がっしりとした大きな手のひらに、見比べると殊更に細く小さな指先がころんとそれをて落とす。

「ペカンペ。“水の上にあるもの”という意味で菱の実のことだ」

釧路町を立って一日、私たちは北東に進んだ先にある塘路湖という湖に来ていた。
湖畔で偶然出会ったアシㇼパさんの従伯父にあたる男性に目的地だった対岸のコタンへ渡るため乗せていただいた丸木舟の上で、杉元さんと一緒にその特徴的な形をした実に視線を注ぐ。アイヌの人たちにとって菱の実は冬に向けて備えるための大切な食糧だけど、私には別の思い出もある。

「すげえトゲ。乾かしてカチカチになったのを昔の忍者はマキビシに使ったんだよな」

タイミングよく聞こえてきた言葉に思わず顎を引くけど、杉元さんは変わらず自分の手のひらの上にある草色の実を観察している。その向こうでアシㇼパさんがコテンと首を傾げた。

「にんじゃ?……あ、前に白石がなまえに言ってた」
「ああ、そういやそんなこともあったっけ。なんていうか、偉い人に仕えてこっそり情報を集めたり戦ったりした人のことだよ」
「ふーん。“昔のにんじゃは”って、今のにんじゃは使わないのか?」
「もう忍者はいないよ。土方のじいさん達が子供の頃にはいたかもしれないけど、今は昔話に出てくるだけさ」

二人の会話にどきりと胸が脈打つのと同時に、過去のあれこれが少しばかり腑に落ちた。杉元さんや白石さんたちにとって兵糧丸やまきびしは、子供のころ聞いた物語に出てくるような代物だったんだろう。
数年前まで当たり前にそばにあった知識や人々の結末を突然耳にした動揺は少なからずあるものの、あの存在が本当に杉元さんの言う通り時代の流れに対応できずに消えたのか疑念は残る。今の私には確かめようもないけど。
そして同時に現状は自分にとってむしろ都合が良いのだと理解できた。きっと知らず知らずこぼしていた失言も、古臭い話の引用として受け取ってもらえていたことだろう。


「それで、にんじゃは菱の実をどんなふうに使ったんだ?」

私と向き合う形で間に挟んだ杉元さんの手を見つめていたアシㇼパさんが顔を上げたことで、ぱちっと互いの目が合った。好奇心に満ちた瞳に応えたくて小さく笑みを返し、「失礼します」と目の前から拝借した一粒をもう片方の自分の手のひらに少し上からぽとりと落とした。

「菱の実にはこんな風にトゲが四つあるものがありますよね。この形はどの角度で地面に落ちても必ずトゲの一つが上を向きますから、忍者は乾燥させたこの実を携帯して敵から逃げる時に利用したんです。自分の逃げ道に予め撒いておいたり、逃げている時に自分と追手の間に撒いたり。昔は藁や布で作った履物がほとんどでしたから、自分を追うことに夢中になっている相手に踏ませて足止めに使ったんです」
「でもそのくらいじゃ……いや、そうか。まきびしに気付けば他の仕掛けにも警戒し始めるんだな」
「その通りです。慎重に進めば進むだけ歩みは遅くなりますから、その間に追手との距離を広げました。──とはいえ明るい場所ではそれなりに目立ちますしあまり数も持ち運べないので、使う機会をかなり選ぶ道具でしたけど」

相変わらずの聡明な頭脳に目を細めていたら、上から感じた気配。顔を上げれば今度は真顔でじっとこちらを見る杉元さんと目が合う。何かまずいことを口にしただろうかと身構える私へ視線を注いだまま、杉元さんはゆっくりと口を開いた。


「なまえさん……もしかして北海道に来る前は三重か滋賀にいたんじゃない?」
「……え?」

耳慣れない音に返す言葉を見つけられずにいる間に、杉元さんが続ける。

「ほら、あの辺りは伊賀とか甲賀とか忍者の話が結構残ってるだろ?神奈川にも風魔っていうのがいたらしいけど東だし……だからなまえさんマキビシとか兵糧丸とか、小さい頃から聞いてた忍者についての話が記憶に残ってるんじゃないかな」
「……なるほど、そうかもしれませんね。それか丹波の辺りかも?」
「ほらやっぱり詳しい!」

そうか、今あの辺りは三重や滋賀と呼ぶのか。
当たらずとも遠からずな推理を否定せずに微笑んで見せれば声を弾ませる杉元さん。そんな姿にほんの少し罪悪感を覚えていたら、アシㇼパさんが杉元さんの服の袖を引いた。

「なあ、そのみえとしがは北海道から遠いのか?」

顔を向ける先をアシㇼパさんに倣えば、今一度杉元さんと目が合った。今度はすぐに視線が外れたものの、私も自分の認識とのすり合わせのために杉元さんの答えが気になって耳をすませて続きを待つ。

「……函館からだと小樽から網走までの距離の三倍くらいはあるかな」
「……そうか…」
「…でも、本州にも鉄道はあるからさ。金塊を見つけて鉄道を使えばあっという間だよ」
「そ、そうか」

