「──ふうっ」
長いこと俯きっぱなしだった頭を上げ、指通りが良くなった髪を箸でひとまとめにして手拭いで頭を包む。金盥の中身を風呂場の外の草むらに捨てて中をゆすぎ、最後に洗い場にも湯をかけてきれいに洗い流した。鼻が慣れているので絶対とは言えないけど、ここまですればまず匂いは残らないだろう。
金盥とまだ中身の残っている徳利を浴槽の上がり口の岩場の陰にまとめて、そばに置いていたランタンの光が照らす水面へそっと足を入れる。冷えた身体には少し熱く感じる温度の中へゆっくりと沈めば、再び熱と程よい圧迫感が全身を包み込んだ。
「はぁ〜〜っ…!」
ジワジワと染み込んでくるなんとも言えない心地の良さに、二度目のため息が出てしまう。暫しの間身体が熱に慣れていく感覚を楽しんで、それからぐっと腕を伸ばす。
普段宿に泊まる時には用心して近くの湯屋を利用することがほとんどだけど、今回は杉元さんが白石さんと谷垣さんが一緒に行動するよう手を回してくれたのであまり気を張らずにいられた。風呂場全体を男女で仕切っている壁はお湯の中に潜ったり外からちょっと回れば簡単に互いを覗けてしまうものの、今日の利用客は私たちだけだとみんな知っている。それでも興味本位で行動するかもしれない二人については杉元さんや谷垣さんが止めてくれるだろう。
最初は壁に囲まれた屋内のお風呂を使うつもりでいたけど、風呂上がりに髪の手入れに使いたいので真水と徳利の中身を分けていただけないかと声を掛けた旅館のご主人が使い方を聞いて不思議そうにしながらも「今日の利用は皆様方だけでございますから、露天の方であればそのまま洗い場を使っていただいて結構ですよ」と言って匂いが残らないようにと金盥まで貸してくれたため、予定は急遽変更された。いつもは湯屋を出た後に外で仕上げをするけど、その場で一度に済ませられるのなら一番手間がない。
嬉しい誤算が続いて鼻歌でも歌い出したい気分で湯の感触を楽しんでいたら、不意に壁の向こう、男湯の脱衣所の方から物音と話し声が聞こえてきた。
なるだけ水音を立てないよう上がり口へ身を乗り出し、火屋の上から息を吹きかけランタンの灯りを消す。一瞬で周囲が真っ暗になった中再び湯の中へ身体を沈めたところでガラリと戸の引かれる音がして、仕切りの上がほんのり明るくなると同時にハッキリした複数の人の気配が入ってきた。キャッキャッとはしゃぐ高い声や「チカパシ、危ないから風呂場で走るんじゃない」とそれを窘める声に、その正体を確定させる。彼らも今夜は露天風呂を選んだらしい。
「キロちゃーん、なまえちゃんいなぁい……?」
「だーからいないって。脱衣所に服もなかっただろ」
さてどのタイミングで上がろうかなと考え始めたところ、かけ湯の音に紛れて聞こえてきたのは不安げな白石さんの声と呆れたようなキロランケさんの声で、その会話の内容にちょっとムッとする。白石さん、そんなに私と一緒にいたくなかったのか。っていうかなんでキロランケさんは良くて私はダメなの。これじゃ私だけが避けられてるみたいじゃないか。私ってそんなに信用なかった?
