──あつい。

覚醒には至らない中途半端な微睡みの中、内に籠った熱は冷めるどころかじわじわと温度を上げ続け、何か乾いた音が聞こえた気がしたのをきっかけにとうとう重い瞼を持ち上げた。

広がったのは今の今までと大差ない暗闇。眠っている間に夜の帳が下りきっていたらしい。
それでも部屋の輪郭が薄ぼんやりと認識できたのは、隣の部屋の灯りが障子戸を通して照らしているからだと感覚で理解した。

横になる前にはちょっとした兆しでしかなかった調子の悪さが、今は明確に身体の異変を訴えている。
いっそ気を失ってしまった方が楽になれそうなクラクラとした目眩と同時に、胸がドキドキと脈打って振動が頭の中に響き渡る。そしてなにより、暑い。全身が熱を放って今にも燃えてしまいそうだ。

「はぁっ……」

辛抱堪らず上着ごと着物の前身頃を大きく開けたけど気休めにもならなくて、さらに中に着込んでいた肌着の首元と胸下の付け紐を解いて開く。まだ足りない。苦しい。
端に紐を通して首の後ろで結んだ褌と胸の間に手を入れ晒布を引っ張っても開放感は得られず、疲労と苛立ちばかりが募る。こいつなんでこんなにしっかり巻き付けてあるんだ。

あつい。くるしい。くらくらする。何度胸いっぱいに息を吸ってもひとつも楽にならない。

鉢巻をずり上げたら頭から外れたけど今はどうでもいい。蒸れていた額が空気に晒されて微々たる解放感はあるものの、それだけ。全然足りない。床板にべったり頬や耳を押し付けてみても一瞬で生ぬるいものへと変わってしまう。

水分が足りなかったのだろうか。塩も摂らないといけなかったか。まさか夏風邪でもひいたのだろうか。
濃い靄がかかったような頭で原因を突き止めようと試みるけど、同時にこの状況が自分一人ではどうにもならないものだとどこか確信めいたものを感じた。じんわり滲んだ涙が目尻に溜まっていく。やっぱり熱があるのかもしれない。

天井を仰ぎ見ればちょうど何かが光を遮ったようで、大きな影がゆらりと揺れた。障子戸を見ればいくつかの朧げなシルエットが揺らめいていて、そこに人の気配を思い出す。そういえば少し前からごそごそと衣擦れの音が聞こえてきていた気がする。


"何かあったら声かけてね"

頭の中で優しい言葉が繰り返される。

自分が何をしたいのか、何をしてほしいのかもわからない。それでも彼なら──杉元さんなら、この状況をどうにかしてくれるような気がした。

目を閉じれば涙がまつ毛に滲む。私を見る穏やかな顔と先ほど手を引いてくれた人より高い熱を思い出せば少しだけ眩暈が軽くなって、もう一度障子に浮かぶ曖昧な影絵を見る。あの手のひらの温度なら、これだけ熱い今だって心地良いに違いない。

とりあえず声だけでもかけてみようか。もし杉元さんがだめでも谷垣さんが、白石さんが、もしかしたら尾形さんが、どうすればいいのか教えてくれるかもしれない。
そう思いついたら居ても立ってもいられなくなって、ぐぐっと重たい身体を持ち上げる。

誰か助けて。その気持ちだけで這うように近付いた障子戸の向こうは、先程からドタンバタンとやけに騒がしい。私以上に荒い息遣いや低くくぐもった呻き声、合間に不定期な間隔を空けて密度のあるものがぶつかり合っているような音がする。

行ってはいけないと頭の中で誰かが止める。
でもここを開けないと、杉元さんに会えない。
静止する声を振り切り引手にかけた手に力を込めて、なんとか顔の幅ほどに開いた隙間に近付いた。



