その後コタンの人々によりヒグマを神の国へと送るカムイホプニレが執り行われ、私たちはコタンでも一番大きな村長のチセに招かれてトノトをご馳走になっていた。
杉元さんに殴り飛ばされた男性は杉元さんをとても気に入ったようで、豪快な笑い声を上げながら杉元さんに仲直りのお酒と娘さんを勧めている。その光景を眺めていたら不意に男性と目が合いニカッと笑われた。
「ボウズ、オマエにも悪いことしたなあ!」
「いえいえ〜、ご理解いただけてなによりです!」
注がれるトノトを杯で受け止めて一気に飲み干せば、「そうだいいぞもっと飲め!」とまた笑う。これが彼の本来の人となりなのだろうと思うと釣られて笑顔になる。
「んん?よく見たらお前…」
「おーい」
不意にチセに響いた声。聞こえてきた方向へと振り向けば、谷垣さんにトノトを飲ませているキラウㇱさんと目が合う。空いている手で招かれたので男性に断りを入れて腰を上げれば二つ返事で再び杉元さんへ娘さんの売り込みを始めた。興味のないことは深追いしないこの対応が心地よい。
谷垣さんの隣に座りながらその背後にいるキラウㇱさんに「ありがとうございます」と伝えれば、「気にするな」とそばに置かれていた湯桶を差し出された。儀式で先にお酒に口を付けていた男性たちは、既にほんのりと頬が赤い。持っていた杯にトノトを受け取り、また飲み干す。比較的小さな杯を選んで臨んだ宴はまだ始まったばかりなのに、こう勢いよく腹に流し込んでいてはあっという間に頭と心がふわふわと弾んでくる。一番大きな杯を渡された谷垣さんは一杯飲み干すのも大変そうだ。
「ほら子グマちゃんももっと飲んでくれ」
「いや、おれは…」
手酌したトノトを再び谷垣さんの口元へ運ぶキラウㇱさんと、それが彼らからの詫びの気持ちだと分かっているだけに強く断れずに喉を動かす谷垣さん。谷垣さんには申し訳ないけどその楽しいやり取りを眺めながら休憩していたら、別の輪からキラウㇱさんを呼ぶ声がした。それに返事をした彼に「楽しんでくれ」と差し出された湯桶を受け取り、離れていく背中を見送ってから谷垣さんに持ち上げて見せればほんのり頬を赤く染めて「いや、もう十分だ」と手で制された。
「誤解が解けて本当に良かったです」
「ああ。やはり彼らも本来はこうした穏やかな人柄だったんだな」
勘違いからとはいえその彼らによって大変な目に遭った筈なのに、チセの中を見回し柔らかく目を細める谷垣さんの横顔を眺める。
……結局私、なんの役にも立たなかったなあ。
姉畑支遁を見つけてその体をヒグマから守ったのは杉元さんとアシㇼパさんで、谷垣さんを助けたのは尾形さん。
尾形さんが私に周辺を見て回るよう指示したのはコタンの人たちにいないのが常だと思わせるためで、そもそも私の情報がなくても二人はアシㇼパさんたちと合流するために湿原に向かっただろう。
思い付いた案はどれも胸を張れる物ではなく、結局私は尾形さんに頼りきりになってしまった。もっと頭を働かせていれば私だからこそできたことを見つけられたんじゃないか、と手の中の杯へ視線を落としていたら頭頂部を重さのある何かに覆われて、顔を上げればつい先ほどまで横から見ていた谷垣さんの顔が私を見下ろしていた。
「なまえ、今朝はよく頑張ったな。それからこの三日間心配をかけてすまなかった。檻に閉じ込められていた間もお前が励ましてくれてとても心強かった」
「谷垣さん…」
「今更だが元気そうで安心した。しばらく見ない間に顔つきも体つきも少し逞しくなったんじゃないか?」
そう言いながら指で軽く髪を叩いた彼から、俯いて顔を隠す。
優しくて頼もしくて、良くも悪くもお人好し。
谷垣さんは小樽で別れた頃と何一つ変わっていなかった。
──ということもなく。
「…へへっ」
「むっ」
誰かさんには餅とか言われたけど一応小樽にいた時から良くも悪くも体格に変化はない筈の私と違って、明らかに逞しくなった横腹を指の腹で押せば自分のものとはまた違う感触がふにりと返ってきた。クセになるような触り心地をもう一度、もう一度と味わっていると急に硬く跳ね返るようになり、楽しくなってさらに繰り返す。
「ふわふわでムチムチでムキムキ……ふへへへ…」
「こ、こらなまえ、やめないか」
頭上から戸惑う声が聞こえるけど気にせず続行する。本当にすごく心配したんだ。このくらいは許してもらいたい。
「なまえさんなまえさん」
「んぁ?」
途中から行く手を阻むようになった谷垣さんの手との攻防戦に熱中していたら、不意に上着の袖をちょいちょいと後ろへ引かれた。振り返るといつの間に移動してきたのか、不満げな、それでいてなんだか咎めるような目をこちらへ向けている杉元さんの顔。
「あっち、あっち見て」
「あっちぃ…?」
その手が指さすほうを見れば、杉元さんと揃いの目つきをしたアシㇼパさんと目が合った。そして何故かそんなアシㇼパさんが突き出している手の匂いを嗅いでいる尾形さん。状況が把握できないのは酒の所為だけではないような気もするけど、何にせよアシㇼパさんの機嫌がよろしくなさそうなのは確かだ。
「ほら早く」と杉元さんに急かされて、訳も分からないまま腰を上げて杉元さんとアシㇼパさんの間に移動する。
「アシㇼパさーん、どうしました?」
「…ヘビ」
「へび?」
「ヤチマナコにいた時、ヒグマから杉元を助けるためにヘビを投げた」
「えぇっ!?」
あのアシㇼパさんが!?ヘビを触った!?
