風が磯の匂いを運んでくる昼八つ時を過ぎた海辺には、真夏の日差しが燦々と降り注いでいる。

赤く色付き始めた実が目を引くハマナスの茂みの横で膝を抱えながら、米粒よりも小さなイタオマチㇷ゚が浮かんでいる海原を眺めて本日何度目かのため息を吐けば、視界の両端から二つの顔が生えてきた。

「おいおいなまえちゃんまぁーだ不貞腐れてんのかよ。いーじゃん別に陸でのんびりアシㇼパちゃんの帰りを待ってりゃさあ」
「…白石さんは昨日海亀猟に連れて行ってもらえたじゃないですか。私まだ海で猟をしたことなかったんです」
「それは残念だろうけど、誰も悪くないんだし仕方ないでしょ。なまえさんだってアシㇼパさんが待ってるって分かってたとしても、結局は村の人の手伝いを優先しただろ?」
「そうなんですけどぉ…」

アシㇼパさんのご親戚がいる海沿いのコタンに到着したのは昨日のこと。
美味しいクンネ・エチンケのオハウをご馳走になった翌日いつも通り夜明け前に起きてコタンの井戸に向かったところ、早い時間にもかかわらず赤ん坊を背負いながら水汲みをしている女性と出会った。
拙い私の挨拶ににこやかに返してくれた彼女にひと安心し身なりを整えていたら赤ん坊がぐずり始めてしまい、あやす彼女の手伝いを買って出て水を運んでいたらチセに戻った頃にはアシㇼパさんは既にマンボウなる魚を捕りに出た後だったのだ。

「アシㇼパはあなたを探したけど見つからなかった」とアシㇼパさんの大叔母様に言われ血の気が引いたが、時すでに遅く。
昨日の海亀猟も私は大叔母様に陸での手伝いを頼まれていつか話に聞いたイタオマチㇷ゚に乗ることはなく、海へ出て行った三人の楽しそうな姿を尾形さんが奇跡的に貸してくれた双眼鏡で眺めることしかできなかった。
そんな私にせっかくアシㇼパさんががくれようとした二度目のチャンスをみすみす逃した後悔はこの海よりも深い。アシㇼパさんが戻ってくるまで不貞腐れていても許されるはずだ。


「わかった、なまえちゃん腹減ってんだろ。でも俺今飴切れてるんだよなあ」
「別にお腹すいてないです…」
「ほらなまえさん、ハマナスあるよ。あ、でも谷垣酸っぱいって言ってたな…なまえさんはハマナスの実って食べたことある?」
「……以前小樽でアシㇼパさんと海岸のそばを通ったに時に一度だけ。そんなにすっぱいとは思わなかったです」
「そうなんだ。小樽と釧路では味が違ったりするのかな?少し味見してみてよ」
「……中の綿を取るのが面倒です」
「はいはい」
「アシㇼパちゃんがいる時は聞き分けいいくせにー」

アシㇼパさんに誘われたのに寝たフリでやり過ごしたという杉元さんとおまけに白石さんに八つ当たりしながらそっぽを向けば、微塵も気していない愉快そうな声とガサガサと茂みを探る音が聞こえてきた。
……これじゃあ杉元さんと白石さんに私があやされてるみたいだ。いや、実際そうなんだろう。

なんだかんだこのところずっと甘えっぱなしじゃないかと気付き恥ずかしくなって首を動かしたら、摘み取ったハマナスの実から折り畳み式の小刀を使ってヘタや種を取り除いている杉元さんの手元が目に止まった。
慣れによるものか天性のものか、こういう指先を使う細やかな作業が杉元さんは得意らしい。日高でも切られた襟巻きを自分で綺麗に直していたし、ひょっとすると機織りや刺繍のセンスもあったりするんじゃなかろうか。


「よーしできた。なまえさんはいどうぞ」

中は柿色だったその実を挟んだ指先に促されるままあ、と口を開けば、塊が二つ飛び込んできた。噛み締めた皮は固めで水菓子と呼ぶには些か物足りないけど、口の中に広がる素朴な甘酸っぱさをじっくり味わう。

