「なまえ」

朝食をご馳走になった後、アシㇼパさんと大叔母様方が別れを惜しまれている間に行っていた井戸からチセへと戻る途中、名前を呼ばれて顔を上げた。

「……キロランケさん」
「ほら、旭川で預かっていた弓矢だ。ようやく返せる」

こちらに近付きながら差し出された手が持っていたのはまだ少しだけ貰い物としての認識が残る矢筒と、この数年ですっかり手に馴染んだ手製の弓。どちらも見ただけで最近手入れをされたことが分かる。

「……ずっと持っていてくださったんですね」
「当たり前だろう」

受け取った久々の重みを肩に背負いながら「ありがとうございます」と目を見て伝えれば、瑠璃のような青が細められた。

「人目を避けてここまで移動するのは骨が折れただろう。少し痩せたんじゃないか?」
「…ふふっ、そんなことありませんよ」

上辺だけの言葉ではないことが容易く伝わってくるその様子に、彼が一緒にいる間アシㇼパさんと私にしきりに食べ物を分け与えようとしてくれたことや数日前に言われた真逆のセリフを思い出してしまい、つい息がこぼれた。
それから示し合わせたわけでもなく一緒に歩き出しながら、ふと頭に浮かんだ疑問を口にする。

「あの子たちもここまで一緒に?」
「いや、さすがに先を急ぎながら一人で三頭には十分に手をかけてやれないからな。ここに来る途中で知り合いのいるコタンに預けてきた。気性も穏やかだし賢い奴らだから大事にされるだろう」
「そうでしたか。だったら」

私にも随分と懐いてくれていた一際長いまつ毛の奥にある穏やかな目を恋しく思いながら、何気なく続けようとした言葉を途中で止めた。少しだけ考えてから、再び口を開ける。

「……落ち着いたら、ちゃんと連れて帰ってあげないといけませんね」
「……ああ、そうだな」

想定していたよりも随分と情けなくなってしまった声で独り言のように呟けば、少しだけ間を置いて耳心地の良い低音が穏やかに続いた。



“キロランケニㇱパが私の父を殺したのか?”

朝の浜辺でアシㇼパさんがキロランケさんにその言葉を投げかけてから、私の頭は目の前で転がっていく話を理解することにいっぱいいっぱいだった。

その場にいるほぼ全員が愕然としているはずの中アシㇼパさんの言葉を引き継いだのはインカㇻマッさんで、“指紋”とかいうものを確かな証拠として掲げながら、彼女はアシㇼパさんのお父上が殺害された現場にキロランケさんがいたこと、そして網走にいるのっぺらぼうの正体はロシアの極東で独立のために活動していたキロランケさんの仲間であると言ってのけた。

旧友とは何年もあっていなかったはずのキロランケさんがその場にいた証拠がなぜ殺害現場から見つかったのか。弁明を求めるアシㇼパさんにキロランケさんが口を開くよりも先に、尾形さんがインカㇻマッさんへ銃口を向けた。殺害現場の遺留品を回収したのは鶴見中尉。キロランケさんたちの指紋を集めた上に照合した結果を把握しているということは、インカㇻマッさんは私たちと苫小牧で出会う以前から鶴見中尉と接触し続けていたことになる。

その指摘に眉一つ動かすことなく鶴見中尉のことは利用したに過ぎないと繋がりを肯定したインカㇻマッさんに彼女を庇った谷垣さんが言葉を失う中、尾形さんの銃口を遮ったのはキロランケさんだった。
自分が犯人だと言うのは鶴見中尉の嘘であり、ここで殺し合いや仲間割れを起こせばそれこそ彼の思惑通りになってしまう。そう全員に訴える視線は、最後にアシㇼパさんを射抜いた。父親がのっぺらぼうだと信じたくない気持ちは分かるが、あんな暗号を仕掛けることが出来る人物はそういない。それは娘であるアシㇼパさんもよく理解しているはずだ、と。

何も言い返せずにいる様子のアシㇼパさんを置いて改めて行われた情報の整理により、この中で唯一のっぺらぼうと接触したことのある白石さんも彼とアシㇼパさんのお父上を繋ぐことができる根拠は何も持ち合わせておらず、それどころか金塊や脱獄に関する全ての話が土方さんを通して囚人たちに伝えられていたことが判明する事態に。

