北海道に来る前の最後の夏。あの日も今日と同じ、朝からよく晴れた日だった。

その日はいつもよりやたらと暑くて。昼を過ぎてさらに強くなったまとわりつく熱を誤魔化そうと井戸に向かっていたら、茂みのそばにしゃがみ込んでいる後輩を見つけた。

何をしてるの?って声を掛けたら、人差し指を口元に当てながらもう片方の手で私を招く。指示通り忍び足で近付けば休憩中ですと小声で答えて、日陰で涼んでいる子達を見せてくれた。あまり交流のない私には正確な様子を読み取ることは勿論できなかったけど、それでもどことなく満足げに見えるのだから不思議だ。

さっきまで元気いっぱいだったんですよと緩められた顔には、たくさん汗の粒が浮かんでいた。散歩の途中に見つけた憩いの場は、一緒に涼むには些か広さが足りなかったらしい。
暑いのに大変だねえ、なんて当たり障りのない感想を述べた私にその子が返してくれた笑顔は、頭上にあるお日様よりもずっとずっと眩しかった。

この子たちのためなら、こんな暑さへっちゃらですよ!



「なんてこった」
「……わぁ…」

横から聞こえた珍しく動揺の混じった声に我に返れば、悲しいかな、目の前には相も変わらずの景色が広がっていた。
ついさっきまで頭の中で見ていた美しき思い出とのあまりのギャップに、俯きながらそっと両手で顔を覆う。色んな感情がごちゃ混ぜになってなんだかものすごく泣きたい気持ちなのに、実際には涙なんて一滴も湧き上がってこない。

恋愛、友情、愛玩、庇護。他にも沢山。好きっていう気持ちには色々あって、どれを向けるにせよ相手の姿形は関係ない。
関係ないのであれば今私の目の前ではとんでもないことが起きている。
関係あってもとんでもないことだけど。


「やめろぉ!!」
「はっ!アシㇼパさん!?」

突如湿原に響き渡った悲鳴にも似た怒声。咄嗟に顔を上げて周囲を見回せばアシㇼパさんを見つけるより先に視界が捉えたのは、地面から飛び出してヒグマと姉畑支遁に猛烈な速さで駆け寄る杉元さんの姿だった。

「姉畑先生もう十分だろッ!」と叫ぶ杉元さんに当の姉畑支遁が応える気配は一切なく、自分の身に何が起きているのか理解できず狼狽えるヒグマのお尻に下半身丸出しでしがみ付いたままだ。
アシㇼパさんを探さねばという思いとアレに突っ込んでいく杉元さんから目が離せない自分がせめぎ合う中、何度か続けて声を上げた後、間を開けて聞こえてきた杉元さんの声。

「勃ったまま死んでる…!」

果たしてあの状態を立っていると言っていいものだろうか。
思わず再び直視してしまった姉畑支遁から意識的に視線をずらす。杉元さんの言葉が本当なら今まさに目の前で人が死んだというのに、悲しみも緊張の緩みもない。そもそもどんな気持ちになればいいのか分からない。こんなの初めて。

そんなこんなのうちにやっとのことで姉畑支遁を振り落としたヒグマが、その間に目と鼻の先まで接近した杉元さんへと溜まりに溜まった敵意を向けた。どうすることもできない距離で息を呑んだ瞬間、ヒグマの振りかぶった腕が杉元さんの胸元を掠め、そのまま杉元さんはそばにあった谷地眼へと落ちる。咄嗟に尾形さんに銃を撃ってもらわなければと思った直後、ヒグマの様子がおかしいことに気付いた。口から泡を吹きよろめきながらその場を離れる腕に深々と刺さった矢が見えて、杉元さんがまたしてもとんでもないことをやってのけたのだとおおよその事態を察する。

それから間もなく。おそらくはその場にいる全員が固唾を呑んで見守る中、ヒグマはその巨体を地に伏せた。



「アシㇼパさん!」
「なまえ」

ようやく見つけたアシㇼパさんに駆け寄り全身を観察する。谷地眼に落ちていたらしく頭のてっぺんから足の先までしとどに濡れてはいるけれど、大きな怪我も見当たらないし本人もいつも通り落ち着いている。無事でよかったと安堵の息を漏らす中、じっと彼女が何かを見つめていることに気付いて視線を辿れば、地面へ横たわる姉畑支遁がいた。瞼を閉じて穏やかな表情を浮かべている彼の胸が動くことはなく、なんとなしにそのまま流れるように目を移した下半身にビクッと肩が跳ねる。なん、え、たっ…ぼっ……──

「ほんとにおっ勃てたまま死んだのか」
「ぐぅ…」

横から挟まれた尾形さんの声にトドメを刺されてキュッと目をつぶった。完全に認識する前に思考をフェードアウトさせようとしていたのになんてことを。おまけに今更杉元さんの言っていた意味まで分かってしまった。たったままってそっちか。泣きたい。泣けない。「どうしてこんな馬鹿な真似を…」と杉元さんと話すアシㇼパさんが気にしていない様子なのが不幸中の幸いである。