瞬時に頭が覚醒するくらいの驚きをそのまま口にすると、「臭くないか?」と手のひらを鼻先に差し出された。さっきの尾形さんの動きはこれか。同じように匂いを嗅いで首を横に振りながら、胸に広がる温かな気持ちに口角を上げる。
「ぜーんぜん臭くないです。
…アシㇼパさん、杉元さんのためにたくさんたくさん頑張ったんですね。とってもすごいです。アシㇼパさんのお陰で杉元さんも助かって、アシㇼパさんも無事で、本当に良かったです」
そう伝えれば不機嫌そうだった顔はちょっと誇らしげになり、それからすぐに口をキュッと結んだ。
「…なまえでも、がんばる」
「…え?」
「なまえのためなら……うぐ、お、同じこと、できるッ…!」
苦虫を噛み潰したような顔で呻きながら吐き出された言葉に息を呑む私を前に、アシㇼパさんは少しだけ視線を泳がせた後、もう一度吸い込まれそうな瞳を私に向けた。
「……だからもう置いていかなきゃいけない理由なんて作らないで、守ってやれるくらい私の近くにいるんだぞ」
全身の力が抜ける。
視界が落下して、そのまま床に叩き付けられると思っていた頭がボスンと何かに乗る。
たかい。かたい。首がいたい。
だが今はそれどころではない。
「アシㇼパさんだいすきぃっ!!」
「知ってる」
込み上げた衝動を勢いよく吐き出せば、こちらを見下ろしたまま得意げに笑った。
あ、だめだ本格的に泣きそう。と思った瞬間、両肩を掴まれてものすごい勢いで上半身を起こされた。状況を把握しようと首を回したら、私の肩を支える見慣れた手と袖が目に入る。どうやら勢いあまって杉元さんの膝に倒れ込んでしまっていたらしい。酔った勢いとはいえ流石に行儀が悪すぎたか。
その間に谷垣さんに声をかけられたアシㇼパさんが近付いて行ってふふんと自慢げな態度で手を出したけど、「いや…手のニオイはいいんだ」と返されてしまった。なんだ谷垣さんノリが悪いぞお!
「もっと大事な話だ」
酔いつぶれたコタンの男性たちが気持ちよさげな寝息と鼾を立てる中、谷垣さんの話を聞き終えた私たちは俯くアシㇼパさんを静かに見守っていた。
谷垣さんがここまで来た経緯を知って、きっかけの一つとなりフチさんへ余計な心労を生じさせたインカㇻマッさんへのモヤモヤとした憤りを胸の内でいなす。酔いなんてすぐに冷めた。何がノリが悪いだ。悪いのは私の頭だ。
「たかが夢だろ?手紙でも送っておけよ」と言う尾形さんへ、アシㇼパさんはアイヌの人たちが考えてきた夢の意味と、フチさんがそれを強く信じている理由を話す。百病は皆気より生ず。こうなると占いや夢の真偽のほどよりも、心の弱ってしまったフチさんのことが気にかかった。
「アシㇼパさん…一度帰ろうか?」
その言葉に顔を上げれば、アシㇼパさんと目を合わせる杉元さんがいた。一度会えば予言は無効になるからフチさんも元気になるはず、と当然のようにアシㇼパさんの気持ちを優先してくれる杉元さんの「我慢しなくてもいいんだよ?」と続いた穏やかな声音に、自分が言われたかのような喜びがすっと胸に染み入る。
そんな杉元さんからの言葉に少しだけ間を置いた後、アシㇼパさんは口を開いた。
「子供扱いするな杉元!!私にはどうしても知りたいことがある。知るべきことを知って自分の未来の為に前に進むんだ!!」
まっすぐに杉元さんを見据える瞳に陰りはない。フチさんが気がかりなのは当然で、それでも彼女は自分の意志で前に進み続けることを選んだのだ。
昔から変わらない眩いばかりのその強さに、頼もしさと、同時にどこか手放しでは喜べない感情の揺さぶりを感じながら、全てが終わった時にはなんとしてでもアシㇼパさんをフチさんのもとへ送り届けたいと思わずにはいられなかった。
***
いつもと同じ、ふっと意識が浮かび上がる感覚。ゆっくりと重い瞼を開けば、美しい瑠璃色の空が窓から見えた。隣で寝息を立てているアシㇼパさんを起こさないようゆっくり上半身を起して、ぐっと伸びをする。
窓から差し込む青みがかった光がチセの中をほのかに照らし、雑然と入り交じり寝入っている面々の輪郭をおぼろげに浮かび上がらせている。昨晩と変わらずの高鼾が一つ二つ聞こえる中でもそれなりに眠れたのは牛山さんのお陰かな、と数月前の珍道中を思い出して自然と口元が緩んだ。
「──なあ」