……だめだ、身元不詳な上に金塊という明確な目的もないのに旅に付いてきている時点で心当たりが多すぎる。ちょっと落ち込んできた。考えるのやめよ。
沈んだ気持ちを持ち上げるには身体を温めるのが手っ取り早い。今出ていくと引き戸の音が聞こえてしまいそうだし、もう少しだけお湯に浸かって誰かが身体を洗い始めたら音に紛れて出ていこう。そう決めているうちに向こう側も全員が湯に浸かったようで、吐息や呻き声の後、暫しの無言が続く。わかる。
暗闇に慣れてきた目で頭上を見上げるけど、生憎月も星も見えなかった。今夜は雲が濃いらしい。そのうちぼそぼそと聞こえ始めた声はどうやら今後についての話をしているようで、正確には聞き取れなかったものの“閉山”やら“廃屋”やらといった単語を拾い上げた。後で杉元さんに詳細を聞こう。
「ふぅ……ところでよぉ白石、お前最近妙になまえのこと避けてるよな。俺とインカㇻマッを警戒するのは分かるが、なまえまでそこに入れるのは極端すぎやしないか?」
淡々と続けられていた会話が途切れたところで不意に聞こえた自分の名前に、思わずどこを見るでもなく顔を上げた。キロランケさん、気付いてたんだ。何となく情けないような恥ずかしいようなほんのちょっとだけ嬉しいような気持が胸にちらつく中、湯気の漂う静かな空間にフクロウの鳴き声が広がる。
「あー……いや、そのことは別に関係ないんだけどさぁ。今はちょーっと気まずくて、距離を置いときたいっていうか……」
「はあ?なんだそれ」
本当だよ。私何かした?
キロランケさんの反応に大いに同意しながら首をかしげる。とりあえず釧路を訪れてからの記憶をざっと辿ってみたけど、ピンとくるものはない。湿原での膝枕とか?あんなに自分からねだっておいて何を今更気まずくなってるんだ。勝手に気持ちの折り合いをつけておいてほしい。
それとも……気まずいっていうのはただの口実で、本当はただ嫌われてしまったんたろうか。気付かないうちに色んなこと我慢させちゃっていたのかな……と考えを巡らせていたところで、はっと我に返った。
白石さんもキロランケさんも私がここにいることは知らない。入浴中だと知っているはずの杉元さんだって、恐らくはより安全な屋内の湯にいると思っているだろう。
自分の与り知らないところでされる自分の話なんて必要もないのにコソコソ聞くものじゃない。もしここで白石さんが私を避けている理由が明かされてそれがどうにもできないようなことだったりした日には、さすがにしばらく立ち直れない。明日布団から出られなくなる。
暗がりに大分慣れてきた目で脱衣所までの道のりを確認して、話が広がる前にそっと退散しようとした時だった。
──カン──カンカンッ──
「……?」
微かに鼓膜を揺らした高く軽い音。短く連なるそれに折れた枝が幹に当たったのだろうか?と思ったのは一瞬のことで、聞こえた森の方へ顔を向ける間も繰り返し響くその音は徐々にこちらへと近付いてくる。
まるで足駄で石の上を駆け回っているみたい。
そんな考えが浮かぶと同時に暗闇の中から飛び出てきたのは複数の大きな影で、そのまま仕切りの向こうへ消えていく。突然の出来事に固まっている間に二つの影が女湯にも回り込んできて、ひとつは浴槽を囲む岩の上で出てきた森を背負って止まり、もうひとつは私の目と鼻の先で脱衣所への道を阻むように二つの足で立ち塞がった。
水音を立てないように首から下を沈めたまま浴槽の中心へと移動する間に、目の前で周囲を確認するように頭を動かしていた人影が一歩こちらへ近付き、その足元でガチャンと不快な音が上がる。変わらない薄ぼんやりとした視界で前後二つの影を今一度確認すれば、どちらも男性らしき体格で手に長い棒を持ち、人相までは把握できないものの顔の上半分を何かで覆い隠しているのが分かった。
左右は壁。挟まれた。
「何だお前ら!!」
「その恐ろしい形の棒をどう使う気だ!?」
