日が落ちてもまだ明るい夏の夕暮れ時。少し前に止んだ雨の名残の水たまりを避けながら時折感じる視線に構うことなく歩いていると、「なあ」と声が聞こえてきた。
コタンの誰かが呼び止められたのだろうと思いそのまま通り過ぎようとしたら、「そこのアンタだ」と同じ声が続けて聞こえて振り向く。そこにいたのは昨日エカシさんと私たちの間を取り持ってくれた男性、アシㇼパさんにキラウㇱニㇱパと呼ばれていた人だった。
「…昨日から思っていたが、アンタ奇妙な格好だな。……メノコか?」
「…はい。訳あって男として旅をしています。数年前に小樽にあるコタンの方々に命を救って頂き、針仕事や猟の仕方を教わりました。動きやすいように着方を変えていますが、ご不快であればすぐに着替えます」
「いや、昨日は皆犯人を捕まえて興奮していたんだ。今は誰もアンタのことはそこまで気にしていないさ。……明日もその入れ墨のある男とやらを探しに行くのか?」
「はい。誤解を解くためにできる限りのことをしたいので」
この二日の間に向けられた視線を思い出せば彼の言葉を鵜呑みにすることはできなかったけど、今さらコソコソと見た目を変えるのもどうかと思いその言葉に甘えることにする。次いで投げかけられた問いに答えれば、居心地が悪そうに首に手をやった後、「待っていろ」と言ってすぐ近くにあったチセの中へと消えていった。
冷静な対応をしてくれている方に嫌味な言い方をしてしまったなと反省している間に再び顔を出した彼は、そのまま私に歩み寄りすっと片手を差し出す。
「アンタは分からんが、プにいる兵隊さんは今日一日雨の中声をかけても動かないし何も食っていない。よかったらアンタから渡してやってくれ」
そう言う彼の手には、こんがりと焼き色のついた魚の串焼きが二つあった。ふわりと漂ってきた油の匂いでようやく周囲のチセからも食欲をそそる香りが漂っていたことに気付いた途端、私のお腹から図々しい催促の声が上がって咄嗟に両手で押さえつける。が、時すでに遅し。
「…もうひとつはアンタの分だ。俺に言われても腹が立つだけだろうが、無理が過ぎると身がもたないぞ」
「……ありがとうこざいます…」
恥ずかしくて顔を上げられない。なんとなく柔らかさの増した気がする声に、絞り出した震える声で礼を告げた。
谷垣さんに戻ったことを伝えてから今晩も寝床にさせてもらう食料庫へ上り、雨粒が光る頭巾を深く被った人型の隣にしゃがみ込んで顔を向ける。
「これ、村の方から頂きました」
そう言ってもらった焼き魚を一つ差し出すけど、外套はピクリとも動かない。下から覗き込むと見慣れた顎髭が見えたのでそっと鼻先に魚を差し出してみたら、わずかにこちらを向いた頭巾の下からじろりと睨まれた。怒りや苛立ちの気配はないので「アメマス、美味しいですよ」と言ってもう一つに齧り付いて見せれば、一拍置いて魚に近付けた小鼻をヒクヒクと動かした後、外套からにゅっと生えた手が串を掴んだ。猫ちゃん。
「…様子は」
「やっぱり近くの山や森は難しそうです。今日もいくつか入ってみましたが、あの雨でも二度銃を持った村の男性を見かけました。この時期は獲物が痛みやすいので毒矢を使うことはないと思いますが、警戒して何かしら対人用に罠が仕掛けてある可能性も捨て切れませんから近付かないに越したことはないかと」
「湿原は」
「身を隠せる場所が少ない上に谷地眼もあるので足元には十分に注意しないといけませんが、その辺りの森まで誰かが巡回している様子は昨日も今日もありませんでした。潜伏して様子を見ていれば周辺の動きはある程度把握できると思います」
一日ぶりのまともな食事をしながら、この二日コタン周辺の地形を見て周り、ついでに運良く鹿に頭を蹴られて死んだ姉畑支遁の死体が落ちていたりしないだろうかと歩き回った結果をまとめて伝える。見張り番の男性に警戒されないよう注意を払うけど、大きな欠伸をしていてこちらにあまり興味はなさそうだ。
食料庫に居座っても文句も言わず、犯人とおぼしき谷垣さんやそれを庇う私たちにまで食料を分けてくれるこのコタンの人たちは、きっと本来、小樽や他の土地で出会った多くのアイヌの人たち同様に温厚な性格の方々なのだろう。
それでも明日のうちにアシㇼパさんと杉元さんが戻らなければ、彼らは自分たちの家族を守るために谷垣さんが二度と彼らの脅威にならないように処罰を下すんだろう。それだけは何としてでも避けないといけない。
「明日、視界が確保できるようになったら動くぞ」
隣から聞こえてきた声に手元を見たまま「はい」と返し、最後の一口を頬張る。人々が寝静まっている間に行動するなら誰かに危害を加える可能性は低いだろうと結論付けて、少しだけ心が軽くなった。
「谷垣さんにはいつ伝えましょうか?」
「明日まで黙ってろ。あのお人好しなマヌケのせいで村の連中に勘付かれでもしたら敵わん」
相変わらず谷垣さんへの当たりがきつい尾形さんの言葉に、思わずむっとして澄ました横顔を見る。
そのマヌケとやらを甘く見て危うく死にかけた姿を私は見ているんだからな。
……と口にしない程度には私も賢いのである。
「なんだ、言いたいことがあるなら言えよ。ん?」
「すむぃむすぅん…」
言ってないのにぃ。
完全に油断していたら今度は下からガッと顎を掴み上げられて、ねっとりとした猫なで声を耳に直接吹き込まれた。きっと満面の笑みを浮かべているんだろうけど怖くて横が見られない。
気まぐれにこのまま顎を割られたらどうしようと冷や冷やしていたら、ペペレセッの中から慌てた様子でこちらを見ている谷垣さんと目が合った。谷垣さんを心配させるのは不本意なので安心してもらおうとへらりと笑って手を振ったら、突然ものすごい力で強制的に顔の向きを変えられて首の後ろで何かが潰れたような音がした。いやこれダメだ今までで一番ダメなやつだ。
下手に動くと本気で致命傷を負いそうな状況。目の前にある表情の抜け落ちた尾形さんの顔を息を殺して見守っていたら、しばらくして昨日と同じように指先で私の両頬を何度か押し潰した後、魚の油でつやりと光る唇が開いた。
「餅」
お陰様で!食べるものには滅多に困りませんのでねッ!!
