ジワジワと痛みの続く大きなたんこぶを指先でそっと確かめながら、白石由竹は大きく溜息を吐いた。
体を張って海亀を捕まえたというのに、海面から顔を出した自分を待っていたのは老人が勢いよく振り下ろした櫂だった。視界に火花が散るほどの衝撃を思い出しながら小さく呻き声を漏らして、舟に括り付けられた亀をジトっと睨みつける。見間違えようがねえだろうが。何故か今年に入ってから妙に頭を怪我することが増えた気がする。
「あ」
大叔母に亀が捕れたことを知らせていたアシㇼパの短い声に顔を上げて浜を見ると、こちらに合図を返す大叔母から少し離れた場所で別の人影が二つ重なっていた。遠目ながらも輪郭と服の色で、その正体が陸に残った尾形となまえであることを察する。
こちらに──正確にはアシㇼパにブンブンと大きく手を振るなまえ。もう片方の手は何かを目元に当てている様子で、自然とその背後にピッタリ張り付き立っている男がいつも首から下げている双眼鏡が結び付いた。しまいには飛び跳ね始めそうな勢いの手前の本人がどう思っているのか知らないが、あの色々な意味で扱いづらい男をよくもまああそこまで手懐けたものだ。もし自分が同じように頼み込んだとしても、冷たい視線を返されるのが関の山だろう。
遠い浜の上の光景と目の前で小さく笑みを浮かべ手を振り返すアシㇼパを順に眺めたところで、突然アシㇼパの向こう側にいた杉元までが浜に向けて大きく手を数度振り、それから何か準備を始めた様子の大叔母の方を笑顔で指さした。その先に顔を向けたなまえはすぐさま双眼鏡を尾形へ返すと、波打ち際に沿って一目散に駆けていく。
「よーしおじいちゃんすぐ戻ろう今すぐ戻ろう」
途端に笑みを消して手放していた櫂を持ち直す杉元。こちらは大層過保護になったものだ。
「おらシライシさっさとしろ」と食らった巻き添えに「へいへい」といつもの調子で返し、背中を向けて両手に櫂を握る。
まあ、野郎二人の態度についてはまったく理解できないというわけでもない。かくいう自分も、普段はませた言動の多い奴さんが上手く使えば金になりそうな顔に好奇心を浮かべてこちらの話に耳を傾ける姿は決して嫌いではないし、その後始まるかなり幼稚な“なぜ”“なに”“なんで”の嵐だって、面倒に思いつつも結局は色々と教えてやってしまう。一緒に過ごすうちに着実に増えてきた軽口や砕けてきた口調もこちらに心を許し始めた証なのは明らかで、なんだかんだ世話を焼いてやりたくなるのだ。
……とはいえ、背後にいる少女に次いで見た目に反する逞しさを持ったなまえが己にかけてくる面倒などその程度のこと。小樽を立つ時にアシㇼパが言っていた不穏な言葉を理解するために、この物騒かつ猟三昧な旅路で大した時間はかからなかった。
舟の向きを変えるついでに最後にもう一度陸を見れば、大叔母と何やら一緒に動いているなまえの姿。手伝いを頼まれた時にはにっこり二つ返事で了承していたものの、その後生暖かい眼差しで慰めるアシㇼパに力なく笑い返す奴が誰と一緒にいたかったかなんて、昨日までに行動を共にしたことのある人間全員が分かる事だった。
だから自然と頭に浮かんできた考えを、大した意図もなく口にする。
「──しっかしなまえちゃん、マジでアシㇼパちゃんにベッタリだよなあ。
こりゃ金塊が見つかっても北海道から出るつもりなんてさらさらないんじゃなねえの?」
アシㇼパさん。
アシㇼパさん。
アシㇼパさんアシㇼパさん。
なまえがアシㇼパの名前を口にする数はこの場にいる誰よりも多い。一緒にいたこの数ヶ月ですっかり聞き慣れすぎて、まーた呼んでらぁと思ったら空耳だったことだって一度や二度ではない。本人曰くあれでも大分低くなったそうだが、低すぎず高過ぎない声色が耳障りであれば馬の耳に念仏だと分かっていてもとうの昔に怒鳴り付けていただろう。
金に執着する素振りもなく金塊に関して蚊帳の外にいた筈の小僧が突然網走まで着いてくることになった時、アシㇼパは彼が故郷に帰るための資金を欲していると言っていたが、あのひっつき虫が金が手に入ったからと言ってはいさよなら!とすんなり少女のそばを離れるとは到底思えなかった。
なまえ本人曰く命の恩人らしいが、親愛やら敬愛やら、男女の色恋にしては欲も下心も感じ取れない献身すぎる思いをここまで一身に受けてきた少女にとっては、今の言葉は満更でもなかっただろう。顔を見ることはできないが、きっと嬉しさを抑えきれないつっけんどんな反応が返ってくるだろう、と口元を引き延ばして両手を動かし続ける。
「そんなことない」
だから予想に反して抑揚のない否定の声が背後から聞こえた時、白石の持つ櫂はぱしゃんと海面を叩いて跳ねた。
「なまえがコタンでの生活に慣れた頃、なまえの故郷の話を聞いて“いつか私も見てみたい”って言ったことがあった。そしたらなまえはすごく困った顔をして、“とてもとても遠い場所にあるから難しい”って言った。
……あの頃の私は小さくて一人で旅をすることなんてできなかったから、なまえはもし私を連れて行けばまた北海道まで私を送り届けないといけないと思ったんだと思う」
