敷物に使ってください。見張りの方に許可は頂きました。食事はコタンで用意してくださるそうですが、もし必要なものがあれば教えてくださいね」
「…いつも助けられてばかりだな」
「そんなこと…」
谷垣さんの一大事だというのにこんなことしかできない自分の情けなさに視線が下がる。
小樽からここ釧路まで、ただでさえ長く大変な旅路。着の身着のままコタンに運び込まれた上に病み上がりだった彼には、まだまだ幼いチカパシを連れての旅はきっと苦労が多かったことだろう。堪らず熱くなる目元に力を込めて顔を上げる。
「谷垣さん、こんな、こんなっ…!
……ムッチムチになって……?」
「むぅ…」
ふと毛皮を受け取ってくれた指が目に入り、あれ?谷垣さんの指ってこんな感じだっけ?と思った途端、今までなんとなくの違和感でひとまとめにしていた釦どころか縫い目まで弾け飛びそうな服に包まれた胸板や肩幅、首の太さ全てが線で繋がり、浮かんだ言葉をそのままぽろりと口に出せば気恥ずかしそうに視線を逸らされた。かわいい。
大変な旅だったことは間違いないだろう。が、とりあえず食べる物には困らなかったらしい。
「おい」
そういえば肌の色艶も良くなったなあと檻の中の谷垣さんを観察していたら、聞こえてきた声。振り返れば相変わらず食糧庫に腰かけたままの尾形さんが、私を見たまま顎で自分の隣を指した。悪目立ちせずに大人しくここで待てということだろう。谷垣さんにもう一度声をかけてから食糧庫へと向かった。
尾形さんの谷垣さんへの疑いを晴らしたのは、まさかの杉元さんだった。谷垣さんと行動していた兵士たちを殺したのはヒグマだったと、その場にいたという彼が証言したのだ。
誤解が解けそうで良かった。そう一安心できたのはほんの少しの間で、アシㇼパさんと杉元さんが続けた言葉へ彼が返した不穏な発言に、表情を強張らせたアシㇼパさんと目が合った。
谷垣さんの身の安全が最優先とはいえ、アシㇼパさんが傷付くような結果になってしまうのは避けたい。いざという時のため彼に納得してもらえるような代替案を考えておかなければと思いながら、梯子を上って尾形さんとの間にあまり余裕のないに床の端に腰を下そうと膝を曲げた。
「お前、今から囚人探しに行け」
「……え?」
直後言い放たれた予想外のセリフに、思わず気持ちのままに漏れた声。重心を変えた体を支えきれずにドスンと尻もちを搗いた私を見ることなく話し続ける横顔に注目する。
「ふりでいい。人目に立たないように村の周辺の様子を見て回れ。日暮れ時まで帰ってくるな。戻ったらここで寝ろ。明日も起きたら村の連中が起き出す前にとっとと出て行け」
「…い、いやでもアシㇼぶッ!?」
アシㇼパさんからコタンで待つよう言われた直後なばかりに異議を唱えようとしたところ、一瞬で伸びてきた片手に両頬を真正面から鷲掴みにされた。じんわりと僅かな痛みを与えてくる力加減の指先に頬を潰されて唇が突き出る。無理やり向き合わされた顔には、感情の読めない瞳とうっすら弧を描きながら横に引き伸ばされた口があった。
「なあ、教えてくれよ。俺が優先するべきなのはお前の貧弱な足か?それともそこのマヌケな小グマの命か?」
──そんなの決まってる。
そう言おうとしたけど口が動かなかったので目で訴えたら、真顔に戻った表情に凝視されながら無言で指先の力を強めたり緩めたりされた。どうして。
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