──って思ったのに。
その後も買い物を続ける私の隣を、尾形さんは何を買うでもなく付いてきた。杉元さんが言っていた店とは別の鉄砲店の前を通り過ぎた時だって、店先を眺めただけで足を向けることはなかった。
そうしている間に心無しか気分が良さそうに見えていた無表情はピリピリとした空気を纏い始め、着実にご機嫌が斜めに傾いていく経過を肌で感じる。
なんで?どうして?
私なにもしてないのに?
……なにもしてないからか?
塩や少しばかりの醤油を手に入れ乾物もある程度買い揃えて、そろそろ後回しにしていた私物の補充を始めたいのに一向にいなくなる気配のない尾形さんに少しだけ戸惑いが生まれる。後ろめたい物ではなくても異性の前で買うには些か憚るものもあるのだ。
誤魔化すべきか、素直に打ち明けるべきか。
足を止めることなく悩んでいたら、前触れもなく上着が後ろに引かれた。苦しくはないけど胸が圧迫されて少し息が詰まる。
誰の仕業か確信を持って首を斜め後ろに捻ると、尾形さんの横顔があった。その目が向けられている先を辿れば通りの店としては比較的小さな商店があり、ここから見える店内の商品と軒先の"萬小間物類”と書かれた板看板でそこが小間物屋であると理解する。
私を引き止める必要は別になかったけど、何か買いたい物が見つかったのかもしれない。
お互いの問題が解決しそうな気配によかったよかったと内心胸を撫で下ろしていたら、上着を掴まれたままズルズルと引きずられてそのまま店先に突き出された。
ずらりと並べられた商品の向こう、店の中で馴染みの客らしき媼と話し込んでいた前垂れを着けた女性が媼の後頭部越しににこやかにこちらを向いて、そのまま何も言うことなくさっと戻された。原因は私の姿か後ろの彼か。多分両方。
一向に汲み取れない意図にもう一度首を捻ると、最近あれもしかしてこの人もか…?と認識を改めつつある目鼻立ちの整った顔が存外近くにあってどきりと胸が鳴る。訳が分からないのはこちらなのに、まるで私の顔色を窺うかのように感情の読み取れない双眸がじっとこちらを覗き込んでいる。
瞳孔も溶け込むほど真っ黒な目に明け方薄暗いチセの中で見たさらに深い色を思い出していたら、ふと今の状況を説明できる考えが頭に浮かんできた。
……これもしや、昨日までの見返りを求められているのでは?
思いつきを明確なものにしようとまじまじとその顔を見つめ返すと、珍しい。先に尾形さんの視線がふいと店へと逸らされた。外套の下から伸びた手がほつれた前髪を撫で上げる。
「……何かないのか」
ほらあ!!
そりゃそうだ。あれだけの努力が「助かりましたありがとうございます」の一言で報われるはずがない。相応の報酬を求められて当然だし、尾形さんにはその資格がある。
店番らしき女性は相変わらず話し込んでいてこちらを気にする素振りはない。ならばと声をかけて商品を取り出してもらう前に目星を付けようと、数歩踏み込んで陳列棚の上と店の中の硝子板越しに見える品を見回す。
どれだ。尾形さんが私に買わせたいのはどの商品だ。
小間物屋という店柄故か需要に応えた結果か、目に留まるものは髪飾りや化粧品といった女性向けの華やかな品が多く、いまいちピンとくるものはない。
尾形さんが欲しがりそうな物…銃の手入れ用の道具とか?
でも店内にあるのは花の香りの付いた髪油や、人目を惹く美しい色をした繊細な作りの布ばかり。そもそも今は銃の手入れにどんな布や油が適当とされているのか勉強不足だし、後で弾の補充に鉄砲店に行くだろうからその時買うのが一番だろう。
鮮やかな朱塗りの器。飯盒を持っている尾形さんには必要なさそうだ。
繊細な編み込みの洋傘。使っているところを見てみたい気はするものの、片手が塞がるものを彼が欲しがるだろうか。
可愛らしい少女が表紙に描かれた本。今朝も私の料理本を読んでいたし読書が嫌いな訳ではなさそうだけど、この本が彼の好みに合うかは分からない。
細やかな革細工の煙草入れ。尾形さんから煙草の匂いがしたことなんて一度もない。
どうにも答えに辿り着けなくて、せめてヒントをもらえないだろうかとちらりと尾形さんに視線を向けたらくっきりと眉間に皺を刻んだ顔がこちらを見ていてひゅっと息を呑む。待たせすぎてしまっているしい。
苦し紛れにもう一度店内を見回したけれど結局これだと思えるものは見つからず、完全に私たちをいないものとして扱うことにしたらしい女性に助け舟を求める気にもなれなくて、結局肩を落として踵を返した。
尾形さんの正面で立ち止まり俯いたまま何か先に言ってくれまいかと数拍無言の時間を挟んだ後、観念して口を開く。
「……すみません、見つけられませんでした…」
「チッ」
私や杉元さんが苛立たせさえしなければ日頃の振る舞いはそこまで粗野というわけではない尾形さんの大きな舌打ちに、さらに身が縮こまる。そんな私を放置して再び歩き出した姿に解散の気配を感じ安堵の一息とともに見送ろうとしたらジロリと睨まれて、素早く尾形さんの斜め後ろへ移動して今度は私が後ろをついて歩くことになった。
なんだこれ。
互いに無言を貫いたまま進んでいたら、不意に立ち止まった背中が少しの間を開けてふらりと大通りを外れる道へと吸い込まれていった。大人しく後を追えば角を曲がってすぐの場所にある店の前でまた足を止めることになり、私を気にすることなく店のほうを眺める尾形さんに倣えば、そこは菓子処だった。
風に揺れる暖簾の隙間からは旭川で永倉さんと足を踏み入れた店とよく似た内装が垣間見え、甘い砂糖の香りがほのかに鼻をくすぐる。入口横の軒下には一つだけ置縁があり、すぐそばの壁には店の菓子をここで食べられると記された紙が貼られていた。
……これは。
そっと店から隣へと目線を戻す。先ほどと同じ、こちらの様子を窺う黒目と視線が交わった。
これなら!これならいけそう!