のっぺらぼうは本当に私たちが思い描いていた存在なのか。
ひょっとして、最初から全てが土方さんによって仕組まれていたのではないのか。

疑念が疑念を生む中何も答えは見つからないまま、強まってきた日差しに背中を押される形でコタンへと戻った私たちはひとまずそれぞれに旅立ちの準備を進めていた。

インカㇻマッさんの言っていた指紋とやらがどれほど確固たる証拠になりえるのか、私にはわからない。でもキロランケさんの言う通りそれは私たちと対立関係にある鶴見中尉がアシㇼパさんの耳に入ることを承知の上で示したもので、その真偽を確かめる術はインカㇻマッさんにはなかったはずだ。それはアシㇼパさんもきっと理解している。それでもお父上のご友人として、そして一緒に旅をする仲間として慕っていたキロランケさんへの信頼を揺らがせるほどの力が、またお父上の旧友だったというインカㇻマッさんの言葉にはあったのだろう。
とはいえ彼女が本当にアシㇼパさんのお父上と関わりがあったのか今は確かめることが出来ないけど、なんて考える私ははたして冷静に物事を見ることができているのだろうか。


「こーらっ」
「わ」

無事に回収した長靴を眺めて私には難解すぎた話で頭の中を満たしていたら、その頭をわしっと掴まれて軽く左右に揺らされた。驚き視界の端にあったルウンペを辿れば、今度は茶目っ気を含んだ笑みに見下ろされていた。

「そう考えすぎるな。網走へ行けば全て分かるさ」
「……はい」

キロランケさんの言う通り、今私が考えたところで何もかもどうにもならない。分かっていても、次から次へと頭の中にはあれやこれや浮かんでくる。

杉元さんとアシㇼパさんはこれからのことをどう考えているんだろう。インカㇻマッさんの言う通り、アシㇼパさんはどこかに隠れているべきなのだろうか。旅を続けるとなれば谷垣さんはアシㇼパさんを守ろうとしてくれるだろうけどインカㇻマッさんを突き放して一人にするような人ではないはずだし、二人の考えによっては網走までまた三組に分かれて行動することになったりするのかな、なんて考えていたらふと後方に人の気配を感じて、振り向くといつの間にか尾形さんがすぐ近くまで来ていた。

なんとなくその顔をよく見られないまま様子を窺っていたら私の横を通り過ぎると同時に伸びてきた手が襟巻を掴み、そのままさも当然といった様子で歩き続けるものだから合わせて後に続くことに。されるがままの中で振り返れば予想通り止めに入ろうと手と口を動かしかけてくれていたキロランケさんがいて、困り笑いを浮かべつつ動作で問題ないと伝えれば少し困惑した様子で見送ってくれた。
旭川で別れたキロランケさんにはかなり穏やかではない状況に見えたかもしれない。でも大丈夫、よっぽどのことがない限りは痛いことはないはずだ。多分。


ところで私は何故連れ出されたのだろうか。一応お世話になっていたチセの方向に向かっているものの、どちらにせよ尾形さんの目的が分からない。

「尾形さん、これ足元見えなくて危ないです」

とりあえず目下の問題を白石さんよりは長めに刈り揃えられている後頭部に訴えたら、ピタリと動きが止まる。それから徐にこちらへと振り返った横顔が見えてさっと目線を下げ外套の釦を見つめていると、視界の上の方にある口が開いた。

「……今朝方あれだけ大層な疑いが生まれたヤツと随分親しげだなお前は」
「…そ、れは、」

咄嗟に返せず言葉に詰まる。その間に首元から離れていった手が見慣れた所作で前髪を撫で上げたのを腕の動きで察した。

「夕張まであの男とどれだけ和気藹々連れ立ってきたのか知らんが、奴がパルチザン──独立活動を行う民間軍事組織の一員だった可能性が高いのは確かだ。あの女の言葉を鵜呑みにする気はないが全部が全部デタラメだという確証もない。自分にとって都合のいい話ばかり信じ込んだマヌケに余計な手間をかけさせられるのは御免蒙りたいもんだね」
「……はい」

