「ぐううッ!!」

左斜め後ろ。痛みをこらえる呻き声が聞こえた刹那、すぐそばですっかり耳に馴染んだ発砲音が上がる。覚悟はしていたけど鼓膜が違和感を覚えている間に次の呻き声が今度は右斜め後ろから上がり、瞬間、そばにあった熱が一つ消えて少し離れた場所で派手な破壊音がした。でも今度は闇の奥から似たような音が立て続けに上がる。
「報いを受けるべきだ」「すべて奪ってやる」と昨晩風呂場で聞いた声から滲み出す底知れない負の感情に当てられて、胸中に不安が膨らんでいく。

「杉元どこだ?大丈夫か?」
「アシㇼパさんはそこを動くなッ!!」

アシㇼパさんの言葉に返された杉元さんの声の気迫と位置から彼が今まさに命のやり取りをしているのだと確信した直後、すぐそばでまったく別の音がした。身体を向けていた方向、目の前から聞こえたそれが畳の上を擦り歩く足音だと瞬時に思い当たる。

尾形さん。
2発。
アシㇼパさん。

脳裏をよぎった言葉を整理するより先に体が動いた。姿勢は低く保ったまま前に飛び出し、捕らえたものを勢いに任せて床へ押し倒す。嗅ぎ慣れた刺激臭が鼻を抜ける中一段と悲痛な悲鳴を上げた身体が体勢を立て直す前に上半身へと這い上がり、斜めに横切る武器の柄らしき物を膝で押さえつけながら箸の先端を息の盛れる音がした辺りに力の限り突き刺せば、柔らかい場所に深々とめり込む感触が伝わってきた。が、引き抜くより先に自分の意思に反して大きく身体が傾く。

しまった。
身動きが取れないまま身体が畳に叩き付けられて、痛みと衝撃に襲われている間に今度は私へ乗り上げてきた相手に喉を掴まれた。気道を塞がれて息ができない。

「なまえ!」
「死ねこのアマッ!!」
「グゥッ……!!」

探り当てた親指の骨を折ろうとしたけど、上からもう一つの手が重ねられてさらに力を込めてくる。骨だけは折られまいと必死に抵抗するものの、このままでは力負けするのも時間の問題だと分かる。

意識があるうちに記憶を辿って利き手を伸ばせば指先に硬く細いものが触れ、掴んだそれを一気に引き抜くと首を絞める力が弱まった。間髪を容れず曲げた腕を再び伸ばした時、頭上で大きな音がした。

塞がっていた喉が突然開放され、同時に私に跨っていた男の身体が飛ぶように横へ倒れる。自由になった上体を急ぎ起こした私の隣で上がる硬い何かを叩き壊す音を聞きながら懸命に酸素を取り込んでいれば、何度目かでそこに水気が混じりようやく静かになった。
咳と荒い呼吸を繰り返し時折嘔吐く私の耳に、今日初めて聞いた荘厳かつどこか不敵な声が届いた。

「犬童典獄と喧嘩だ」


「なまえ!」
「げほっ、うぇ……はい、アシㇼパさん」

「まきびしが危ないからそこにいてください」と繋げた言葉に返事はなく、慎重な擦り足の後、頬に馴染みのある感触が触れる。

「無事か?」
「はい、ちょっとむせただけです。……ん…へへっ、そこくすぐったいです」
「うるさい」

脇やら腿やら身体中をまさぐる手に身をよじりながら息を漏らすもぴしゃりと跳ね除けられてしまい、それから二つの手に顔を挟まれて少しだけ上を向かされた。相変わらず何も見えてはいないのに、そこで輝く美しいものに真っすぐ射抜かれているのを感じる。

「……お前は杉元とは違うんだ。もっと慎重に行動しろ」
「…ふぁい」
「よし」

静かにこちらを諭す澄んだ声に頷けば、むぎゅむぎゅと両頬を揉みしだかれてから解放された。「次はストゥで尻を引っ叩くからな」と付け足す表情の分からないアシㇼパさんの言動に、胸の中でモヤモヤと不穏な気持ちが生まれる。

失敗した。優しいアシㇼパさんに余計な心配をかけさせてしまった。咄嗟に動けたことに後悔はないけど、あんな向こう見ずな行動、あの時あの場にいたのが私一人だけだったなら運が良くても無事では済まなかっただろう。
私が浅慮だったばかりに、夕張で私の行動を信じていると言ってくれた彼女の気持ちを裏切ってしまった。私がもっと強かったなら、杉元さんくらい頼もしかったなら、こんなことにはならなかったのに。
……うん、とりあえず次からはちゃんとお風呂にも武器を持ち込もう。


