アシㇼパさんたちが出立してからさらに時間をかけ、谷垣さんはとうとう杖を使って歩けるまで回復した。
今日は谷垣さんの希望で、子どもたちと一緒に白樺の樹皮を採りにコタンの外に出ている。

体調を気遣う子どもたちに「無駄飯ばかり食ってられん」と汗を流しながら答える谷垣さん。律儀な人だなあと微笑ましくその光景を見ていたら、それに気づいた谷垣さんが私に向かって眉尻を下げた。

「すまんな、俺の見張りをさせてしまって」

その言葉に、思わず自嘲を浮かべる。さすがにこれだけ付きっきりではあからさますぎたか。

「こちらこそ申し訳ありません。
谷垣さんのこと、コタンの方々が受け入れていらっしゃるのは事実です。私が自分のことを棚に上げて、勝手に余計なことをしていました」
「構わん。ここの人たちは人が良すぎるからな。なまえは世話になった人たちを守りたいんだろう?お前みたいな人間がいるくらいで丁度良い」

嫌な顔一つせずに私にそう告げる彼に何も言い返せずにいると、「そろそろ帰るか」とみんなに声をかけてゆっくりと歩き出す谷垣さん。
すっかり懐いている子どもたちと一緒に、その声に続いて歩き出す。

「本当は杉元たちと一緒に行く予定だったんじゃないのか?あの子ども──アシㇼパのことを気にかけていたようだが」
「…いいえ。私はもともとお声がかかりませんでしたから」
「……そうか」

何気なく続いた谷垣さんの言葉に静かに頭を振れば、そこで私たちの会話は終わった。


それから村に帰って樹皮を大人たちに渡して、少し前からコタンに居着くようになったアイヌ犬のリュウと子どもたちが遊び始めるのを見届けてから谷垣さんと別れた。
私もフチさんのチセで寝泊りさせてもらっているので夕方にはまた会うことになるけど、谷垣さんには先に戻ってもらって、私は採った樹皮を乾かす手伝いをすることにしていた。

作業を始めてすぐ、「なまえ!」と声がかかり顔を上げると、オソマのお母上と目が合った。

「おかえり。知ってる?フチのチセに初めて見るシサムの客人が来てるわよ」

その言葉に、すっと頭の中が冷える。
動揺を表に出さないように意識して、笑みを顔に貼り付ける。

「…ただいまもどりました。お客人は何人でしたか?アイヌの言葉を分かる方もいました?」
「二人よ。どっちもアイヌイタㇰは分からなかったわ。谷垣ニㇱパを探しているみたいだったから、先にオソマにチセに案内させたのよ」

「同じ格好をした兵隊さんだったからすぐに分かったの」と笑顔の彼女に微笑み返す。
谷垣さんの言う通り。このコタンの人たちはみんな人が良いのだ。

用事を思い出したからと手伝えなくなったことを謝罪して、急いでフチさんのチセに向かう。
チセが見えてきたところで歩みを緩めて、足音が聞こえないように気を付けながら近づくと、入り口から一番近い窓から谷垣さんの背中が見えた。座っている誰かと話しているみたいだけど、谷垣さんの背中に隠れて中の様子は見えない。

さてどうしよう。
相手は二人。谷垣さんのことを連れ帰りに来ただけなら、まあ問題ない。
でも杉元さんたちの話では、谷垣さんは一時的とはいえ自分の意志で所属する軍を離れて行動していた。それがばれているのなら穏やかに話が収まるとは限らない。
そうなったとき、中にいるフチさんとオソマに、万が一でも何かあってはいけない。

となればやっぱり、まずは早く中に入らないと。
ざっと自分の姿を見下ろす。──うん、まあ、とりあえず裸足になれば見た目はなんとかなりそうだ。
長靴と靴下は物陰に隠して、襟巻を喉元を覆いきるように上げなおす。

一つ深呼吸して、わざとらしくないように足音を出してチセに向かい、中に入ってすぐに声を張った。

「オソマ フチ!“アエシナㇷ゚”セコㇿ クレヘ アン(私の名前は“内緒”です)!」

この五年触り程度に憶えてきたアイヌの言葉の中で、なんとか二人に私の名前を口にしないように伝えてみる。そのまま躊躇なく中を覗けば、複数のまなざしが一気にこちらに注目する。

すぐ近くにいたオソマが、きょとんとした顔でこちらを見上げる。その少し奥に立っていた谷垣さんも、驚いた様子でこちらを見ている。
そして。

「…谷垣、誰だそいつは」

向かって左手に座っていた男が、谷垣さんに問いかける。
長い前髪を後ろに撫で上げた顎に傷のあるその男は、腕の中に杉元さんと谷垣さんが持っていたものと同じような銃を抱えていた。