さて身支度を整えに行こうかと自分の荷物を探す中、横から聞こえてきた静かな低音に首を動かすとこちらを向いて寝転んでいる一人に目が留まった。輪郭や声、最後に見た位置からして尾形さんだろう。自分の腕を枕にして横になっている彼の顔に窓からの光は届かず、目が開いているのかもよくわからない。
「…すみません、起こしましたか?」
「……」
半ばぼんやりとしたままの頭で小さくかけた声には特に返されず、ゆっくりと体を起こす動作を始める。私の起きる気配で目覚めさせてしまうのは恐らく今日に限ったことではないのだろうけど、それに併せて起きだすというのは珍しい。
もしかして寝ぼけるのかな、なんてテキトーに思い付きながらすぐそばにあった荷物を手繰り寄せようとしたら、床についていた手を掴まれた。もう一度顔を向ければ上半身を起こしきった尾形さんの顔がじりじりと近付いてきて、鼻や目の形が見えた。瞳はまだ見えない。コタンのそばで鳥が数羽活動を始めた気配がした。
「──谷垣一等卒を俺は助けた」
次に聞こえた言葉はあまりに唐突で、寝起きの頭が聞き流そうとするのを辛うじて引き留める。それから頭の中でもう一度復唱して、ようやく言われた内容を理解した。
「……はい」
「面倒なやり方をわざわざ選んだ」
「はい」
「本当は村の奴らが追ってこられないようにするのが一番確実で手っ取り早かったんだ」
「はい」
淡々と述べられる事実をただただ肯定し続けていたら、始まりと同じく不意に声が途切れる。大人しく続きを待っている間にふと、自分が彼に対して肝心なことを伝えそびれていると気が付いた。
「尾形さん」
自由に動かせる手を持ち上げて、もう片方の手をすっぽりと包み込んでいる大きな手の上に重ねる。瞬間私の意思の及ばないそれがピクリと引きつったけど、待っていてもそれ以上動く気配はなかった。
「…今回の谷垣さんの件、私の力ではこんなに上手くは行きませんでした。
確かにアシㇼパさんと杉元さんが約束の期日までに姉畑支遁を見つけてくれましたけど、キラウㇱさんたちをすんなり納得させることができたのも、結果としては尾形さんがあの方法で谷垣さんを助け出してくださったからです」
先日のキラウㇱさんの話からして、尾形さんは最初から変わり身を置いて逃げ出すつもりで準備をしていたのだろう。
「あの暑さや雨の中、荷物と見間違えるほど気配を絶ち続けるのは並大抵の苦労ではなかった筈です。大変な思いをしながら谷垣さんと…私のことを助けていただき、ありがとうございました。
尾形さんが一緒にいてくださって本当に良かった。本当に……本当に、ありがとうございます」
潜めた声が目の前にいる彼には間違いなく聞こえるように、嘘偽りのない心からの言葉を紡ぐ。手元から視線を上げれば夜目がきいてきたのか朝焼けの光が強まったのか、大きいようなそうでもないような、見る度に印象の変わる瞳と視線が交わった。いつもならこちらから早々に視線を逸らすことが多いけど今日はその必要はないのだと自然と思えて、無言で見つめ合う。
やがて僅かに開閉を始めた口元へと注目を移したら、耳が音を拾う前に手と手の間からするりと自分のものではない温もりが抜き取られた。そのまま尾形さんは私に背中を向けて再び横になると、銃を抱え直して物音を立てなくなった。
何かしら気が済んだのか、勘の悪さに呆れられたのか。後者なら申し訳ないけど、私としては言いたかったことが言えて満足だ。
思えば夕張からここまで何度も助けて貰う機会があったのに、いざという時には乱闘の最中でそれどころではなく碌に感謝を伝えたことがなかった。食糧を手に入れてもらった時とか背後を警戒してくれることに気付いてお礼を言う機会はあったけど、こうして時間を割いてもらったことはない。
杉元さんとは未だに馬が合わないようだけど、谷垣さんの件も一応は一件落着して、少なくとも金塊の件に何らかの動きがあるまでは土方さん方との、尾形さんとの協力関係はもう少し続くはず。
自己満足でしかないのかもしれないけれど、これからはもっと尾形さんへの感謝を口にしてみよう。そう考えを改めてサラニㇷ゚を手繰り寄せた。
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