「どう?」
「……ほんのりスモモみたいでおいしいです」
「ん、そっか」
「杉元杉元ぉ、俺にはぁ?」
「ほらあーん」
「ヘタじゃねえか」

こうなると味の違いは土地柄というより当たり外れのようなものなのかもしれない。きゃいきゃいじゃれ合う二人の声を聞きながら、私も一番近くにあった茂みへと手を伸ばした。
枝の棘に気をつけながらツヤツヤとした紅色の実をもいでマキリで割り開く。一寸にも満たない果実を扱うには刃が少し大きくて、やっぱりこんな時にはメノコマキリのほうが使いやすいなあと思う。
それでもなんとか可食部だけを残して中に詰まっていた種と毛を取り除き、出来栄えに満足しながら腰を上げる。

「杉元さん白石さん、あーん」

同時に開かれた口にひとかけずつ放り込んだ直後、二人一斉に「すっぱぁい」と目と口をすぼめるものだから思わず吹き出してしまった。当たりではなかったらしい。

「あーったく、甘いもんか塩辛いもんが食いてえ……」とぼやきながら肩を落とした白石さんに謝りながら足を動かし始めた二つの背中について行く。ついさっきまで沈んでいた気持ちが今は随分と軽い。結局二人に機嫌を取ってもらってしまった。



それからきらきらと輝く海を眺めつつ三人一緒にあてもなく砂地を歩いていたら、海側から大きく風が吹いた。
これ幸いとうなじ側の襟巻を掴んで少し汗ばんだ首元へバサバサと風を送っていると、こちらへ振り返った白石さんの目の大きさが半分ほどになる。

「……前から思ってたんだけどさぁ。なまえちゃん上着と襟巻き脱がねえの?見てるこっちがあっついんだけど」
「うーん、でもこうしていた方が日差しは防げるので……それに襦袢は脱いでいますから」

もちろん私だって暑いけど、少なくとも白石さんと谷垣さんの前では脱ぐのが躊躇われる事情がある。見た目は変わらないけどそれなりに快適にしていると曖昧に笑って伝えたら、「あー」と納得と無関心を足して割ったような間延びした声が返ってきた。

「そういや出身西の方だっけ?寝る時も着けっぱなしだし、暑さに強いのかねえ」
「どうでしょうかねえ」

別に暑さにも寒さにも強くなんてないし、なんなら寒さに関しては白石さんとどっこいどっこいだけど、わざわざ訂正を入れる必要は無いだろう。
言いながら身体の向きを進行方向へと戻した白石さんも真剣な答えを求めているようには思えなくて、再会した背中にテキトーな相槌を返せば会話はそこで途切れた。

寄せては返す波の音だけが聞こえる気まずさなんて少しもない沈黙の中、のんびり歩みを進める。白石さんへこうした気楽さを覚えたのはいつからだったっけ。結構最初からだったかもしれない。


「なまえさん」

背後から聞こえた声に振り返れば、数歩離れた場所に杉元さんがいた。
ついさっきまで白石さんの隣を歩いていたのに、普段に比べると随分と遅い足取りのせいで少しずつ二人の距離は開いていく。どうしたんだろう。

それ以上離れないように立ち止まると、杉元さんも私から一歩分の距離を空けて止まった。表情をよく見ようと顔を上げたら丁度後ろにあった太陽を直視してしまい、眩しさに目を細める。いつの間にかかなり日が傾いてきていたらしい。もう少しして光に赤みが差し始めたら、コタンに戻って夕食の手伝いをしながらアシㇼパさんの帰りを待とう。きっとお腹がすいているだろうから。
杉本さんの口が再び開く。腕を持ち上げて日差しを遮ろうと試みるけど、影に塗りつぶされた顔はやっぱりよく見えない。

「この旅が……全部が終わったら。なまえさんは、北海道に──」


杉元さんが全てを言い切る前に、突然何かが視界に割り込んできて杉元さんの胸に留まった。反射的に注目した先には、青朽葉の着物に我が物顔で張り付いて触角を揺らしている奴がいた。