これ以上待たせてイラつかせないようにさっと店内に入り込む。
「いらっしゃい」
硝子の箱越しに声をかけてくれた店の主人らしき翁へ挨拶代わりに笑みを返して、素早く壁に貼られた品書きを見渡す。相変わらずどれもこれも美味しそうだ。
ところで今度こそ尾形さんには明確なご希望があったりするのだろうか。念のために背後を確認しようとしたら、意外とすぐそばに立っていてちょっとびっくり。でも見た目は同じなのに先ほどまでの棘々しさの消えた目がどこか満足そうにこちらを見ていて、口を開く気は無いものの不満はないことが分かった。
ようし!と意気揚々主人に声をかけながらお金を入れた巾着を取り出す。
「えーと…カステラを二つ、店先でいただいてもよろしいでしょうか?」
「勿論。お茶も安くしますがいかがです?」
「はい、いただきます」
注文をして小銭を数えながら、ふと思い付きを口にする。
「あの、それとは別にお饅頭を六つ、じゃなくて七…八つ包んでください」
「はいはい」
折角の機会だし、みんなの分のお土産も買っていこう。商品を取り出すために腰を折った主人へ続けて声をかける。
「少し買い物があるのですが、お店で預かっていただくことはできますか?」
「構いませんよ。お戻りの時間は?」
「お昼少し前に戻ります」
「ならその時間に合わせて出来たてご用意しますよ」
「わあっ、ありがとうございます!」
ちょっとした幸運に顔が綻ぶ。追加のお金を数えて出したところで、うっかり言い忘れていたことを思い出す。
「尾形さん、先に」
外に座っていてください。
と言うつもりで振り返った先には誰もおらず。
既に腰かけているのかと置縁がある位置の窓を覗いてみても誰もいない。
「お連れさんならお客さんが饅頭の取り置き決めてる間に出ていかれましたよ」
「……えー?」
「随分機嫌が悪そうでしたねえ」と困り笑いを浮かべるご主人に、とりあえず同じ表情を返すしかなかった。
***
「なまえさん」
最後に寄った米屋を出てすぐ、どこか超然とした声に名前を呼ばれて振り返ると、こちらに歩いてくるインカㇻマッさんがいた。すれ違った男女の幾人かが振り返り彼女の姿を確認する様が、その浮世離れした空気を際立たせている。
「…お買い物ですか?」
「いいえ、郵便局の用事が早めに済んだので迎えに来ました。谷垣ニㇱパとチカパシはリュウを連れて鉄砲店へ。私は鉄砲店に用向きはありませんから、荷物を持つ手伝いができればと思いまして」
「……助かります」
よくここが分かりましたね、と思い浮かんだ言葉は口には出さないことにした。買う品の確認は口頭でしていたし、その中でも一番重い米は後回しにすると思ったのかもしれない。郵便局から一番近い米屋もここだ。それにもしシラッキカムイが教えてくれたと言われても、「そうですか」としか返せない。
お言葉に甘えて酒の入った徳利を渡しながら「ありがとうございます」と伝えたら、にっこり笑みと一緒に「お気になさらず。私もなまえさんと二人きりでゆっくり話したかったので」とこちらが切り出すタイミングを計っていたことをあっさり口にされてしまい、動揺のまま空いた手でサラニㇷ゚を肩にかけ直した。
「あー…その、チカパシがご迷惑をおかけしたようで」
「そんなことはありません。あまり強くは叱らないであげてくださいね、私に相談することも相当悩んでいたようですから。そもそもこの件については、もっと以前から承知していました」
「……やっぱりアイヌの方にはすぐ気付かれてしまいますね」
「いいえ、私は違和感を持った程度です。シラッキカムイが答えを示してくれました」
「…そうですか」
結局口にしてしまった言葉に、なんだか自分に負けたような気がして面白くない。そんな私を見ながらインカㇻマッさんは眦と口角を緩めた。
「安心してください。チカパシと話した通り誰かに告げ口するつもりはありません。女の一人旅というだけで煩わしい出来事もあることは理解しているつもりです。
……本当に、今回の旅は快適でした」
徳利を胸に抱きかかえてそう呟いたインカㇻマッさんは、この数か月のことを思い出しているのだろう。そんな彼女をみていたらふと、谷垣さんとチカパシが食べるものに困ることなく釧路まで辿り着けた理由が分かった気がした。
「ところでなまえさん、一つ聞いてもいいですか?」
「はい、なんでしょう」