谷垣さんが口を開く前に、声を出す。

「谷垣ニㇱパ イランカラㇷ゚テ!」

なるだけ明るく、朗らかに。
そのまましゃがみ込んで、もう一度オソマと目を合わせる。

「オソマ アエシナㇷ゚ セコㇿ クレヘ アン?」

笑いかけながらフチさんにも聞こえるくらいの声量で伝えると、無言でこくこくと頷いてくれた。どうやらこちらの意図を理解してくれたらしい。それどころではないのに、ついアシㇼパさんとの血のつながりを感じてしまう。

顔を上げて、もう一人の見知らぬ男を見る。
フチさんの肩を揉むように背中に張り付いて、こちらを探ることを隠そうともしない視線を向けてくる頬のこけた男に、下がった血の気を悟られないようににっこりと笑顔を返した。やっぱり穏便な話し合いではなかったようだ。

「… シサㇺイタㇰ クイェ カエアイカㇷ゚(私は和人の言葉を話せません)?」

興味深げに二人を見てから、谷垣さんに問いかけるように伝えた。それからもう一度見慣れない二人を見る。
最初の発言の意味を理解されていたらもうどうしようもないなとは思いつつ、他はなるだけ言い訳のつきそうな範囲で憶えた決まり文句を口に出してみたものの、オソマのお母上の言っていた通り二人が言葉を理解している素振りはない。

「……彼は、この村に住む少年です。家が近くなので、そこの老人の様子をよく見に来ています」

ありがたいことに、どうやら谷垣さんにもこちらの意図は伝わったらしい。
名前を聞かれてしまうと生まれがアイヌでないことがすぐばれてしまうので、言葉が分からないフリへの信憑性が一気になくなってしまう。

「坊主、今は取り込み中だ。悪いが用事は後にしてくれ」

フチさんの背後にいる男に話しかけられた。
元気に頷いて「アイヌイタㇰ エイェエア ㇱカイ ヤ(アイヌの言葉を話せますか)!」と返し、誰もいない位置にどかりと胡座をかき、囲炉裏に薪をくべる。
言葉が通じないと理解した男から舌打ちが聞こえたもののまだ積極的に騒ぎを起こすつもりはないようで、無理やり追い出されることはなさそうだ。
本当はフチさんの近くに行きたいけど、必然的に男との距離も詰まってしまう。アイヌでも少年でもないとばれたら一気に状況が最悪になってしまうので、一先ずここで様子見だ。

「……今の若いアイヌは日本語が通じるんじゃないのか?」
「彼はあまり和人とかかわる機会がなかったようで……私も通訳がなければ会話できません」
「……そうか」

銃を持った男のほうからじっとりとした視線を感じたが、それもすぐになくなり、話が続く。

どうやら谷垣さんには、一緒に行動していた仲間を殺した疑いがかけられているらしい。初耳な話の真偽は定かでないけど、「ありえません」ときっぱり否定する谷垣さんが回復した次にこのコタンで恩返ししようとしていたことを考えると、信憑性は低いように感じた。そもそも私としては、極論コタンの人たちに危害が及ばなければそれでいい。
話が進むにつれてどんどん空気は剣呑になり、火箸を持ちながらふとした様子で顔を上げてみれば、フチさんとその背後を取る男の距離が異様に近くなっていた。男の右肩が不自然に上がっている。

しまった。やっぱり無理にでもフチさんの近くにいるべきだった。

下手に注目しないようにそのまま無邪気に寝転がるオソマに目をやり、微笑みながら考える。
どうしよう。どうすればオソマもフチさんも無事に助け出せるだろう。

「尾形上等兵殿、どうかこの人たちだけは……」

縋るような声の谷垣さんに視線が集まる中、そっと右手を背後に回してタシロに見せかけた腰の短刀に近づける。



「──冗談だ」

拍子抜けするほど軽い声でそう言ったのは、谷垣さんに「尾形」と呼ばれた男だった。

殺人の容疑はカマをかけただけで、今の様子でその疑いは晴れた。谷垣さんがこのコタンにいることも見逃すと言う。

「行くぞ、二階堂」との言葉にフチさんの背後にいた男もすっと立ち上がった。去り際に杉元さんを見たかと尋ねる尾形の問いも谷垣さんはさらりと否定し、二人分の足音が入口へ向かう。

が、部屋から出て行く前に止まる。
警戒を出さないよう意識して顔を上げれば、尾形の真黒な目がこちらを見ていた。そこで初めて、傷跡が顎の左右にあることに気付く。

「……」
「…クヤヤパプ(さようなら)」
「……ふん」

人当たりの良い顔を意識して問いかけたが、鼻息一つで出て行ってしまった。
足音が遠ざかり聞こえなくなったのを確認してから、小さく息を吐いた。とりあえず、みんな無事だ。

ふと谷垣さんをみれば、思いつめた様子で何か考え込んでいる。「谷垣さん?」と声をかけると一度視線が交わったけど、何も言わずに窓から客人を見送ったままのフチさんへ歩み寄った。