「わっ!!」
「あ、えーと…バッタ?」

ぱっと見ただけでイナゴと区別がつくほど虫に明るくはないし随分と黒い体はどちらにしても見慣れないけど、イナゴにしてはかなり大きいのでバッタじゃなかろうか。そんな当てずっぽうな判断を下している間に大声を上げた杉元さんは素早く着物を引っ張ってそれを指で弾き飛ばした。

「やだぁ〜、バッタきらーい!!」
「おやまあ」
「不死身のくせに」

角度が変わり見えた心底嫌そうな杉元さんのしかめっ面につい声が漏れる。虫全般が嫌いというならともかく、バッタを名指しするとは珍しいような。
跳ねる生き物が苦手なのか、杉元さんのご実家が農家だったりするのか。からかう白石さんの声を聞きながらそんなことを考えていたら、視界の外から妙な音が聞こえた気がした。

ジジ…とかすかに耳に届いたそれの正体を確かめようと顔を上げ、息が止まる。



遠くにいる鳥の群れ。
そう認識したのはほんの一瞬のこと。

実際には目前にまで迫ったバッタの大群だと気付くまでに要した時間は、それより遥かに短かった。


誰かが声を上げるまでもなく三人一斉に駆け出したけど、ものの数歩でまだらな黒に飲み込まれる。さっきまで聞こえていた穏やかな波の音は、バチバチブブブと力強く不快な羽音に瞬く間に塗り替えられてしまった。

「ぎぇえええッ!!」
「いっぱい飛んでくるッ!気持ち悪ぃ!!」
「ッ…!!」

ぶつかって、引っ付いて、這いまわって、耳の横や目の前をバタバタ掠め飛んでいくバッタバッタバッタ。口を開けると飛び込んできそうな勢いに気圧されながらも唇を真一文字に結んで腕を振り回す。払っても払ってもキリがないのは分かっているけど、じっとしてなんていられない。そうだ私より杉元さんのバッタを払わないと!

「こいつら服かじるぞ!!」
「い゛っ、耳噛まれた!…ったぁ!?」

混乱の最中でチクリと感じた痛みに思わず叫んだら、次の瞬間後頭部を引っ叩かれた。
明らかにバッタとは思えない衝撃に振り返るより先に、見慣れた色と感触が視界の上から半分を覆い隠す。それは私の襟巻で、すぐそばにはいつの間に合流していたのか外套を被った尾形さんが伸ばした腕をその中へと引っ込めていた。
襟巻を私の頭に被せてくれたのは彼で、先ほどの衝撃は恐らく頭についていたバッタを払ってくれたものだったのだろう。そう理解すると同時に首元に残っていた襟巻きで鼻から下を覆い、頭に乗ったもう一巻きで頭部ごと両耳を隠して外れないように顎下で押さえつけた。顔周りの穴が塞がれただけでもほんのちょっぴり安心感が生まれる。


「あの番屋に避難だ!!」

聞こえてきた声に周囲を見回せば少し先に家を見つけた。あれだけ嫌がっていたバッタに囲まれる中手を引いてくれる杉元さんの背中に続いていると、谷垣さんが駆け寄ってきた。チカパシは村に戻っているけどインカㇻマッさんとはぐれてしまったらしい。
「死にはしねえよ早く入れッ!!」と急かす声を聞きながら周りを見回しても、あの鮮やかな葡萄色は見当たらなかった。

辿り着いた番屋の中へ谷垣さんに続いて杉元さんに半ば放り込まれる形で飛び込んで、服を払うのもそこそこに屋内を駆け回って戸締りを確認する。幸い小さな侵入者たちの気配はなく、落し物を拾いながら玄関口に戻ればバサバサと身体についたバッタを払い落としている男性陣。土間をピョンピョンと元気に跳ね回るバッタたちにまた身体や着物をかじられてはたまらないので、勝手場から拝借した笊をひっくり返してその中に彼らを詰め込み隅に押しやった。



ようやく落ち着きを取り戻した屋内で誰かが口にした「一体何が起きてるんだ?」とその場にいるほぼ全員の気持ちを代弁した言葉に答えてくれたのは、尾形さんだった。

耳に入ってきた“飛蝗”という聞き覚えのある言葉は、続きを聞くうちに昔耳にしたものだと思い出す。隣国の明とは違って地形や諸々の理由で日本ではまず起こることはないと聞いていたけど、この広大な大地北海道では事情も変わってくるらしい。

