一寸先は闇。
意味が違うと分かっているけどぱっと頭に浮かんだ言葉の通り、ランタンの灯りが照らす周囲の外はどこまでも深い黒だった。
持ち手が軋まないようゆっくりと光を動かしながら、藪や背丈のある草のそばは避けて地面から顔を出している太い木の根や足元に茂る柔らかそうな草の上に足を置く。まだ枯れ葉の少ない時期でよかったな、と思った途端に小さく身震い。本当にこの時期でまだよかった。もちろんこんなことにならなければ一番よかったけど。
名前を叫びたい衝動をぐっと堪えて、目と耳に意識を集中させる。草木生い茂る夜の森に本気で身を潜めたアシㇼパさんを見つけ出す自信なんて無いに等しいけど、今彼女は杉元さんたちを探して行動しているはず。その痕跡を盗賊たちより先に見つけないと。
「っ……」
──が、ここで指先に限界が来た。寒さよりも先に換気口からじりじりと這い上がってきていた熱気に耐えられなくなって、一度ランタンを足元に置いて手を振り冷ます。草葉に遮られて急激に暗くなった視界を一層警戒していたら、ふと離れた場所で灯りが揺らめいていることに気付いた。
不規則に揺らぎ瞬く小さな光は、火屋で覆われたものではない。盗賊たちは視覚を頼りにしていない。杉元さんたちは灯りを持ち出せなかったはず。
「……」
罠の可能性もある。それでも辿り着いたもうひとつの可能性に逸る気持ちを押さえながら、置いていたランタンを持ち上げようとした時だった。
「たいまつに近付くなッ!!銃を持ってる奴がいるぞッ!!」
突然暗闇の奥から聞こえてきた言葉の直後、目指す灯りがフッと消えた。間髪入れずかなり近場から届いた銃声にその場で身をかがめた瞬間、雄叫びと共に灯りのあった方向から何発もの破裂音が鳴り響く。
不安と駆け出したい気持ちにじっと耐え忍んでいれば、さほど待つことなく音は止んだ。そのまま息を潜め続けているとやがて聞こえ出した例の音が少しずつ遠のいていき、再び辺りは時折吹く風が葉を揺らす音だけになった。
ゆっくり五つ数えてから、そっと頭を上げる。小さな灯りがあったはずの場所はすっかり暗闇の中に溶け込んでしまっていて、今更向かってところでおおよその位置しか分からないだろう。
あの灯りがアシㇼパさんのものだったという確証はない。さっきまではそうであってほしいと思っていたのに、今はそうでなければいいと強く願っている。
気軽に浮かび上がろうとする不穏な想像を素早くかき消しながら、自分の目で確かめるためにもう一度ランタンに手を伸ばした。
「動くな」
上も下も爪の先までピタリと固まった。相手の実力か私の油断か、今の今まで危険はないと判断していた背後からかすかに草を踏む音がこちらに近付いてくる。
張り詰める緊張の糸。でもそれはつい今しがた聞いた声を思い出したことで僅かなゆとりを生んだ。声を潜めて、でも相手の耳に確実に届くように喉を震わせる。
「……尾形さん?」
「灯りは消せ、ただでさえ利かん夜目が余計ダメになる」
質問の返事はなかったものの、再び聞こえてきた声で確信を持つ。指示に従い空中で止めていた手を動かしてつまみを回せば、世界が純黒に染まった。瞬きしても目の前にあるはずのランタンの輪郭さえ分からない。
「分かったことは」
「盗賊たちについてはまだ何も。それよりアシㇼパさんが皆さんを追って旅館から出て行ってしまっ…!?」
左右も分からなくなりそうな中で立ち上がり声へと振り返った瞬間、触れた何かに腕を掴まれそのまま勢いよく引かれてバランスを崩した身体。咄嗟に倒れる方向へ突っ張ろうとしたもう片方の腕は伸びきる前に何かにぶつかり、想定外の柔らかさと温度にびくりと跳ねた肩の勢いで距離を取ろうとしたものの、それより速く背中に回り込んだ力との間に挟まれて上半身をすっかり押さえ込まれてしまった。
