言われた通り近くの狩猟小屋で待機して夜が明け始めたころ、アシㇼパさんは宣言通り杉元さんを連れて帰ってきた。
「なまえ、戻ったぞ」
「おかえりなさい、アシㇼパさん」
「…なまえさん」
「……おかえりなさい、杉元さん」
何があったのか、顔中怪我だらけ服は汚れてボロボロな杉元さんは、気まずそうに私から顔をそらした。どうやら相当危ない状況だったようだ。
私は言ってないです、アシㇼパさんが賢すぎてバレたんです。と弁明する空気でもなさそうなので、とりあえず黙っておくことにした。
「ああ?なんだこいつ」
「……どうも」
てっきり二人だけだと思っていたのに、杉元さんに続いて坊主頭の軽薄そうな男が小屋に入ってきた。初対面から投げられた不躾な言葉をそっくりそのまま返したい気持ちを抑えて、平たい眼を向ける。町にいる兵たちと同じ格好をしていて、なぜか野菜や徳利を抱えていた。
「なまえ、こいつは白石だ。詳しくは後で話すから、お前も準備を手伝え」
「え?ああ、はい…」
よく見ればアシリパさんも何かの肉を持っていて、なんだか気まずい空気のまま食事の準備が始まる。
そんな中でいち早く動いたのは白石さんとやらで、ぎすぎすした二人を軽く茶化しながら「うまい鍋食って仲直りしようぜッ」とウインクを投げ、率先して調理を始めた。空気を読めているかはとかく、今はその調子の良さがありがたい。
「あの、ちなみにこれ何の肉でしょうか?」
「馬肉」
ばにく。馬肉。馬の肉。
何でもないように返ってきた白石さんの言葉に、アシㇼパさんの前にある肉を盗み見る。
以前は貴重な労働力として扱うのが当然で、よっぽどの時でもないと食べる話なんて聞かなかったけど、時代か地域色か、ここでは普通のことらしい。
どんな味がするんだろう。きゅっと胸が締め付けられる感覚と同時に、ごくりと生唾を飲み込んだ。
やがて完成したのは、鍋料理のようなものだった。料理中に「さくらなべ」とか「すきやき」とか耳慣れない言葉が聞こえてきていたけど、これがそうらしい。
アシㇼパさんに教える声を盗み聞きながら溶き卵を絡めた肉を恐る恐る口に入れた瞬間、衝撃が走る。これは美味しい。初めて食べる馬肉にちょっと抵抗はあったけど、癖のない肉に甘辛い味付けと生卵のまろやかさがとても合っている。
僅かばかりの罪悪感は即座に吹き飛び頭の中が美味しいでいっぱいになって夢中で咀嚼していると、不意に白石さんが味付けに使った味噌を絶賛し、瞬間一昨日のやり取りが頭をよぎった。
白石さん以外の時間が止まる。
「杉元ぉ?いまの本当か?これオソマが入っているのか?」
「なに?オソマ?」
アシㇼパさんの顔が怖い。事情を知らない白石さんは構わず食事を続けているけど、知っている私はなんだかとてもいけないことをした気になってそっと箸を置く。
杉元さんも桜鍋には味噌が必要なのだとアシㇼパさんに説明するけど、アシㇼパさんの口は堅く閉ざされたままだ。
食べたくないものを無理に食べさせても仕方がない。杉元さんが味噌なしで作り直すことを提案したので、手伝おうともう一度食材を切るために器を置こうとしたとき、アシㇼパさんがわずかに動いた。震える手で肉を口に近づけ、閉じたがる口をなんとか開こうとしている。
受け継がれてきたアイヌの文化を、とても大切にしているアシㇼパさん。だからこそ、杉元さんたちの──和人の文化にも、真摯に向き合おうとしてくれているように思えた。
そして全員が静かに見守る中、ついにアシㇼパさんの口に馬肉が入った。無言のまま咀嚼し、やがて喉が上下する。
「オソマおいしい」
笑顔を浮かべたアシㇼパさんの瞳はキラキラと輝いていて、感動と喜びが手に取るように伝わってきた。
「うんこじゃねっつーの…」
そう言って笑う杉元さんの目から涙がこぼれた。
「何だかわかんねーけど気に入ったみてえだな」
「美味しいものが増えて良かったですね、アシㇼパさん」
「ヒンナヒンナ」と夢中で頬張るアシㇼパさん。私の用意した味噌ではないけど、自分の育ってきた文化を受け入れてくれることがこんなに嬉しいと思えるのは、相手がアシㇼパさんだからなのかもしれない。
小さく聞こえた杉元さんの「ヒンナだぜ」という言葉にも、私と同じ気持ちが込められている気がした。
「オソマおかわり!」
無邪気なアシㇼパさんの声に、狩猟小屋の中は笑い声が溢れた。
***
「で、結局こいつ誰だよ。なまえって呼ばれ方からすると根っからのアイヌじゃねえんだよな」
桜鍋を堪能してひと段落した後、杉元さんの顔の傷に持ち歩いているヒグマの油を塗り込んでいると、早速横になりくつろぎ出した白石さんにビッと指を刺された。
「なまえは数年前私たちの村に来たシサムだ。
……杉元、私はなまえを信頼している。だから私たちの話をしたい。構わないか?」