わかってます、と言い返したい気持ちを言葉ごとぐっと呑み込む。私の態度を見て分かっていないと思ったから尾形さんは忠告したんだ。
結局あの時、キロランケさんは自身がパルチザンの一員であると推測したインカㇻマッさんの言葉を最後まで否定しなかった。それが偶然のものか意図してのことなのか、確かめる気にはなれずにいる。

ご忠告ありがとうございますと告げるのもなんだか嫌味になってしまう気がして、それ以上何も言えないまま歩き出すと隣を歩く気配がした。まだ何か言い足りないのだろうかと顔を上げたら黒い双眸と視線がぶつかりかけて、瞬時に目を逸らす。垣間見たそれがあの時と同じ引きずり込まれそうな眼差しだったような気がして、ざわざわと胸が落ち着かなくなる。

「お前、昨日いつ出ていった」
「…んん〜?えーっと、ちょっと休んですぐでしたかね?中は暑くて暑くて……外もそこまで暗くなかったような……?」
「ほう」

気付けば口にしていた嘘。大した興味は無いのか疑っているのか見破られているのか分からない声の様子に、余計に焦りが生まれる。
別にただお互いちょっとばかり見つめ合っていただけなのに。ただお互いちょっとばかり開放的な格好だっただけなのに。どこからどこまでが現実かさえ分からないのに。
どうして私はこんなくだらない嘘をついてまで誤魔化そうとしているんだろう。

自分の気持ちはよくわからないままだけど、かと言って嘘でしたと言う気にもなれず。
いつまでもこんな態度でいるわけにもいかないと覚悟を決めて顔を上げたら、そこにあったのはいつも通りのすまし顔だった。
光の反射をほとんど感じさせない黒からは何を考えているのかまったく読み取ることができなくて、肩透かしを食らったのだと分かった途端大いに胸が軽くなる。

なんだ、やっぱりあれは私の気のせいだったんだ。そう思って観察すればこちらを見返す無表情にもどことなく愛嬌があるように思えてきて、堪らず少しばかり笑いかけたらみるみる眉間に皺が寄っていった。なんでぇ?

「……そういえばお前は生まれどころか歳も言葉も性別もだまくらかしてたんだったな。デタラメばっかりじゃねえか」
「え、今その話……?ア゛ッ」

軽く膝の裏を蹴られてガクンと視界が下がった。痛くはないけどびっくりするからやめて欲しい。


***


二度目の釧路町で先にコタンを出ていた谷垣さんたちと合流した後、キロランケさんは改めて全員の顔を確認しながら言った。自分の息子たちは北海道のアイヌであり、金塊はこの土地のアイヌのためにあると考えている。アシㇼパさん親子の無事を願い金塊を北海道のアイヌたちに返すという目的はインカㇻマッさんと変わらないはずだ、と。

「それで…どうすんだよ。みんな疑心暗鬼のままだぜ?」

誰かが言うであろうセリフを口にしたのは白石さんだった。「誰かに寝首をかかれるのは勘弁だな」と続けた尾形さんの言葉さえ、口にはせずともこの場にいるほぼ全員が似た思いを持っているのだろう。

「行くしかねえだろ」

そんな中でもいつもと同じく私たちのこれからを示してくれたのは、落ち着き払った表情に日の光が差す杉元さんだった。網走監獄へ向かうという最初の目的は変わらない。のっぺらぼうに会えばおのずと真実が分かると続けた杉元さんは、光を受けて一層煌めく瞳をすっと軍帽の影に入れて細めた。

「インカㇻマッとキロランケ、旅の途中もしどちらかが殺されたら……俺は自動的に残った方を殺す!!これでいいな!?」

「なんてなッ!!アッハッハ…」と明朗快活な笑い声に続く声はない。ハッタリだろうと有言実行されようとさして意外性はないと思わせる杉元さんの発言に不穏さは感じつつも、同時にほっとしている自分がいた。少なくとも二人のうちどちらかに何かあるまで、表向きは今まで通り過ごせばいいと言ってもらえた気がした。

隣で拳を握っている少女の頭頂部を見下ろしながら、昨夜浜辺で見つけた膝を抱える小さな影を思い出す。

人を疑い続けるのはとても疲れるのだ。
ましてやそれが、自分の知っている優しい人たちなら。


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