押し付けられた弾力と程よい温もりが直接手や脚に、薄い布越しに背中や腹からじわじわと伝わってくる。その正体が現在進行形ですっぽんぽんであろう尾形さんの素肌で、背中に回された彼の腕に自分が抱き込まれていることはすぐに理解した。
だけどどうしてこうなったのか理由がまるで分からない。分からないからこそ、迂闊に動けない。
治療や看病のためならいくら触れても触れられてもなんとも思わないのに、何も説明がない今、互いの肌が上から下まで普通ならあり得ないほど密着している事実だけを意識してしまってじわじわと羞恥心が湧き上がる。でも状況が状況なだけに力尽くで抵抗することも無暗に声を上げることも憚られてそのまま様子を窺っていたら、肌着越しに脇下の肋骨を掴んでいた手が不意に指先を胸の端に食い込ませてきた。
驚き固まる私に構うことなく何かを確かめるように数度下側の肉を押し込んだ後、当然のように上へと移動を始めた手。喉が小さく引き攣るけど、それは自分の胸を押し潰しながら厚い胸板を押し返していた私の腕に阻まれて皮と肉を少し動かすだけに終わった。
それにほんの少しの希望を感じたのは一瞬。ならば、と言わんばかりに今度はその手が輪郭を確かめるように下へと滑り降りていく。
わけが分からないが頂点に達して思わず指先へ力を込めたら、剥き出しの鎖骨の辺りを熱く湿り気を帯びた微風に撫でられてぞわりと肌が粟立った。逃げ出したくてたまらないと訴える身体を必死に理性で抑え込んでいる間にも、大きくがっしりとした手のひらは腰の括れを通り過ぎる。
心臓の脈打つ音が頭の中に鳴り響く。尾形さんの意図が分からない。恥ずかしい。今すぐ逃げ出したい。でも大きな音を立てちゃいけない。でもこんなの普通じゃない。でも。でも。
ああどうしよう、このままじゃ頭が爆発してしまう。
とうとう腰骨の出っ張りへと辿り着いた手は、止まることなく指先の向きを下へと変える。腿の前側に触れていた自分より少しだけ高めの温度が意思を持ってすり寄ってきた。腰下の非常事態の対処に神経を集中させようにも、何か質量のあるものが目と鼻の先に近付いてくる気配がそれを許さない。
微かな呼吸の音と共に先程胸元に感じた熱風が今度は耳の縁をくすぐって、ゾクゾクとした痺れが背中から頭のてっぺんまでを駆け抜けた。
この感覚、知ってる。浮かんだのは蒸し暑くて薄暗い部屋。部屋中に満ちた匂い。私のものではない身体たち。苦しげな息遣いと肌を伝い落ちる汗。
そしてあの、全ての光を吸い込んでしまいそうな黒。
記憶の波に呑まれている間に耳後ろの髪の中に何かが潜り込み、すうっと深い音が直接鼓膜を震わせた。だめだもう爆発する。
どんな形でもいい、とにかく早く終われ……!!
破裂の衝撃に身構えてぎゅっと目をつぶった。
──が、何も起きない。
いつの間にか止まっていた息に限界がきて小さく吐いて吸えば、頭に酸素が回ったのかほんの少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。二度目の呼吸に合わせてゆっくりと目を開ける。
広がるのは相変わらず黒一色。そこでようやく今一番頼りになる感覚を思い出して恐る恐る耳に意識を向けたものの、やっぱり状況はあまり変わらない。耳や髪に触れる自分の物ではない──尾形さんの温もりは今も確かにそこにあるのに、さっきまで直に感じていた吐息の熱も呼吸の音も一切聞こえない。
……あれ?尾形さんこれ息してる?