ひとまず気持ちの整理を付けようやく事態の把握に動き始めた頭を持ち上げたところで、突如軋んだ音がして振り向いた先から一筋の光が差し込んできた。それから派手に木が弾ける音とともに光が爆発する。眩しさに細くなる目を凝らしたそこには光を背負って二本足で建物に侵入してくる規格外に大きな影。咄嗟に頭に浮かんだ全身毛むくじゃらの巨躯を思い出して全身を緊張させる私をよそに、止める間もなく駆け出したアシㇼパさんがその姿を見上げて立ち止まった。

「お嬢…また会ったな」
「チンポ先生ッ!」

興奮したアシㇼパさんへかけられたのは、聞き知った見た目に相応しいどっしりと構えた声。それが旭川で別れた牛山さんのものだと気付くまでに少しだけ時間がかかってしまった。
良かった、ヒグマじゃなかった。
でもどうして牛山さんがこんなところに。

あれ、じゃあさっきの声は……?と光に慣れた目で見回せば、襖が開ききった隣の部屋で会話する複数の影があった。
まず焦点が合ったのは畳に座り込んだ杉元さんで、間隔を空けて同じく腰を落ち着けている男は件の都丹庵士だ。先程の乱闘の中心にいたからだろう、二人とも小さく肩で息をしている。そんな二人を見下ろして立つもう二人の人物は、牛山さんと同じく私が知る方々だった。

「……土方さん。永倉さんも……」
「……これはこれは」

考え無しに発した私の声が耳に届いたらしく、同じタイミングでこちらを見た二人とそれぞれに顔を見合わせる。少々の沈黙の後、少し驚いた様子でこちらへ歩み寄って来る永倉さんの背後で「旭川以来だな、なまえ」と土方さんが微笑む。相も変わらず年齢とか老いといった概念がよく分からなくなってくる姿に惚けていたら目の前に立った永倉さんが手を差し伸べてくれて、深く考えることなく握り返せばもう片方の腕も使って私の身体を支えながら力強く引き起こしてくれた。旭川で一緒に買い物した時にも思ったけど、永倉さんも土方さんに負けず劣らず年齢不詳だ。

「大事ないか?」
「はい。お心遣い痛み入ります」

お礼を伝えて隣の部屋で続く会話に聞き耳を立てると、どうやら都丹庵士はこのまま生かされることになったらしい。脅しをかねてだろう、ここ数日の間に出会ったアシㇼパさんのご親戚方の安全を案ずる杉元さんに内心同意していると、その会話を断ち切るように声を上げたのはアシㇼパさんだった。

「こんな暗いところで隠れて暮らして、悪さをするため外に出るのは夜になってから…。これではいつまでたってもお前の人生は闇から抜け出せない」
「……参ったなこりゃ…」

そう自嘲しながら呟かれた都丹庵士の声は、もう誰への怒りも感じられなかった。


都丹庵士の処遇についてこの場で話を続けるらしい永倉さんに促されて、一人光の下へ向かう。戸が開け放たれた──というより二枚分程がなくなった廊下に近付くにつれて足元から上がってくる朝日の温もりが、無意識に続いていた全身の緊張を徐々に解していく。
ああ、終わったんだ。そう実感しながらとうとう全身に光を浴びた時、視界に広がった森の前には風景に溶け込まない三つの影があった。それはチカパシと白石さんとリュウで、それぞれ昨夕と変わらない姿に安堵の息が漏れた。

よかった、みんな無事だ。尻尾を振るリュウから視線を動かして大きなどんぐり眼へ向けて微笑み、もう半ばどうでもよくなってきた全裸を上へと辿っていくと最後にいつも以上に気の抜けた顔で立ち尽くしている白石さんと目が合った。その表情に違和感を覚えた直後、私の横を通り過ぎて尾形さんが建物から出てくる。
手に持った銃の銃床は軽く拭き取られているもののかなりの範囲に血が付いていて、さっき私を助けてくれた存在の正体を確信した。
お礼を言わなきゃ。そう思って口を開こうとしたら合っていた視線が下へ向かい、また交わる。そしてふいと顔を背けると負い革を肩にかけながら彼は離れていった。

最後に尾形さんが見た先を見る。白石さんがいた。表情は相変わらずだけど、よくよく見れば目が合わない。目線を追って首を下に向ければ、ないよりはましと羽織ってきた肌着とそこからはみ出した手足。
もう一度顔を上げれば今度こそ白石さんと見つめ合うことになって、途端、どっと押し寄せてきた疲労に乾いた笑いが漏れた。

さぁーて、どーしよっかなあー。


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