「決死の想いも恋は成就せず…だったってわけか」

そこに聞こえてきた思いもよらないセリフに顔を上げれば、軍帽の庇に触れながら温かみを感じる眼差しを姉畑支遁へと向けている杉元さんがいた。この男に何か思うことがあったらしく、そう言えば先ほども姉畑先生と彼を呼んでいたことを思い出す。
理解できないものへの理解を試みて頭を回し始めると同時に「おい杉元!この男を哀れむのか?やめろ」とアシㇼパさんの鋭い声が届く。

本当に動物を愛していたならなぜ殺す。良くないことだと自分でも分かっていたから最後にはその存在ごと消そうとしたんだろう。そんなの自分勝手だ。強い口調で訴えるアシㇼパさん言葉は、すんなりと私の頭の中へと入ってくる。
姿形の違う存在を愛した姉畑を否定するつもりは一切ない。でも好き勝手に欲を吐き出しておきながら相手を殺すことで自分の行為を無かったことにしようとするなんて、本当に虫がよすぎる。

「どうしてウコチャヌㇷ゚コㇿする前によく考えなかったのか…そうすれば殺さずに済んだのに…なあ杉元!!なまえ!!そう思わないか?」
「まったくもってその通りだと思います」

怒りを滲ませるアシㇼパさんの言葉に力強く頷くも、返したのは私一人だけ。足りない声を探した先には何故か思い詰めた顔でぐっと口を固く閉じている杉元さん。

「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ」

隣から聞こえてきた声にここ数日よく感じる頭の重さが襲い来る。なんなんだ尾形さんさっきから余計な一言を挟んで。いや、アシㇼパさんの疑問に答えるという意味では私や杉元さんよりも誠実な対応なのかもしれないけど。

でももしそれが本当なら、そんなの。


「じゃあもう取るしかないじゃん…」

好きだという気持ちを表す方法は沢山あったのに、よりにもよってこの男は己の欲を解消するために散々暴れまわった挙句、その事実をさらに最悪な手段で隠蔽し続けた。男の性とやらを全否定するつもりはないけど、それしか手がなかったのだろうと同情できるほど私の周りの男性たちは下半身で物事を考えていない。大抵の場合は自分一人でもどうにかできる筈で、それに満足出来ないのであろう白石さんだって牛山さんだってお金払って合意の上だぞ。札幌の時の牛山さんと家永さんのことは知らない。
相手がそれを受け入れているのだとしたら二人の自由だけど、一方的に押し付けられた今回のこの男の行動が好きとか恋とか愛とか、そんな言葉だけで全て赦されてしまうと言うのなら、それはもう互いのためにも取るしかあるまい。

っていうか話を聞く限り出すもん出した後の冷静な期間とやらが短すぎるのでは。コストパフォーマンスが悪いにも程がある。

「なまえ、そろそろ行こう。杉元と姉畑にキラウㇱニㇱパたちが近付かないようにしないと」
「はい、アシㇼパさん」

これ以上考えたところで詮無い事だとさっさと切り上げアシㇼパさんに返事をして、ヒグマのそばに集まっている人影へと向かう。ふと一向に動き出す気配のない背後へ振り返れば、さっと一斉に目を逸らされた。
なによ二人して。



***



ヒグマの毛皮と肉を持ってコタンへ戻ったキラウㇱニㇱパたちの証言により、谷垣さんに着せられていた汚名はきれいさっぱり雪がれた。

「あれっ、リュウ!?」

よかったよかったと村長に笑顔を向けられる谷垣さんを見守っていたら、その足元に見慣れた首輪を付けて猟銃の負い革を咥えたアイヌ犬、リュウの姿があった。思わず名前を呼べばこちらへ振り向き、軽やかな足取りで猟銃を引きずり近付いてくる。谷垣さんとチカパシからは聞いていなかったけど、一緒にここまで来たのだろうか。
しゃがみ込んで拳を差し出せば負い革を咥えたままふんふんと匂いを嗅ぎ、座って尻尾を振ってくれた。私のことを憶えてくれていたらしい。撫でまわして抱きしめたい気持ちをぐっと抑え、「リュウも長旅お疲れ様」と優しく声をかけて銃には触れないよう気を付けながら体を撫でれば、少しばかり尻尾の動きが速くなった。かしこい。かわいい。

「なまえさん危ないからやめときなよぉ。俺撫でてやろうとしたら噛まれたんだからね!」
「急に触ろうとしませんでしたか?ちょっとびっくりしちゃったのかも知れません。でももう怖くないよね?リュウ」
「ウウッ」
「ぐぬぬ…」

かしこい。かわいい。


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