寸前までダイレクトに聞かされていた呼吸が突然確認できなくなってどこを見るでもなく視線をさ迷わせていたら、耳の後ろやその周辺にあった質量がおもむろに離れていった。冷たい空気に顔全体が晒されて、それだけでずっと呼吸が楽になる。そこから三つ数えられるくらいの間隔を空けて、今度は全身から自分以外の熱がすっと消えた。とてつもなく長い間味わえていなかった気がしてしまう開放感に、張りつめていた緊張が一気に緩んでいく。
が。
「くっせぇ……」
「ぎぃっ…」
間髪入れずに顔の下半分を今の今まで腰に感じていた熱に鷲掴みにされて、確かな意思で背後へと押しやられた。首が構造の限界まで後ろに反っても、さらにその先への挑戦を要求してくる手。勢い余って後ろに倒れそうになる体を支えるために無茶振りする腕を押し返そうと掴む。案の定びくともしない。
「さっき女湯にいたのお前だろ。なんで風呂入って臭くなってんだ。前はそんな匂いしてなかっただろうがふざけてんのか」
「ギブギブギブッ…!!」
「あ゛?」
だからギブだってば!!
ここ最近ではかなり珍しい苛立ちをまるっと声に乗せた尾形さんの静かな暴言に返す余裕もないまま顎の形を変える勢いの手をタップし続ければ、一瞬握力が強まった後に渋々といった様子で解放された。ようやく正常に戻った軌道で早急に、でも音はなるだけ抑えて酸素を取り込む。
盗賊たちは声の掛け合える範囲で行動しているようだし尾形さんがここまで来たということは周囲に彼らの気配はないのだろうけど、それでも目立たないに越したことはない。
でもなんで私だけこんなことになってるんだろう。そんな無意味な考えはすぐに思考から流して、ようやく落ち着きを取り戻した口で心当たりの有り余る詰問に返す。
「ハァッ……お酢です」
「あ゛?」
「さっきからなんでそんなに喧嘩腰なんですか…?薄めて使うと髪に良いんですよ」
学園にいた頃、女生徒と一部の男子生徒たちの間では大豆の煮汁のリンスが流行っていて、私も時々使っていた。
「大豆の煮汁とはちょっと感じが違うけど、お酢も気をつけて使えば髪がサラサラになるんだよ」なんてひょんなことから私の髪をきれいに結い上げてくれた手の持ち主に教わった時には、そんな贅沢な使い方をする人もいるんだなあと自分には縁のないものとして聞いていたけど、まさか大豆の煮汁よりもお酢のほうが手に入り易くなる日がくるとは思わなんだ。
使う量はほんの少しだし普段は気付かれることなんてないのだけど、アシㇼパさんといい尾形さんといいよっぽど気に入らない匂いらしい。
「……ちゃんと取れるんだろうな」
「きちんと乾けばいつも通りです。さすがに近付かない限り盗賊たちにも気付かれないと思いますが、気になるようなら別行動を取りましょうか?」
「…なるだけ風下にいろよ」
口にしてはみたものの余計な的が増えて面倒だろうなと思っていれば、案の定離れるなということだと解釈できる返答をして動き始めた尾形さん。草の擦れる音と暗闇の中にどことなく浮かび上がったそれより濃い黒の塊におおよその位置を察して後に続く。どうやら話はこれで終わりらしい。
……結局、さっきの尾形さんは何がしたかったんだろう。事の真相を確かめたい気持ちと先程の感覚を思い出しそうになってさっさと無かったことにしたい気持ちの間で少しばかり迷っていたら、もっと大事な用件を聞きそびれていたことを思い出した。
「あの、アシㇼパさんを見かけませんでしたか?」
「さっきの灯りがそうだ。盗賊と出くわしてた」
「なっ」
「そっちは俺が仕留めた。灯りが消えてどこに逃げたかまでは分からんが、同じ下手を繰り返すような奴じゃないだろ。まずは敵の数を減らす、探すのは夜明けまで待て」
「……チカパシは?」
「知らん。後で谷垣にでも聞け、殺されてその辺に素っ裸のまま転がってなければな」