覗いた先は稽古場だった。
自分でも何を言っているか分からない。でも稽古場だった。

熱気の籠った部屋の中、褌姿の男たちが汗を流しながら激しく組み合っていた。囲炉裏のそばでは杉元さんと谷垣さんが一心不乱に互いの身体を押し付け合い、その背後でもう一組も同じように相手の熱を受け止めている。


なんだこれ。
頭に浮かんだ文字をそのままゆっくり読み上げて、自分が混乱しているのを理解する。いけない、落ち着け私。

きっと暑さのせいで咄嗟の判断ができなくなってるだけだ。よく見て冷静に考えればきっと状況を理解できるはず。
そう己に言い聞かせながら目を閉じゆっくり深呼吸して、今一度瞼を持ち上げた。
なんだこれ。

視覚からなだれ込んできた情報の数々に置き去りにされている間に、杉元さんが谷垣さんを押し倒した。一応相撲を取っていることだけはなんとなく察せるので当然盛大に背中を打ち付けた谷垣さんが負けとなったはずだけど、杉元さんは倒れ込んだ谷垣さんの胸に頬を寄せ互いの足を絡みつかせたまま動かないし、谷垣さんも何も言わずに目を閉じ息を荒らげている。なんかアレした後みたい、と浮かんできた感想ははっきりとした形にならないうちに思考から蹴り飛ばした。

そうして二人が倒れたことで背後で組み合っていたもう二人の姿に意識が届く。一人は予想通り白石さんだったけど、白石さんの愚直なまでの押し込みをその胸でどっしりと受け止めさらには抱き込んでいるもう一人がキロランケさんだと気付いた瞬間、理解した。
あ、なんだこれ夢かぁ。

だってキロランケさんとは旭川ではぐれてしまっている。私たちと合流するために今頃北見の辺りか、既に網走に着いているかもって白石さんが話していたのはつい最近のこと。その時誰かから別の可能性が上がっていたような気もするけど、上手く思い出せない。
とにかくキロランケさんがここにいるはずがないのだ。だからこれは夢。

夢なんて理解できなくても当然だと思ったら、ほんの少しだけ心に余裕ができた。高熱で寝込むと訳の分からない夢を見たりするらしいけど、これがそうなのだろうか。確かに訳が分からない。なんでみんなで相撲を取ってるの。分からない。誰か助けて。


こうなるとさっきからあれらに近付いてはいけない、気付かれてはいけないと告げている自分の本能の信憑性が一気に増してくる。夢なんて何が起きてもおかしくない今、あそこに近付きでもしたら優しく触れてもらうどころか渾身の張り手を食らいそうだ。夢だろうがそれはなんか嫌だ。
だから気付かれる前にさっさと戸を閉めないと。
そう思うのに何故かその光景から、みんなの身体から目が離せない。

別に彼らの肌を見るのが初めてというわけじゃない。怪我がある程度癒えるまで谷垣さんの清潔を保つ手伝いをしていたし、旭川を出て川の冷たさが心地良くなってからは杉元さんたち三人も以前より行水をする機会は増えていたから、杉元さんがさりげなく配慮してくれても彼らの半裸や際どいを通り越した姿を見ざるを得ない事故はあった。
とはいえ異性の肌に一々頬を染める時期などとうに過ぎた我が半生。礼儀は弁えつつ偶然視界に入れば体格に感心したり目に付いた傷跡から当時の状況を想像することはあっても、それ以上に彼らの身体に自分から関心を寄せることはなかった。
それなのに今、目の前に広がる景色から視線を逸らせないでいる。

私なんて比較にもならない厚みや垂直に近い胸下から腰へのライン、引き締まったお尻の両サイドにあるくぼみに性差をまざまざと見せつけられる。杉元さんの全身にある深い傷跡、谷垣さんやキロランケさんの濃い体毛、案外しっかりしている白石さんの上半身に彫り込まれた件の入れ墨。ジロジロ見るものじゃないのは分かっているのに、私には無いもの全てにドキドキする。
取り組んでいる四人とも苦し気に眉を顰めながらもどこか恍惚とした表情を浮かべていて、ゾクゾクと甘い痺れが背中を這い上がってくる。
こんな感覚、知らない。どうすればいいのか分からない。