動揺する仕切りの向こうの声に従ってその手にある物に目を凝らす。加工された棒の先に痛々しい棘を規則的に生やしたそれは、どう見てもやがらもがらだ。水軍の武器がなぜここに。今は必要なさそうな疑問を思いついたところで「こいつが都丹庵士だッ!」と白石さんの声がひと際大きく耳に届いた瞬間、つい今しがた聞いた破壊音とともに仕切りの向こうの光がフッと消え去った。視界が再び限りなく黒に近付く。
「こっちからは丸見えだぜ」と聞こえた記憶にない声に反応を返すことなくじっと息を潜め続けようとしたものの、浅い考えは眼前からの声に否定された。
「おい。脱衣所へ向かう音はしなかった、まだそこにいるだろう。虱潰しに探す手間をかけさせるな」
やっぱりだめか。こちら側に回り込んできたということはそういうことだろうと思いつつ少しばかり期待してみたものの、無駄だったらしい。
ならばと早々に方針を切り替えて、潜めていた息を少しずつ荒く短いものへと変えていく。
「おっ、お願い殺さないでッ…!」
仰々しい演技にならないよう意識しながら絞り出した言葉は仕切りの向こうまで届いたようで、「人がいたのか!?」と慌てる谷垣さんの声。今日の宿泊客は自分たちだけだと聞いていたから予想外の出来事に動揺しているのだろう。
「大人しくしていれば手荒な真似はしない。まずはこっちに上がってこい」
指示に従い大きく水音を立てて立ち上がりながら頭の手拭いを外し、“うっかり”湯に落としたそれを拾い上げた。辛うじて把握できる脱衣所側に立つ男のシルエットが「ここだ」と数歩後ろに下がり、ゆっくりと声のした方へ向かう。進みながら振り返れば、森側に立っていた男もこちらの動きに合わせて岩の上を移動しながら距離を縮めてきているようだった。
彼らも私と杉元さんたちとの関わりについては何ら確信はないはず。男の言葉を信じて大人しく捕まるべきか否か、決めた。
「縄を出すぞ」
「ああ」
手拭いを利き手で握りしめたまま洗い場に上がったところで、私宛ではない手短な会話の後森側から来た男が私の横でごそごそと自身の懐を探り始めた。そっとその場にしゃがみ込み、足元に置いていた目的の物を手探りで手に取る。向こう側で続く話の応酬の合間に、岩と陶器の擦れる音が微かに響く。
「ん?おい、今何を──」
目の前にいた男が全て言い切る前に、声めがけて中身をぶちまけた。
「ングッ!?がっ、うぇえ゛ッげほごほッ!!」
「お、おいどうしブッ!?」
目を隠されていたのは非常に残念だけど、さらけ出された鼻と口からの侵入は防ぎきれなかったらしい。激しい咳き込みとえずきを繰り返して武器を手放した音に動揺したもうひとつの声を狙って握りしめた手拭を力一杯振り抜き、ついでに持っていた徳利を投げ付けながら湯の中に飛び込んで水に足を取られかけつつ走る。
「逃げろッ!!」
獣の唸り声やら派手な水音に混じった杉元さんの声を拾い上げながら、浴槽を上がり人の手の入った足場を飛び出して草地へ踏み入る。前や後ろでガサガサと森の奥へ向かう気配が騒ぐ中、素早く髪から箸を引き抜く。
「ひとまず森へ逃げろッ!!」と前方で聞こえた白石さんの声に紛れて身体を反転させながらその場に伏せ、手足を縮めうずくまる。元来た方角で一発の銃声が響いた。
風呂場の騒動が収まるまでに大した時間は必要なかった。打撃音や状況を伝え合う荒々しい声が途絶え、やがて微かに聞こえてきた何やら指示を出している様子の声が恐らくリーダーの都丹庵士のものなのだろう。
手短な会話の後、草を蹴り分けこちらへ近付いて来るいくつかの気配に息を殺す。手を伸ばせば届きそうな距離を足音とカンカンという軽い音が通り過ぎていき、それが遠く離れたことを確認してから呼吸を再開し残った気配へ意識を集中し直した。どうやら脱衣所の方へと移動したようで様子が窺えない。
そのままじっとしていると再び風呂場へ戻ってきた気配たちは、私のいる場所とは別方向から森へと消えて行った。音が遠のいたのを確認してゆっくりと起き上がり、静かに女湯へと戻る。
脱衣所に戻り荷物を置いていた場所を見て、思わず眉間に力が入った。着物と短刀が入れていた籠ごとなくなっている。先程の男たちの目的はこれだったらしい。
