波の音に沿ってひたすらに走り続けていたら、進行方向に灯りを見つけた。それは砂浜で燃えている焚き火で、すぐ側にある影の正体に気付いた瞬間、ぶわっと安堵が胸に込み上げると同時に少しだけ泣きたくなった。
近付くにつれて足の動きを緩め、橙色の光に足元を照らされて立ち止まる。

「アシㇼ、パさん」

乱れた呼吸のまま数え切れないほど呼んできた名前を口にすれば、こちらを振り向いた拍子に艶やかな髪がさらりと肩からこぼれ落ちた。

「……なまえ」

その声に呼ばれたことが嬉しくて自然と頬が緩んでいく。引き寄せられるままにさらに近付いたら、彼女の凛々しい顔立ちを引き立てている眉がぐっと中心に寄った。

「なんだその恰好。靴も履いていないじゃないか」
「え?……うわ」

言われて下を向けば、自分でもびっくりする程みっともない姿だった。着物の袷は大きく開いて肌着どころか褌と端のよれた晒布が丸見えで、長靴は番屋に置いてきたから靴下は砂まみれだ。恐る恐る足裏を確認したけど、幸い穴は空いておらずほっとする。

「いやあ、バッタから逃げた先の番屋の中が暑くてつい……ってそうだバッタ!アシㇼパさん無事ですか!?」

ようやく日中の出来事を思い出して急いで残りの距離を縮める。火に照らされた着物もアシㇼパさんもいつも通りに見えることを確認してから、今更ながらあの無数の生き物たちが今はどこにもいないことに気が付いた。いつの間にか次の土地に飛び去って行ったらしい。

「海の上には来なかった。それより何ともないなら早く着物を整えろ、汗をかいたままそんな格好をしていたら風邪ひくぞ」
「…はい」

差し出されたいつも通りの優しさにふっと肩の力が抜ける。「アシㇼパさんが無事でよかったです」と付け足しながら言われた通り着物を整えて、ついでに靴下も脱いで砂を払った。コタンに戻ったらちゃんと洗わないと。
靴は……日が昇り切ってから取りに行こう。

「杉元たちは?」
「……男性方は全員近くの番屋に避難しています。あ、でも谷垣さんがインカㇻマッさんとはぐれてしまったって。チカパシはコタンにいるみたいなんですが…」
「……インカㇻマッは私と一緒にいた」
「おや、そうでしたか」

なんやかんやで全員無事だったらしい。アシㇼパさんがインカㇻマッさんの名前を呼んでいるの初めて聞いたかも、なんてちょっとしたことに意識を向けつつ、身なりを整え終えてアシㇼパさんの横に移動する。「隣よろしいですか?」と尋ねれば、いつも通り間髪入れずに「ん」と返された。

あんなに掻き乱されていた心はいつの間にかすっかり穏やかになっていて、砂地に腰を下ろしながら小さく息を吐く。
結局さっきの訳の分からないモヤモヤはなんだったんだろうか。夢か現かさえ曖昧だった出来事について考えようとした途端、思い出したのはあの時の自分のとんでもない心情。

「ひぎッ、ぐ、ゔぅ〜っ……!!」
「ほらみろ、やっぱり腹が冷えたんだ」

膝を抱えて蹲り叫び出したい衝動を必死に押さえ込んでいたら、横からアシリパさんの呆れ声。「その辺でさっさと出してこい」と続いた優しさに「だいじょうぶでぇ゛す……」と返し、感情の大波に耐える。

恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。ドキドキが止まらないとか、ふ、触れてみたいとか、たかが褌姿の男性たちに私はなにを、何をあんなに興奮していたんだろう。意味は分からないけどみんなただ汗を流して懸命にすもうわああやめろやめろ細部を思い出そうとするな私!!
……っていうかあれって本当に夢だったんだろうか?夢にしてはやけにリアルだったような……いや、きっと部屋の暑さに当たって意識が朦朧としてたんだ。夢…というか幻覚みたいなものを見ていたんだろう。
ただそれだけ。何もおかしいことは無かった。だからさっさと忘れる。これ以上考えない。


荒ぶりかけた気持ちと熱をなんとか落ち着かせつつ隣を見たら、大きな目がこちらを見上げていた。色はわからない。それでもいつも通りきらきらと輝いているのであろうそれをもっとよく見ようとしたら、避けるようにふいと俯かれてしまった。その様子に違和感を覚える。
──そう言えば先程彼女の名前を読んだ時、私と目を合わせる直前の表情が一瞬陰って見えた。焚き火のせいだと思っていたけど、本当にそうだったのだろうか。