「……ああ」
杉元さんはちらりとこちらを見て、それからアシㇼパさんに頷いた。
「なまえは私のアチャが死んだときの話を知っているか?」
「……少しだけ」
私がここにくる少し前、アシㇼパさんのお父上はアイヌの人々が集めた砂金を狙う人間に殺された。
それは昔マカナックルさんが話の流れで少しだけ教えてくれたことだったけど、それを知ったところでアシㇼパさんにどんな言葉をかければ良いのかわからなくて、それ以上深くは誰にも聞かないまま今日まで来ていた。
アシㇼパさんは詳しく話してくれた。
アシㇼパさんのお父上を殺した男が、網走の監獄に収容されていること。
彼は白石さんをはじめとした囚人たちの体に刺青を彫り、奪い取った砂金の在り処の断片を記したこと。
杉元さんはその砂金を探すために脱獄した囚人たちの行方を追っていて、アシㇼパさんもお父上に手をかけた男に罪を償わせるために、杉元さんに協力していること。
そして杉元さんは、同じく砂金を狙っている日本陸軍の第七師団という部隊に昨日から捕らえられていたところを、アシㇼパさんと白石さんに助けられたこと。
それは、私の想像を遥かに超えた壮大な話だった。
今聴いた話を頭の中でひとつずつ整理してから、口を開く。
「それは……杉元さんがコタンを出ていかれたのも納得というか」
「あん?」
「待って最後まで話聞いてアシㇼパさん」
サッとストゥを取り出すアシㇼパさんを静止してかぶりを振る。
「話を聴いただけでもすごく危険なことだって思うし、杉元さんがアシㇼパさんを巻き込みたくなかったのも分かります。
……でも、アシㇼパさんのことだからきっと、沢山考えて出した結論なんだと思ってます。だからアシㇼパさんのやろうとしていることを、私がどうこう言うことなんてできませんよ」
正直言ったら、めちゃくちゃに心配だ。
アシㇼパさんはいろんな意味で強いけど、今の話の通りなら、何かしらの罪を犯してきた人たちと少なからず関わっていくことになる。人を殺すことを良しとしないアシㇼパさんにとっては、一筋縄で行かないことも増えるはず。
でも、今口に出したことも間違いなく私の本心だ。
そんなに危険なことをするなら、私もアシㇼパさんのそばにいたい。でもアシㇼパさんは私にこうして現状を話してはくれたけど、「一緒に行こう」とは言ってくれなかった。私は必要ないと判断されたのか、私を巻き込まないと決めたのか、別の理由なのかは分からないけど、それもアシㇼパさんの選択だ。私は受け入れるしかない。
「無茶しないでなんて無茶だろうから……必要な時は、いつでも声をかけてください」
「…ああ。なまえもコタンにいる間はフチたちを頼む」
アシㇼパさんに「はい」と返した自分の声は、思っていたよりも頼りなく聞こえた。
それからそのまま三人は仮小屋で仮眠をとることになり、私は三人が戻るまで休んでいたので辺りを見回ることを申し出た。
町の様子も気になるけど、今山から入ると尋ね人について事情を聞かされることになるかもしれないので、今は近付かないようにしておく。
「寝る前に用足してくる」と一緒に小屋を出た杉元さんと反対方向に向かおうとして、ふと思い立って離れていく杉元さんに声をかける。「ん?」と振り返った顔はほぼ全面が油で朝日を反射していて、思わず口元が緩んでしまった。
「私がお願いしてどうこうなることではないのですが……アシㇼパさんを、よろしくお願いします」
強くてまっすぐなあの子を私が心配するなんておこがましいと分かっていても、頼まずにはいられなかった。
キラキラと雪が輝く中、そんな私を見て杉元さんはふっと口元を緩めた。
「…ああ。
っていうかなまえさん、結局夜のことアシㇼパさんに言っちゃったわけぇ?」
「いえいえ言ってませんとも。でも“お前なら気付いて起きた筈だ!”ってすぐバレちゃいました」
「……本当にすごい子だよ。良かれと思って軽率に行動して、考えが足りなかったのは俺の方だった」
「……私も、いつまで経っても自分の言動の浅はかさを教えられます。でも、どうしようもないです。大事な人だから」
あの日私を見つけて、生かしてくれた少女。そばにいても離れていても、自分本位にあの子の幸せを願わずにはいられない。
「……ホントに二人はなんでもないの?」
「なんでもないですぅー。結局砂金探しのお声もかかりませんでしたしぃ?いいなぁ杉元さんはアシㇼパさんのそばにいられてー」
冗談とかなり多めの本心入り交じりに地面を蹴ったら、「なにそれ妬いちゃってるじゃん!」と何故か少しはしゃぎ気味で杉元さんは茂みに走っていった。
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