きっと男湯も同じ状況だろうなと思いながら足元の床に一枚だけ落ちていた布を拾い上げれば、自分が普段襦袢の下に身に付けている肌着だった。何も細工をしていなかったことが今になって悔やまれる。ここにあるということは荷物は外に持ち出されたのかも知れない。脱衣所の中をざっと見回して早々に捜索を切り上げ、付け紐を結び肌着を身に付けながら急ぎ旅館へと向かった。
風呂場への出入り口から旅館の中へ入ったところで小さく息を呑む音が聞こえて、振り向くとランタンを手にした旅館のご主人の怯えた顔が廊下の曲がり角にあった。銃声に様子を見にきたのであろう彼に近付けば「ヒェっ」と悲鳴が上がる。
「盗賊に襲われました。今夜はもう外には出ないでください」
「……へ?え、おそっ……?」
「私たちと一緒にいた女の子がどこにいるかご存知ですか?」
「お、おんなのこ?」
どうにも要領を得ない会話に少しばかり苛立ちかけたところで、ふと上へ下へと泳ぐ視線に合わせて自分の姿を見下ろす。袖もなく、太腿も隠しきれない程度の丈しかない着古した粗末な着物に、手には使い方を誤るつもりしかない持ち方をした箸と若干の赤色が付いた手拭い。
おまけにご主人には女湯を使うことを伝えていなかったと思い出し「……すみません、先刻風呂で使う諸々をお借りした者です」と伝えれば、数拍を置いて困惑から安堵へと表情を変えた彼はへなへなとその場にへたり込んで大きく息を吐いた。自分の旅館に盗賊の一人が押し入ったと思ったのだろうご主人に余計な心労をかけたことを申し訳なく思いつつ、視線を合わせてなるだけ穏やかな声に努めながら続ける。
「盗賊は全員、男湯にいた方々を追って森に入って行きました。私たちと一緒にここに来たアイヌの少女を見かけませんでしたか?」
「あ…ああ、あの子ならさっき外へ……」
遅かった。きっと盗賊の急襲に勘付いて杉元さんたちの無事を確かめに行ったのだろう。部屋に置いた荷物の中にあるタシロが頭に浮かんだものの、取りに行く時間も惜しくてこのままアシㇼパさんの後を追うことにした。巻き込みたくなくて森へ逃げたけど、なんとかしてもっと早く旅館に戻るべきだったのに。
判断力行動力ともにずば抜けているアシㇼパさんの行動を予測できなかった自分を腹立たしく思いながら「灯りをお借りします」と告げ返事を待たず手拭いの代わりに置かれていたランタンを手にしたところで「なまえさん!」と名前を呼ばれ、振り返ればランタンを手にこちらに走り寄るインカㇻマッさんの姿があった。
「よかった、ご無事だったんですね!大変なんですアシㇼパちゃんが一人で外にっ……!」
「今伺いました。恐らく杉元さんたちを探しに行ったんだと思います。男性方は先程盗賊に襲われて全員森の中に」
「……銃声がしたのでそんな予感はしていました。脱衣所に皆さんの武器が見当たらなかったのは……」
「……いくつかは盗賊たちが持ち去ったかも知れません。皆さんが逃げた後もしばらく脱衣所にいたようですから」
「そんな……」
形の良い眉を顰めて胸元で手を握るインカㇻマッさん。とにかく今はアシㇼパさんに早く追いつきたくて「夜が明けるまでは建物の中にいてください」と言いながら再び外へ出ようとしたところで、「私も行きます」と背後で声がした。もう一度振り向いた先で、神秘的な切れ長の目と視線が交わる。
「……この状態であなたを守りきれるほど私は強くありません」
「私のことは気にしないでください。二手に分かれて探しましょう、その方が効率も良いはずです」
「でも、」
あなたに何かあったら谷垣さんとチカパシが。
そう続けようとした口は、こちらを見据える眼差しに閉じさせられた。その視線を浴びながら少しだけ考えて小さく頷き、そのまま二人で外に出て旅館を飲み込むように広がる森へと近付く。
「音で気取られないよう慎重に進んでください。灯りにも熱か匂いで気付いていたようなので、気配を感じたらすぐに手放してください。あまりご無理のないように」
「はい。なまえさんもお気を付けて」
最後にもう一度言葉を交わしたら後は自分の進行方向に集中する。遠のいていくもうひとつの光を横目に利き手に持った箸を握り直してランタンを掲げながら、昏い黒の中へと進んでいった。
← /
top /
→
home