目の前の老人の動きに合わせて今度こそ櫂を海の中に沈めながら、続きを聴くために耳をすませる。
「なまえは私と未来の──“いつか”の約束をほとんどしない。一度コタンを出ていくと次にいつ帰ってくるかは分からないし、今度の旅だって連れて行ってほしいとは言ったけど、小樽に帰るまで一緒にいるとは言わなかった」
そこで一度、アシㇼパの言葉が途切れた。
波の音や頭上を飛ぶ海鳥の鳴き声、櫂が水を搔く音と決して静かではないこの舟の上で、張り上げられているわけでもない彼女の声は遮られることなく耳に届いた。
「なまえは故郷に帰りたがってる。金塊を欲しがらなかったのは、世話になったアイヌのものだったのなら自分は受け取れないって考えたんだろう。でも危険を覚悟の上でこの旅に付いてきたんだから、この先なまえにとって必要なものなら受け取るべきだ。
……でも金が貯まれば、なまえはすぐに北海道を出て行く。そしたらもう戻ってこない。……だから私を連れて行きたくなかったんだ」
いやねえわ。
いつもの凛々しい声の中に僅かな心細さを滲ませて呟かれたアシㇼパの言葉を聞き終えた時、白石は心の中で突っ込まずにはいられなかった。
短い月日ではあるがなまえとは旅の中でなんだかんだと話をしてきた。大抵は自分が話す側だが、日本人としての物を知らなすぎる割には妙に教養を感じる言動があったり、時折やたら古臭く小難しい話や耳新しい知識をさも当然のように披露してくるものだから、つい深い意味もなく北海道に来る前のことを尋ねればまあまあ答えは返ってきた。
出身は西の方だが詳しい場所はおぼえていない。
家族は全員死別。故郷には恐らく家も墓も残っていない。
北海道に来るまで世話になっていた家はあったがそちらも場所は分からないし、もし見つけても自分を憶えている人間はもういないと思う。
はっきり言って何の魅力も感じられない故郷だった。それでも帰りたいものなのか、と自分には理解できない感覚に興味本位で「帰って何すんの?」と訊ねたのはいつのことだったか。なまえは一瞬だけ手を止めた後、「あー……なにしましょうねえ」と分かり易く生返事をしながら、アシㇼパから預かった手甲の繕いを再開した。
あ、こいつ何も考えてねえな。
すぐにピンと来た。何故なら自分も似たようなものだから。
褒められたものでは無い半生、塀の中でも外でも色んな奴に会ってきた。相手に取り入るためにも暇潰しのためにも会話が成立する奴とは進んで色んな話をしたが、少し気を許されて身の上話が始まれば早い段階で生まれ育った場所について話題に上がることも多かった。知った場所だと答えればそれだけで多少なりとも親しみを持たれ、見知らぬ土地の話であっても興味深く聞いていれば自然と見識と相手の口数が増えていく。進んで振ることはないが、何かと都合の良い話題。
そうして何度も何度も、誰かの故郷の話を聞いてきた。帰りたいと願う奴。捨てた奴。自分と同じ、故郷と呼ぶべき場所のない奴。他にも色々。話す人間が違ってもその視線や表情からは、事情ごとにそれぞれどことなく似通うものを感じる時があった。
なまえも時折、内地にいた頃の思い出を口にする時がある。大抵は北海道に来るまでに世話になっていたやたらと大所帯なデカい家での出来事だったが、ほんの数度だけ生まれた村のことらしき話もあった。
アシㇼパやキロランケよりは控えめだが印象に残るまつ毛を伏せて当時の話をするなまえの表情には、アシㇼパを見ている時と同じくらい感情が篭っている。だがそれは故郷という場所そのものではなく、そこで過ごしたひと時を偲んでいる顔だと白石は解釈していた。もう二度と戻れない日々だと理解しているからこそ、より美しく残った記憶に浸っているだけ。そこまで考えてふと、以前同じような顔をしていた男が頭に浮かんだ。そっちはなくしたものを求めて新しい国を作ろうとするぶっ飛んだ奴であったが。
とにかくアシㇼパが言うような故郷への執着を、白石はなまえから一度も感じたことがなかった。
自分や杉元と違って金塊にもさして興味がない。金塊を手に入れた先のことだって明確な考えがあるとは思えない。
むしろあいつが執着しているのは──。
頭に浮かんだ言葉を今度は白石が口にすることはなく、同じ動きを繰り返しながら「ふーん」と発したのを最後に、舟の上は暫し沈黙が続くこととなった。
他人の幸せなんて語れるような人間ではないし、アシㇼパもなまえも知り合ってせいぜい半年程度の自分から利いた風な口を叩かれたところで腹立たしいだけだろう。杉元にでも言われればまた別の話だろうが、背後にいる男は今の話をどう受け取ったのか。小樽からここまで二人が一緒にいる姿を眺めては満足げな顔を浮かべていた奴が今の話を聞いて何とも思わなかったとは想像し難いが、もしかしたら自分の知らない事情を既に知っているのかも知れない。
と、ここまで考えてようやく白石は我に返った。
──そもそも、だ。
あいつが今後アシㇼパの前から姿を消そうが、北海道を離れてどこへ行こうが。
自分には一切、関係のない話なのである。
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