「おばあちゃん俺……もう行かなくては」

谷垣さんはコタンから出ていくつもりらしい。
さっきの二人の言葉を信用していないのか、第七師団とこのコタンを関わらせないようにするためか。どちらにせよ、谷垣さんの行動を私が止める理由はない。

仲間を殺した話は恐らく冤罪だと思うけど、谷垣さんがいないことでこのコタンの危険が減るなら、出て行ってもらったほうがいいと思う。
さっきの二人も言っていたように、谷垣さんには第七師団という戻る場所があるのだ。

フチさんに出ていくことが伝えられずオソマにお願いする谷垣さん。
でもオソマは谷垣さんに出て行ってほしくないようで、聞こえないふりをして逃げ回る。

「なまえ、頼む!」
「……」

しびれを切らした谷垣さんが私に声をかける。
その声にはっと顔を上げて私を見るオソマの目からは今にも涙が零れ落ちそうで、容易く心の中に躊躇いが生まれてしまう。そういえば、谷垣さんに一番懐いていたのはオソマだった。

「エホッパ ルウェ?」

去年私がコタンを一度離れると決意した時と同じ言葉をフチさんが悲しそうに問いかければ、言葉の意味は伝わらなくても十分だった。
谷垣さんの瞳からも涙が零れ落ちる。


──ああ。この人は本当に、この二人のことを大切に思ってくれているんだ。

やっぱりアシㇼパさんは正しかった。
今になってようやく、谷垣さんを信じようと心から思えた。

もっと良い方法がないのか、少しゆっくり話をしてもいいのかもしれない。
そう思って三人に向かって一歩踏み出した時、駄々をこねるようにオソマが谷垣さんの耳を引っ張る。

そして、谷垣さんの額が赤く弾けだ。

「……!!」

咄嗟に駆け出す。
少し間を空けて窓の外から銃声が聞こえてきた。

谷垣さんがフチさんに覆いかぶさるように倒れ、私は窓を避けるように滑り込みながら奥にいたオソマを伏せさせる。

「谷垣さん!」
「かすり傷だ!オソマなまえ、絶対に動くな!」

意識のはっきりした声にひとまず安堵し、「オソマ、フチさんに伏せたまま動かないように伝えて!」とお願いする。

その間に谷垣さんは腹ばいになりながら自分の銃を取りに向かったけど、どうやらさっきの話の通り、尾形は谷垣さんの銃を使えないように細工したまま出て行ったらしい。
最初から谷垣さんを殺す気だったわけだ。

さあどうする。
谷垣さんを差し出したら丸く収まるか?──いや、だめだ。状況的にあの二人は谷垣さんの暗殺を狙っているようだし、こちらが谷垣さんを差し出せば向こうの正体に気付いていると伝わってしまう。
そもそも、暗殺するつもりかどうかだって可能性の中の話でしかない。

「──戦うしかない!」

フチさんの巻いたマタンプㇱで止血した谷垣さんの言葉に、否応なしに腹を括った。

それからカパチㇼアㇷ゚を使って窓をふさぎながら、谷垣さんが作戦を説明してくれた。
敵を同じ場所に止まらせて、その隙に死角となるチセの壁に穴を開けて谷垣さんが脱出。
コタンから離れた場所で二人と決着をつける。

「なまえ、すまない。二人のことを頼む」

オソマが隠していた銃を携えて、チセから出た谷垣さんの言葉に頷く。
涙をこらえるオソマの頭を撫でながら、その背中を見送った。

***

夕方になり、夜になり。
それでも谷垣さんは帰ってこなかった。

敵もとっくに谷垣さんを追ってコタンを離れたと思うけど、念のため今晩はこのままフチさんとオソマには外に出ないようにしてもらう。

「なまえ…谷垣ニㇱパ、まだかな……」

フチさんにしがみ付くオソマの何度目かの問いかけに、両頬を包み込み地声で優しく話しかける。

「…きっともうすぐだよ。フチさんにチセを直しに戻ってくるって言ってたでしょう?」

慰めたつもりの言葉は逆効果だったようで、私の言葉にオソマの大きな瞳から再びぽろぽろと涙がこぼれる。

「谷垣ニㇱパ、戻ってこなかったらどうしよう…!」
「…オソマ、もう今日は寝よう」
「でも、でもっ…」
「……明るくなっても谷垣さんが帰ってこなかったら、私が谷垣さんを探しに行くよ」
「…本当?なまえもちゃんと帰ってくる…?」

こちらを見上げるオソマが少しでも安心できるように笑いかける。
「危ないことはしないよ。だから早く明日になるように寝ようね」と伝えれば、自分で涙をぬぐいながら「うん…!」と元気よく頷いてくれた。

ああ。どうか谷垣さんが、かわいいオソマをこれ以上泣かせませんように。
そう願わずにはいられなかった。


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