返された言葉に、そういえば逃げる時に谷垣さんがチカパシの名前を呼んでいたことを思い出す。一緒に逃げられたんだろうか。同時にキロランケさんの悲痛な叫びも思い出して、小さな不安がまたひとつ生まれた。みんな大きな怪我をしていないといいけど。
「そういえばお前獲物はあるのか」
「はい」
続けざまに前から聞こえてきた声に返す。アシㇼパさんに追いつくことを優先していたので真っ当な武器ではないし不意打ち程度の威力しかないけど、もし接近戦になったときにはお荷物にならない程度には立ち回らないと。
胸の内で気合を入れ直して、見えてはいないと理解しながらもずっと利き手に握りしめていたそれを持ち上げた。
「お箸」
返事はもらえなかった。
***
「──もうちょっと明るければ外さなかったのに」
二度目のボルトの操作をしながら不機嫌そうな声で呟く後ろ姿をただ見守る。曖昧だった木々と空の境目が今は東の方角をはっきりと示していて、遠く離れた暗がりは目を凝らしても不確かなままだけど、自分の周囲はもう殆ど問題なく見える。
「逃げた。追うぞ」
「はい」
しばらくの間維持していた狙撃の構えを解いて立ち上がった尾形さんに従い、こちらも潜んでいた茂みから出る。同時に先程鍛え抜かれた背中を眺めながら決めていた手順通りにすす……と風下を維持したまま空けていた距離を縮めてその左側に移動すれば、こちらに気付いた尾形さんが顔をしかめて一歩距離を離した。さらに一歩詰める。
「おい近い、離れろ」
「…その、少し肌寒くて。これ以上は近寄らないようにしますから」
「……」
咄嗟に思いついた言い訳を口にしながら、事実日中よりも冷え込む空気に一晩晒されて無駄に力の入る腕を擦る。もう少し経って日が昇ってくれば和らぐだろうけど、案の定横に人肌がある程度では何も変わらない。注がれる尾形さんの視線には気付かないふりをして、比較的木々の少ない場所を走る小さな影たちを追いながら黙々と歩く。
お願いだから、余計なことがばれませんように。
「……ははぁ?」
あ、ばれたな。
ねっとりとした笑い声の後、夜明けの光を反射して際立つ白い肌がこちらとの距離をぐっと縮めてきて、同じだけ距離を空けようとしたら腕を掴まれた。抗議しようと見上げた顔には、それはもう愉快そうな目尻と口角。月形への道中や食料庫の上で見たあの貼り付けたような笑みとは違う。時折見せる嘲笑ともちょっと違う。とはいえ釣られて楽しい気持ちになるような笑みでは決してない。
「おいおい、何を今更初心い乙女ぶってんだ。ここまで散々平気な顔して楽しんでただろうが」
「…過剰に反応しないようにしていただけです。楽しんでなんかいませんし」
平気だったわけでもないです。と続けようとしたけど、それはそれで揚げ足を取られる気がして押し黙る。
周囲が明るくなったおかげで尾形さんの表情がよく見えるようになった今、つまりはその身体も上から下までよぉーく見えていた。距離を空けているとそれだけ視界の中にいる尾形さんは小さくなるわけで、どことは言わないけど普段は見えない場所まで視界に入ってきてしまうのだ。
一々頬を染めて取り乱すような恥じらいを持ち合わせているわけではないけど。自分の死角を増やしてまで拒絶するわけでも無いけど。
見なくていいなら見なくていい。
「ハハッ、遠慮するなよ」
「うぎぎ…!!」
引く力をさらに強めて私の手をどこかに誘導しようとする腕に抗いもう一つの手で胸板を全力で押し返しながら、既に視線は遠くに戻してニタニタと笑っている横顔を睨みつける。ええい大胸筋が厚い!!こんなことしているバヤイじゃないのに!!
「じゃあ離れろ」
「そ、それもご勘弁を!」
突如として冷たい声と共に私を突き放そうとする腕。慌てて掴み直して小声で懇願すれば、今度こそ尾形さんは見慣れた笑みを浮かべて小鼻をうごめかせた。口の端がひくりと引き攣る。
なんとまあ、厄介な嫌がらせの仕方に気付かれてしまったものだ。
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