杉元さんの返事を聞き終えると視線を泳がせたり湖を見渡したりとなにやら急に落ち着かなくなったアシㇼパさん。あっという間だなんて言葉に実感を持てないままその様子をぼんやり眺めながら、そういえばアシㇼパさんが私のいた場所について関心を持つのは久々だなあ、とふと思う。
最後にこんな話をしたのは確かずっと前。どうせ確かめようのないことだからと高を括って子供の頃の話や学園でのハチャメチャな出来事なんかを掻い摘みつつ聞かれるがままに話していたら、ある日アシㇼパさんに「私も見てみたい」と言われてちょっとだけ困ったことがある。

決して嫌な思い出ばかりではない。だけど帰り方も分からない身でどうして案内できようか。
そして何よりも。アシㇼパさんのきらきら輝く澄んだ瞳には、ある日突然巻き込まれるとも知れない戦禍に怯える必要の無くなった、ようやくひとつの島国となったこの日本だけを映していて欲しい。

そんな伝え方の分からない感情を隠したままあやふやに答えを返せば言うほどの興味はなかったのか存外あっさりと引き下がってくれて、その後思い出話は時々会話の流れで口にする程度になっていた。どうやら杉元さんに感化されて久々に少し興味が湧いたらしい。

記憶を辿る中で自然と頭に浮かんできたあの頃のアシㇼパさんの姿に、キュンと胸がときめく。今よりふくふくのほっぺたを冬になればリンゴのように色付かせていた彼女はとても幼気で、それでいながら既に深く理解していた北海道の山や獣たちのことを沢山私に教えてくれた。
もちろん今も十二分にアシㇼパさんは魅力的だけど、コタンや野山をあの小さな背中が駆け回る姿はそれはもうとってもとっても──。

「かーわいかったなあ…!」
「なにが?」
「にんじゃが?」



到着したコタンで採れたての菱の実を使った料理を待ちながらアシㇼパさんの話を全員で聞いていると、アシㇼパさんの従伯父様がおもむろに口を開かれた。
もうすぐ本格的な収穫の時期になる菱の実だが、最近この辺りに現れるようになった盗賊たちに全て奪われてしまうかもしれないと皆心配している。そいつらは全員盲目で暗闇の中でも難なく動き回り、コタンや通りすがりの旅人を襲う。そしてその親玉の体には、奇妙な入れ墨があるらしい。
その話に一同の空気が変わった。――来た。

白石さんの推測によると盗賊団の正体はここより北にある硫黄山で苦役され失明した囚人たちで、親玉は都丹庵士という男らしい。続けられた彼らが光を失うまでの経緯と結末がその罪に相応しいものなのか私には分からないけど、それについて今考えたところで何の意味もない。
従伯父様から盗賊たちの被害が集中している場所が硫黄山近くにある屈斜路湖の辺りだと教えていただき、そこが次の目的地となったのだった。



***



翌日から再び北上して屈斜路湖へと向かう。九人という大所帯での移動は少なからず制限があるものの、今はむしろ人数を活かして盗賊の急襲に警戒しながら進むことができていた。私の早朝の見回りも声の届く範囲までと杉元さんたちに言い渡されてしまい少し不自由はあるけど、まあ仕方のないことだ。

「なまえ、昨日仕掛けた罠を見に行くぞ!」
「はーい!」

今日中には屈斜路湖近くのコタンに到着予定の朝。名前を呼ばれて視界を遮っていた笹藪の端から顔を出すと、支度を終えていつも通りの出で立ちになったアシㇼパさんと杉元さんがこちらを見ていた。昨日暗くなる前に仕掛けておいた罠を確認しに行くのだと分かって声を返し、最後にもう一本足元の枯れ枝を拾う。早く朝食の準備をしてくれているインカㇻマッさんたちに渡して三人で罠を見に行かないと。
集めた枝を小脇に抱え直していざ歩き出そうとしたら、空いている腕をぐっと引かれた。振り返ればさっきから何をするでもなく近くに立っていた尾形さんがすぐ後ろにいて、銃の負い革を握った手と反対の手で私をその場に引き留めている。

「どうされました?」
「……」

声を掛けてみたけど返事はない。その代わり閉じたままの口元がぴくりと動いて、それから合っていた目線がすっと下がった。倣って私も自分の腕とそれを掴む手を見てみたけど、特段気にかかるものはない。

最近、こういうことがよくあるように思う。私が背後の警戒を意識していない時でも気付くとすぐそばに尾形さんがいて、理由があってもなくてもそのまましばらく近くで過ごす。途中で何かしらの理由で離れても、いつの間にかまた手が届きそうな場所にいる。
先日塘路湖を丸木舟で渡ることになった時だって、前にいたアシㇼパさんと杉元さんに続いて舟に乗ろうとしたら今みたいに引き留められた。先に行かせろということかと思えばそういうわけでもないようで、ただじいっとこちらを見続ける尾形さんは気付いた杉元さんにいつものように少しチクチクした言い回しで何をしているのか尋ねられて、結局は何も言うことなく手を放した。


