「今日のなまえは朝からずっとご機嫌だな」

さっきまで前方にあったはずの背中の持ち主に横から声をかけられて、繕うことなく図星を顔に出す。

「…分かりますか?」
「うん。足取りも随分と軽快だし」
「いやーお恥ずかしい……」

続いた杉元さんの少しだけからかいの混じった声に、決まり悪く頬を掻く。浮かれ気分で歩いていたらいつの間にか先頭のアシㇼパさんと杉元さんに追いついてしまっていたのだと気付いて、さらに情けなくなり歩みを緩める。

昨日到着した屈斜路湖近くのコタンで再び盲目の盗賊たちについて話を聞いたところ、アシㇼパさんの従叔父である男性から近くに和人が経営している温泉旅館があることを教えてもらい、現在新たな手がかりを求めて件の旅館に向かっていた。
その目的はコタンの襲われる可能性が高まる次の新月の夜までに盗賊たちの根城を見つけることで、ひいてはその親玉である都丹庵士の刺青人皮かその写しを手に入れること。それはもちろん重々承知している。
だけど人の手が行き届いた温泉に立ち寄るなんてかなり久々で、旅館で働く方々から話を聞くために一泊することも決まっているとなれば、気持ちも勝手に弾んでしまうというものだ。

「ふふ、なまえさん風呂が使える話が出るといつも嬉しそうだもんねぇ」
「はい!目的を違えるつもりはありませんが、せっかくの機会なので活用させていただきたいと思います」

浮かれ調子の原因が既に特定されていることについては触れずに素直に頷く。実は先日の海辺で潮風に当たりすぎてしまったようで、あれ以来櫛で梳いても水で洗ってみてもどうにも髪の手触りの悪さが気になっていた。釧路町を出て以降偶然湧き出ていた温泉を見つけるなんてこともなく、お礼の金銭を受け取っていただけるか分からないアシㇼパさんのご親戚方に必要なものをお借りすることに気おくれしつつも、そろそろお湯を使ってがっつり髪を洗いたかった私としては本当に願ったり叶ったりの機会なのである。
それに和人の経営する宿であれば、事情を説明すれば“アレ”を譲ってもらえるかもしれない。

昔はそこまで入る機会の多くなかった温泉。北海道に来てからは湯を沸かす手間なく身体に熱と清潔を与えてくれる頼もしい存在であることを痛感したし、場所によって種類や効能が異なることを体験してからは旅路でのちょっとした楽しみになった。
この辺りの温泉はどんなお湯なんだろう。あまり刺激が強くないお湯だといいなあ、と期待に胸を膨らませながら、たっぷりの清潔なお湯が全身を優しく包み解す心地よさと湯上りの爽快感に思いを馳せる。

「お湯ってすごいですよねえ。水より汚れはよく落ちますし、浸かると体が芯から温まって疲れも取れるんですから!杉元さんはお風呂は熱めとぬるめ、どちらがお好みですか?」
「俺はやっぱり熱めかなあ。沸かしたてって感じがするし、早い時間の銭湯に行って熱い湯に入ると頭もすっきりするしさ」
「そうなのか?私は熱いのは苦手だ」
「アシㇼパさんは少しぬるめの方がお好みでしたね。私ものんびり入る方が好きなので、どちらかと言うとアシㇼパさんと同じです。でも少し熱めのお湯で一気に身体が暖まる感覚も気持ち良いですよね。
白石さんはお風呂の熱さはどのくらいがお好きですか?」
「へっ?」

踊る気持ちのまま、先程ちらりと視界に入った斜め後ろを歩く人物へと振り返りながら声を掛ければ、丁度目的の相手と目が合った。
でもそれはほんの少しの間だけで、素早く逸らされた視線は誰もいない方向へと注がれた。

「……あー、うん。どちらかというとちょっと熱めがいいかな……」
「…そうでしたか!今回の温泉はどちらでしょうね?伺ったお話だと近くとは言え到着は夕方になりそうでしたから、入れるのは早くても夕食後でしょうか。夜も利用させていただけると良いのですが……」
「うーん、あんまり長湯してのぼせないようにね?」

一瞬言葉に詰まってしまったものの、話の流れが途切れないよう勢いで続けた言葉。それを拾ってくれた困り顔の杉元さんに笑顔で頷きながら、今しがたの白石さんの言動を頭の中で繰り返す。
失敗した。近況を忘れてつい今まで通りの気持ちで話しかけて、隔たりを感じる返事に勝手に動揺してしまった。ちょっと前ならきっと他の女性客との混浴なんかを期待しているのがよく分かるノリノリなくらいの反応をされただろうに。