「……コタンには戻らなかったんですね。今夜はこのままここにいますか?」
「ん」
「そうですか。あ、マンボウは捕れましたか?」
「ああ」
「……お腹は減ってませんか?金平糖食べます?眠くはないですか?寒くは?」
「平気だ」

心ここに在らずな返答に確信を持ち、何か考え事ですか?と続けかけた口を閉じた。
私に話を聞いて欲しい時、いつだって彼女は自分から声をかけてくれる。だから少なくとも今はまだ、彼女は一人で考えることを望んでいるのだ。
信用されていないわけじゃないことは分かっている。それでもこの小さな体には本来ならば大きすぎるであろう問題に一人立ち向かっている姿を見ていると、強さや頼もしさと同じくらい己への情けなさを感じる。私がもっと強くて頼りになる存在だったなら、アシㇼパさんは一人でこんなに悩まずにいられたんだろうか。

「……アシㇼパさん、私薪を集めてきますね」

考えれてみれば一人になりたいからコタンに戻らずここにいたのであろう彼女に望み通り静かに考える時間を渡したくて、でもひとりぼっちにはしたくなくて。離れた場所から見守ろうと立ち上がりかけたら、何かがそれを極々弱い力で妨げた。振り返り視線を下げれば私の上着を掴むアシㇼパさんの手。顔は変わらず地面を向いていて表情は読めない。

「いい。今ある分で一晩足りる」
「……分かりました」

少し強められた引かれる力に従ってもう一度その場に腰を下ろしたら、離れていった手に代わってゆっくりとアシㇼパさんの身体が倒れ込んできた。二の腕から胸へ、胸から腹へと滑り落ちてくる頭の目的地を察して膝を崩して差し出せば、ぽすりとそこに納まった。
その重さに喜びを噛み締めるのと同時に、少しだけ胸が苦しくなる。この行為が先日の姉畑騒動の延長線か、もしくはアシㇼパさんにとってただの気まぐれでなんの意味も無いものであればいいのに。


遠くに近くに繰り返される波音の合間に、小さく薪がはぜる。橙色の暖かな光が白い肌や着物、濡れ羽色の髪の上でゆらめく。


「……なまえ」
「はい」

夜風に靡いて頬にかかった柔らかな髪を拾って耳にかけた。それから頭頂部から続く髪を指で掬い取り、砂が入らないように耳を隠す。

「なまえも、いつか」

声はそこで途切れた。言葉の続きのように、膝に乗せられていた手がそっと股引を握る。

何と言おうとしていたのか確信は持てなかった。それでも消え入ってしまった声と腿から伝わる熱に、胸がぎゅっと締め付けられる。


アシㇼパさん、大好きです。

無性にそう伝えたくなったけど、ぐっと飲み込んだ。いつだって心から口にしているその言葉が、今は彼女を傷付ける自分本位でしかない浅慮なものに思えた。
だから代わりに手のひらでそっと髪を撫でた。アシㇼパさんは何も言わない。


そうして存在を繰り返し確かめながら、夜が終わるまで焚き火とさざ波の音を聞いていた。


***


時折様子を窺う度にアシㇼパさんは起きていて、疲れただろうと言って膝から離れようとするからもう少しだけ、とお願いした。ずっと眠れずにいたようだった。

朝日が顔を出し切った頃、何気なく顔を向けた先に波打ち際を並んで歩く谷垣さんとインカㇻマッさんがを見つけた。いつの間にか無事に合流していたらしい。
目が合ったインカㇻマッさんに微笑まれて会釈を返す。その振動をきっかけにアシㇼパさんが上体を起こしきった頃には、二人はすぐそばまで来ていた。

「アシㇼパちゃん」
「なまえ……いつの間に出て行ったんだ。二人で一晩中ここにここにいたのか?」

無言を貫くアシㇼパさんの代わりに答えようとしたら、反対側からこれまた聞き慣れた声が聞こえてきた。振り返った先にはこちらを指さす白石さんと安心したような表情の杉元さん、その一歩後ろにいた尾形さんと目が合った瞬間咄嗟に逸らしてしまった視線の先には、キセルをくわえたキロランケさんの姿。

……あれ?まだ夢?ぎゅっと瞼を強く閉じてからもう一度開いたけど、そこには変わらず紫煙を燻らせている旭川ぶりに見る姿があった。どうやら本物らしい。
じゃあ昨晩のあれはどこまでが現実でどこまでが幻だったんだろうか。……まさかアレに現実の箇所があったというのか。

考えたくない事実に思考が移り変わりそうになった時、アシㇼパさんが立ち上がった。
釣られて見上げた先にあった紺碧の瞳は、ただ一点を見据えていた。



「キロランケニㇱパが私の父を殺したのか?」


/ top /
home