***
「杉元たちを信じて待っても良かったのに…」
「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる」
昨日までに目星を付けていた場所に向かって走る中、背後から聞こえてきた声に振り返ると納得のいっていない表情でコタンのある方角を見る谷垣さんがいた。案内のために先導する私のすぐ後ろを走る尾形さんの言葉に続いて声をかける。
「アシㇼパさんたちが犯人を捕まえるまで、谷垣さんの安全を確保するだけですから。後で無実であることを証明すればいいんです」
「だが逃げれば罪を認めるようなものだろう…」
そう言ってもう一度背後を振り返る谷垣さんに「お前の鼻を削ぐのは俺がやっても良かったんだぜ」と言い放つ尾形さんを無視して再び前を向く。
この二日外を出歩いていた私が朝からコタンにいないのは当然で、食糧庫には尾形さんの外套を、ペペレセッの中には谷垣さんの着物と私の毛皮を、食糧庫から拝借した貯えの入った袋に被せて置いてきた。近くで見られてしまえばすぐにばれてしまうだろうけど、今は少しでも時間を稼ぎたい。
コタンを脱出してからどれくらいたっただろうか。すっかり顔を出した日が少しずつ気温を上げていく中、屈強な兵隊さん二人と一緒に走り続けた私の体力がいの一番に尽き始めたのは至極当然のことで。四の五の言っているバヤイではないことは百も承知だけど、足元の泥濘が容赦なく体力を削り、何度か遅いと私に文句を言ってきた尾形さんが今は先頭を走っていた。谷垣さんがいまだに私の後ろにいるのは私が置き去りにならないよう気を配ってくれているからだろう。助けたかったのに結局助けられているんだから情けない。
その時、向かっていた先とは外れた方向で乾いた破裂音が響いた。「銃声だ」と呟いた尾形さんの言葉に、三人特に言葉を掛け合うことなく音の聞こえたほうへ再び走り出す。この時分に銃が使われる理由は、恐らく私たちと関わりがあるものだ。
「いたぞッ、逃げたさんにんだ!!」
間を置かずに進んできた方向から聞こえた声へと顧みれば、三人の男性がこちらへ向かってきていた。まだ距離はあるけどそれがこの三日で見知った顔だと分かるくらいには近い。手分けして私たちを探していたのだろう。「見つかった!」という谷垣さんの声を合図に全速力で駆け出す。
「……い゛ッ!!」
が、変わりなく踏み出していた足に何度目かの体重をかけた瞬間、ズキリと鈍い痛みが走り咄嗟に声が漏れた。ふらつきながらも次の一歩でなんとか体勢を整える間に、バランスを取るために広げていた左腕を力強く掴まれた。見上げれば谷垣さんが私の横に並んで腕を支えてくれている。
「なまえ、お前足を…!」
「だい、じょぶっすっ…!」
もう話している余裕なんてない。それでも息も絶え絶えに伝えれば、谷垣さんが掴んでいた私の腕を離して足元へ屈み込むのが見えた。担がれる。そう理解すると同時に突然今度は反対の腕を斜め前に引かれて、谷垣さんの腕を避ける形でよろめく。二度目の転倒の危機を必死で回避して顔を上げれば、私の腕を引きながら走り続ける尾形さんが後方を確認しながら「置いていかれたくなければ死ぬ気で走れ!」と叫ぶ。その叱咤に口の中に残っていたなけなしの生唾を飲み込んで、両足を動かすことだけに集中する。
動け。動け。動け。
ぜえはあと息を乱して一心不乱に足を動かし続けていた私は、目の前を走っていた尾形さんが突然立ち止まったことにさえ気付かなかった。当然前のめりに走っていた私は尾形さんの肩に顔面を強打し、びくともしない尾形さんのお陰でその衝撃をしっかりと受ける。
どうしたんですか?と言いたいのに嘔吐くことしかできず、仕方なくふらふらと体をずらして事の真相を確かめようと顔を上げれば、そこには眺める余裕もなく走り続けていた美しい湿原の景色が広がっていた。
その景色の中、目の前には一頭のヒグマがいた。
そしてそのヒぐッ
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