キロランケさんとインカㇻマッさんの件があってから、白石さんは私に対してずっとこんな感じだ。たわいない冗談や思い付いたまま口にしたような話を白石さんからされることは殆どなくなって、こちらが手の届く程度の距離まで近付くと何でもないような風を装ってさりげなく距離を取る。目が合うと今みたいにほんの少し気まずそうな顔をして、そっと目を逸らす。あからさまに口を利かないわけでも拒絶されているわけでもないけど、当事者としてみれば確実に距離を置かれているのが分かる。

警戒されているのかな。
原因について記憶を辿れば、昨日と似たような考えが頭に浮かんだ。尾形さんと身を守る手段が異なる白石さんにとっては、いざという時のことを考えれば私もインカㇻマッさんやキロランケさんと同じくらい警戒しておくに越したことはない相手なのかもしれない。
つい先日までの距離感に慣れきって心地良ささえ感じていた身としてはどうしても寂しい気持ちがあるけど、敵味方の不確かな今白石さんが自分の身を守るために取るべき行動としては何も間違っていないのだから、それをどうこうしてほしいなんていうのはただの私の身勝手なわがままだ。

このままだと近いうち他の人たちも変化に気付くだろうけど、本人たちに迷惑さえかけなければ気にしないでいてくれるだろう。チカパシはもしかしたら不思議に思うかもしれないけど、説明すればちゃんと理解してくれるはずだ。網走でアシㇼパさんがのっぺらぼうに会うためにも、杉元さんや白石さんたちが金塊を手に入れるためにも、何ら支障はない。だからこれでいい。


──と、分かってはいるけど。できることなら、ほんの少しだけでも元の関係に戻れたらいいのにな。
そんな未練がましいことを思う自分に呆れつつ、よく分かるその気持ちに胸の内で優しく声をかけた。
大丈夫だよ。思うだけなら誰にも迷惑はかけないからね。


***


予定通り日暮れ近くに辿り着いた旅館は、人里離れた場所にありながらもよく手入れの行き届いた建物だった。食事も夕と朝だけなく頼めば簡単なお弁当を昼に用意してくれるとのことで、盗賊の根城を探すための拠点として申し分ない場所だ。歓迎してくださった旅館のご主人曰くここ最近は以前にも増して客足が減り私たちは数日ぶりのお客だそうで、その原因が盗賊の件であることは明言されずとも察しがついた。

リュウには申し訳ないがいつも通り外で寝てもらうとして、残り九人は三人で一部屋ずつに別れて泊まる事になった。部屋割りはアシㇼパさんと杉元さんと私、白石さんとキロランケさんと尾形さん、それから谷垣さんとインカラマッさんとチカパシ。白石さんも今回はキロランケさんと一緒だからか、尾形さんとの相部屋に異論をあげることなく部屋へと向かっていった。……白石さん、一体誰を一番警戒しているのだろう。

「なまえ」
「はい」

夕食を終えて部屋が片付いた所で、アシㇼパさんから声をかけられた。杉元さんはつい先程部屋を出て行ってしまったので、今この部屋には二人だけ。廊下から話し声は聞こえてくるから、多分他二つのどちらかの部屋の前にいるんだろう。

「お前は時間がかかるんだから先に風呂に入ってこい。杉元はあんまさんとやらに話を聞いてから男たち全員で一緒に入ると言っていたから、しばらくは誰も風呂には向かわないだろう。荷物は私とインカㇻマッが見ているから、なまえはみんなとは別の湯を使っていたことにすればいい」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」

大きな町でない限り、湯屋や温泉は混浴の場合も少なくない。今回も場所からして大きな施設ではないだろうからと夜遅い時間にこっそり入るつもりでいたけど、なんとこの旅館、屋内と露天の二つの内湯がある上にどちらも男女で入口から分けてあるらしい。だから女湯へ出入りするところを見られさえしなければ、後からどうとでも言い訳ができるのだ。
人目を気にせずゆっくりバスタイムを堪能できる。そうと分かった今の私は早く女湯の暖簾をくぐりたくて仕方がなかった。

ほかほか温まった体で布団に横になる楽しみを今日の予定の最後に追加して、だらしない笑みを取り繕うことなく過去何度も繰り返してきたセリフをアシㇼパさんへ投げかける。

「アシㇼパさぁん、それとは別に後で一緒に入りませんか〜?」
「臭いからやだ」
「クーン……」


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