途中聞こえた「海だって越えちまう」という言葉にドキリとして、男性陣が離れたガラス窓から変わらず穏やかな海原を眺める。背後で杉元さんが「アシㇼパさん大丈夫だろうか」と呟いた。



「通り過ぎるまでどんぐらいかかるんだ?ハラ減ったぜ」

そんな中いつもの調子で切り出したのは白石さんだった。小樽での桜鍋の時も日高でヒグマに囲まれた時もそして今回も、間が抜けるような彼のこうした発言のお陰で気持ちを切り替えられているところは少なからずあるんだろうなあとぼんやり思う。

「……勝手場には食料になりそうなものはありませんでした」

番屋には網元の家族が住んでいることもあるそうだけど、少なくともここは違うらしい。ちょうど閑散期なのかざっと見た限りお腹を満たせそうな物は見当たらなかったものの、休憩に使われているのか水瓶には口にしても問題なさそうな水が入っていた。
ついでにぱっと思いついた土間にある笊の中身については口にしないことにする。余り変わらないとは思うけどイナゴより劣ると聞くし、そもそもまだ糞出しもしていない。

「食料…そう言えばこれがある」

全員の視線を集めた谷垣さんが持ち上げてみせたのは、何かの肉の塊だった。頭や脚、胴体の輪郭は何となくわかるけど、私の知識ではそこから本来の姿は想像できない。

「ラッコの肉だそうだ」
「らっこ……」
「どうしたなまえ、もしかして不味いのか?」
「いえ、実物は初めて見たもので」

噂には聞いたことがあったけど、対面するのはこれが初めてだ。とはいえ結局生前の姿は分からないままだし、味ももちろん知らない。北海道、五年過ごしてもまだまだ知らないことだらけだ。

つぶらな瞳の持ち主と聞くこの生き物の味を知ることに若干胸のざわめきを感じなら、とりあえずは流れに従って準備を手伝うことにした。



──が、ここでまさかの問題発生。

「……すみません。私この匂い苦手みたいです」
「へえ。俺まだそんなに匂いしねえけど」

肉の下処理をしている時から何となく感じていた違和感は鍋を囲炉裏に吊るして少し、底からふつふつと小さなあぶくが浮き上がり始めたところで確信に変わった。
白石さんの言う通り匂いはまだ微々たるものだし、決して臭いわけではない。
それでも独特としか形容のしようがないこの匂いを嗅いでいたらなんだか頭が重くなってきて、食欲はどこかに引っ込んでしまった。身体は熱っぽいし、ほんの少し眩暈がする気もする。

「……あー、確かに本調子じゃなさそうだわな。吐くなら便所行ってきな」
「火から下ろすか?」
「いえ、離れさえすれば大丈夫だと思うのでみなさんで召し上がってください。私奥の部屋お借りして休んでいます」
「何かあったら声かけてね」
「はい、ありがとうございます」

せっかく頂戴した命、同席できないのは残念だけど食べられる人たちに食べてもらうべきだ。
やけに顔をじろじろ見てくる白石さんの言う通り万が一にでも失態を犯すことにならないよう、鍋に手を伸ばした谷垣さんへかぶりを振ってゆっくり立ち上がる。気遣ってくれた杉元さんにも笑ってお礼を述べてから、一番奥の部屋へ入り静かに障子戸を閉めた。


廊下は雨戸が閉め切られていて、部屋にひとつある窓からは硝子に張り付いたバッタの腹と赤みがかった外が見える。
襟巻きを外して横になり瞼を下ろせば、時折硝子にぶつかる軽い音以外の外の気配はかなり薄くなった。ひんやりとした床が耳や頬に触れてとても気持ちがいい。

砂浜を歩いていた時の白石さんの言う通り、きっと暑さにやられたんだろう。でもさっき水は飲んだし、もうすぐ日も沈む。気温も少しずつ下がってくるはずだ。

だからちょっと休めば大丈夫。
そう自分へ言い聞かせて、大きく息を吸って吐いた。


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