そんな中掛けられた声に返事をしたものの、インカㇻマッさんの言葉は続かない。余裕の滲んだ笑みを消して視線をさ迷わせる様は普段とはまた違う儚げな美しさを纏っていて、ぼんやりと眺めていたらもう一度目が合った。
「その…
……なまえさんは、谷垣ニㇱパとはどんなご関係ですか?」
既に彼女の中に答えはあるのだろう。インカㇻマッさんの視線は真っすぐで、それでもどこかほんの少しだけ、無駄な力が入っているように見えた。そんな表情を見ていたら、代わりに私の力が抜けていった。
ミステリアスなインカㇻマッさんについて、私が知っていることなんてまだ殆どない。とはいえ、彼女と谷垣さんとの仲を無闇に妨げるつもりは微塵もない。
それこそシラッキカムイに聞けばいいのでは?と頭に浮かんだ言葉は、すぐに溶けて消えていった。
私には経験のないことだけど、きっとこれは理屈じゃないのだろう。
「お互い小樽のコタンの方々に命を助けていただいきました。自惚れかもしれませんが、チカパシやコタンの子どもたちと同じようによくしていただいています」
「…そうですか……」
ほんの少し眉尻の下がった顔は、尾形さんよりもずっとずっと分かりやすく思える。
飄々としていて捉えどころのない彼女の真意は、どの面においても今の私には分からない。でも美味しいものを一緒に食べたいとか、おなかいっぱい食べさせたいって気持ちが、相手を思いやる気持ちなのは確かなのだ。
***
「お納めください」
甘い美味い茶が欲しいとはしゃぐ声を聞きながら、壁に背中を預け銃の手入れをする尾形さんへ解いた包みごと畳の上に置いて差し出すと、じろりと睨まれた。怖い。でも負けない。
「か、買い出しの時はご期待に沿えず申し訳ありませんでした。私の察しの悪さで不快な気持ちにさせてしまっていたのなら、重ねて謝ります。精進しますので、できればもう少しだけ尾形さんの考えていることも教えていただけたら嬉しいです」
結局そのご期待が何だったのかわからないままだけど、今聞いてもさらに反感を買いそうなのでまずは素直に謝っておく。
「これ、尾形さんのために作って頂きました。
尾形さんにとってはお詫びにはならないかもしれませんが、お嫌いでなければ召し上がってください」
柔らかすぎて一切れだけで持ち歩くのは勧められないというご主人の言葉にカステラは諦めて、ひとつだけ特別に作ってもらった他よりも二回りほど大きなお饅頭。それを大きく広げられた新聞を避けてさらに少しだけ尾形さんの方へと押し出すと、視線が私の腕を辿って包み紙の上へと注がれる。
そしてまた沈黙。今日は尾形さんの出方を窺ってばかりだなあと空気も読まずに思いついた自分を頭の中から追い出していたら、すっと顔を上げた尾形さんが新聞の上で銃とカルカを持ったままこちらを向いてがぱりと大きく口を開いた。
口を開けたまま動かなくなった尾形さんとそのまま無言で見つめ合う。向こうからアシㇼパさんたちの楽しそうな声が聞こえる。私も混ざりたい。
こちらを見ていた目線が下がり後を追えば案の定包み紙の上の饅頭を確認することになり、再び顔を上げると私を凝視する黒目とばっちり視線がぶつかった。主張するように口の開きが少しだけ大きくなる。考えていることを教えてほしいと言った途端にこれである。
……でもわかる。
多分、今度こそ、予想は合ってる。
目は逸らさずに手探りで饅頭を手に取って、少し考えてから半分に割った。普段見る機会なんてない尾形さんの口の中。わずかに動く舌となだらかな歯並びに続いてそこから少し飛び出た犬歯に目が止まり、「危ないからやめときなよぉ」と頭の中で昨日の杉元さんのセリフが蘇る。
饅頭を持つ指先に生まれた不安には気付かないふりをして、ゆっくりその目に向かって瞬きを繰り返しながら上下の歯の間に饅頭をはめ込み、そっと指を引き抜いた。
もごもごと器用に口の中に饅頭を全て納めた尾形さんの頬が黙々と動く様を見守る。やがてそれを飲み下すと、再び口を開いて見せるので互いに同じ動きを繰り返す。そうして最後に大きく喉を上下させた後、もう一度私を見て満足げに鼻息を鳴らして見せたかと思えば、ぷいと顔を自分の手元に戻して止めていた両手を動かし始めた。
それ以上の反応が返ってくる様子はない。が、重々しい空気はすっかりなくなっていた。
……もしかして、お腹がすいて機嫌が悪かっただけ?
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