「なまえさーん?」

薮の向こうから杉元さんの声がする。この辺りの笹は背が高いから尾形さんの姿も見えていないようだ。声がした方へ顔を向けようとしたら腕を握る力が強くなって、反射的に振り返れば再び真っ黒な瞳と目が合う。塘路湖の時と同じぱっと見いつもと何も変わらないような、でも何か言いたげにも見えるような尾形さんの顔。目の前にあるそれを見ながら少しだけ考えて、掴まれた腕はそのままに再び顔だけを薮の端から出した。

「すみません、やっぱり罠は二人で見てきていただけませんか?」

予定を狂わせてしまう申し訳ない気持ちを眉尻を下げて伝えれば、アシㇼパさんが不思議そうに首を傾げる。

「どうかしたのか?」
「今のうちに確認しておきたいことができて。少し時間が欲しいので、今朝はこのままここにいることにします」

随分と抽象的だなあ、と自分で口にしながら苦笑がこぼれる。とはいえ人には言いにくい理由で二人の帰りを待つのはこれが初めてではないし、いい加減な嘘を並べる気にもなれないのでこれでいいだろう。

アシㇼパさんもさして気にしていない様子で「わかった、腹は空かせておくんだぞ」と踵を返し、杉元さんも数拍遅れて「一人で出歩かないようにね」と片手を上げてアシㇼパさんに続く。

振り返す手が空いていなかったので「お肉楽しみにしていますね!」と声を張って二人を見送り、それから体の傾きを戻してさっきよりもほんの少し目が大きくなった尾形さんにへらりと笑い返す。

いつも一番後ろで周囲を警戒してくれている尾形さんは何かと一人になりがちで、いざという時前後で人手が分かれるようにと後方を移動することが多かった私は近くにいる機会もそれなりにあったけど、最近は今まで以上に一緒にいる時間が増えた。私は特に行動を変えたつもりはないので、多分これは尾形さんの行動が反映された結果なんだろう。

警戒しているのかな、と頭に浮かぶ。
釧路の浜辺での出来事があれから話題に上がることはない。でもここまでの道中で誰かがふとした瞬間見せる態度に、決して夢ではなかったのだと実感する。
あの時注目を集めたのはインカㇻマッさんとキロランケさんだったけど、じゃあ残りの全員が今後絶対に袂を分かつことはないのかと自問すれば、決して首を縦に振ることはできない。その考えはきっと尾形さんも同じで、そんな中でも私なら見張りくらいには使えるし、もし敵になったとしてもすぐに排除できる程度の危険性だと判断されたのかもしれない。
……自分で思い付いておきながらかなり情けない話なので、確信を持つ機会がないことを切に願う。

とにもかくにも。察しの悪い私には尾形さんが何を考えているのか分からない。でも、何かを考えているのは分かる。
だからもし尾形さんが私に伝えたいことがあるのなら、私が分かるところまで尾形さんからも歩み寄ってくれるのを時間の許す限り待ってみようと思った。それまで沢山間違えちゃうかも知れないけど、見切りを付けられないように頑張ろう。


そうして互いに無言のまま見つめ合っていたら、やがて握られていた腕がふっと軽くなった。相変わらず感情の読みにくい、だけどほんの少しばかり重さが消えた気がするすまし顔の尾形さんは、自由になった手で己の前髪を撫で付けながら顎を上げてこちらを見下ろした。

「肉なら俺だって獲れる」
「はい。お陰様でここまで飢えに苦しまずに過ごせています。本当にありがとうございます」

伝えたかったことってそれ?と頭の隅に浮かびかけた思考を即座に掻き消す。事実夕張からアシㇼパさんと杉元さんと私の食料確保がうまくいかなかった時には、銃を使える状況でさえあれば尾形さんがふらりといなくなっては何かしら獲物を手にして戻ってきてくれた。だから心からの感謝の気持ちを伝えれば、ふん、と鼻を鳴らして尾形さんは火のある方へと歩き出した。きっといつもと同じく、みんなの輪から少し離れた場所で周囲の警戒をしてくれるのだろう。

「渡したら来い」
「あ、はい」

返事をしてインカㇻマッさんたちに枯れ枝を渡しに行きながら、尾形さんとの関係性の変化について考える。
以前よりちょっとだけ口数の減った気がする尾形さんは、代わりに同じくらいちょっとだけこちらに歩み寄ってくれるようになったと思う。そのきっかけはきっとあの人好きするタイプとは言いづらい男性へ臆することなく接し続ける少女で、これまでの二人のやり取りを思い出してついつい声が漏れてしまった。

「なまえが笑ってる!でっかいクワガタいた!?」
「見てないよ。そういえば最近見なくなったかも。もう秋だもんねえ」

私と同じように、尾形さんの中にもアシㇼパさんとの出会いが良いものとして残ってくれたら嬉しいな。


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