自分の中で蓄積されていく得体の知れないなにかに戸惑いながらも四つの肢体を舐め回すように見ていたら、偶然運んだ視線の先に五つ目の人の顔があってビクッと肩が跳ねた。よくよく見なくてもそれは横になった裸体の尾形さんで、いつもすましている目が珍しく眠たげにとろけている。この暑さに当てられたのだろうか。

以前より少しずつ目が合う機会が多くなってきて意外と感情を表すこともあると知った瞳が、いつもと同じようにただじっとこちらを見ている。それだけなのに、さっき杉元さんたちを盗み見ていた時と同じくらい、徐々にそれ以上に胸の鼓動が速まっていくのがわかる。

当然のように露出しきった身体は杉元さんや谷垣さんたちを見た後では一瞬印象が柔らかくなりかけるものの、すぐに決してそんなことはないと分かる鍛え上げられた体躯に尾形さんもまた戦場を生き抜いた屈強な男性なのだと再認識する。汗でじっとりと湿った身体は囲炉裏の光で凹凸を際立たせていて、喉仏や筋が浮き出た首から張りのある胸、縦横に割れた腹を臍の下へと辿ったところで進行方向から持ち上げられた筋肉ばかりの太腿に行先を遮られ慌てて視線を顔へと戻す。

そのまま尾形さんはもぞもぞと身体ごとこちらを向いて動きを止めた。太い二の腕に押し潰された胸の谷間に濃い影ができる。ゆっくりと大きく上下する上半身の動きに合わせて、汗が一筋つうっとその影の中へと吸い込まれていく様を追う。みずみずしい肌が触れればしっとりと手に吸い付くのは想像に容易くて、それを確かめたい衝動が湧き上がる。

動いたものへ焦点が合う。唇だった。薄暗く距離もあるのに割れたその中でチロリと動いた舌が見えて、なんだかとても艶かしいものを見ている気持ちにさせられる。視線は釘付けになったまま、下唇の内側をそっと舌でなぞり口内の感触を確かめた。尾形さんにもこんな柔らかい場所があるのだろうか。確かめてみたい。指の腹や──それよりもっと感触の伝わる場所で。

がっしりと通った鼻筋を撫でるように視線を送り、再びそれを挟む双眸と見つめ合った。煤を煮詰めて流し込んだようなどろりとした瞳の中では反射した囲炉裏の火がゆらゆらと揺れていて、見続けていると引きずり込まれそうな抗い難い衝動に駆られる。
不安はある。それでももっと間近でその昏い中を覗き込めば、さらに奥深くにあるなにかを知ることが、触れることが出来るのかもしれない。


ごくりと生唾を飲み込む音が耳の中から聞こえた時、尾形さんがゆっくりと頭をもたげ、緩慢な動きで上半身を起こし始めた。視線が外れ、顔に流れ落ちていた前髪がはらりと重力に従う。


こっちに来る。


そう理解した瞬間、身体が動いた。

引戸から飛び退いて落ちていた襟巻と鉢巻を拾い上げ、足がもつれながらもガラス窓に駆け寄る。ほとんど見えない暗闇の中で指を這わせて触れた組子に指を掛け、ガタガタと音を立てて何とか開いた窓から飛び出せばべしゃりと顔から地面に転げ落ちた。前後不覚になりかけながらも立ち上がって、何もかも構うことなく走り出した。


限界だった。
あれ以上目を合わせていたら、触れ合いでもしたら、私の知らない尾形さんを──私を知ってしまう気がして、気付けば逃げ出していた。
あとほんの少しのきっかけだけで、私の中にあるなにかが取り返しがつかないほど大きく変わってしまいそうで怖かった。


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