夜明け少し前。
やっぱり帰ってこなかった谷垣さんを探しに行くために、髪が揺れ動かないように纏め上げて鉢巻きと上着を裏返して身に付ける。
事情を知らない頃にアシㇼパさんのアットゥシを真似て作った私のアミㇷ゚は、本来の長さより裾丈がかなり短い。だから着物を裏返して裏に縫いつけた無地の布地を表にすれば、少し違和感はあるけど上着と鉢巻を身に付けた和人の姿になる。
これなら仮にあの二人に少しばかり姿を見られたとしても、このコタンに迷惑がかかる可能性は低い筈だ。
小さな寝息を立てるオソマを確認して立ち上がると、準備の音で起こしてしまっていたフチさんの手がそっと私の頬に触れた。
「カムイウタㇻ ナマエ エプンキネ ワ ウンコレ ヤン」
「…フチさん、イヤイライケレ」
暖かな手の温度をしっかりと覚えて、チセを出た。
昨晩銃声は聞こえなかった。今の谷垣さんの脚で山の中をどのくらいコタンから離れられるのかわからないけど、まだ追いつける可能性は高い。
昨日狙撃された窓側のコタンを見下ろせる高台へ行くと、二人分の足跡が残っていた。アイヌの靴ではこんな足跡は残らないので、昨日の二人のもので間違いなさそうだ。
今、谷垣さんは追われる側。この二人は追う側。
谷垣さんが銃を持っていないと思っている二人にとって、これは一方的な狩りだ。
山に慣れた谷垣さんの痕跡を追うのは難しいだろうけど、追っ手を気にしていないこの痕跡なら私でも追えるかもしれない。
足跡を直接辿らないように距離を取りながら、後を追う。
途中木々の間で足跡が少し乱れて雪が踏み固められていた。火の跡はないけれど、ここで一晩明かしたらしい。
夜が明けてからまだそれほど時間は経ってないから、まだ十分に追える距離にいるはずだ。
「……ん?」
ふと、辿っていた二人分の足跡の傍に、別の足跡があることに気付いた。
二つの足跡と同じ靴底は、辿っていた足跡のどちらとも異なる大きさ。
別方向から合流しているそれは、怪我をしている谷垣さんの足跡にしては体重のかけ方に乱れがない。
──私の知らない三人目がいる。
近くに気配はない。二つの足跡をから少し離れて同じ方向に進んでいく三つ目の足跡は、三人一組で動いているにしては妙に距離が離れている気がするけど、足跡が重なっているわけでもないのでどちらが新しい足跡なのかを判断するのは私には難しい。
とにかく今まで以上に辺りの気配を探りながら足を運ぶ。
もうしばらく歩みを進めて周囲をぐるりと見渡した時、遠く晴れた空にチラリと何かが見えた。
鉢巻を押し上げて目を凝らす。
「……煙?」
遠すぎて辛うじてではあるものの、風がない空に細く上る煙がかすかに見えた。
谷垣さんか、あの二人か、はたまた無関係の誰かか。
様子を見に行きたいところだけど、足跡はまだ続いている。チセで見たあの銃の腕では、こちらが先に見つかればすぐに殺されてしまう。今は二人の後ろを取ることを優先する。
煙の位置を確認しながら引き続き足跡を辿っていると、途中で足跡が煙の方へ進み始めた。彼らも異変に気づいたらしい。
念のため足跡を追い越してさらに斜面を登り、周囲を見下ろしながら歩く。
その時、煙の方角から獣の唸り声と人のものらしき怒声が聞こえた。
とっさに谷垣さんの姿が頭に浮かんで走り出したものの、少し間をあけて銃声が響く。距離はまだかなりある。間に合わない。
辺りを見回し、手近にあった一番幹が太く背の高い木に登る。
体重で幹が折れないぎりぎり天辺近くまでよじ登ってから顔にぶつかる葉を避けて辺りを見渡せば、白い煙はよく見えた。
私のいる場所から五町程先、開けた場所で焚火が燃えていた。
直ぐそばには何かの動物と、人らしき影が倒れている。獣は一切動かないけど、人の方は起き上がらないもののかすかに動いている。
紺色の服は谷垣さんたちの軍服と同じ色だけど、その人影が誰なのか、流石にここからでは遠すぎてわからない。
あれは谷垣さんなんだろうか。でも、それならどうしてこの状況で焚火の側になんか。
次の瞬間、焚火の手前四町ほど離れた木々の間で、何かが動いた。続いて焚火とはややずれた方角から発砲音。
咄嗟に避けていた枝を顔に寄せて、息を潜ませる。木々と笹藪に囲まれてかなり見えづらい中、同時に反射的に注視したそれは、勢いよく雪の中に倒れ込んだ。
砂色の外套の下から覗く紺色。雪の中に放り出された左手が握りしめている細長いものは恐らく銃だろう。
遠いながらも辛うじて見える出で立ちは、体格も踏まえると谷垣さんを追っていた二人のうちの尾形のように思えた。
そのまま火薬の弾ける音のした方角に目を向ければ、そこには斜面に立つ人影。
「谷垣さん…!」
思わず口から名前がこぼれる。
実際には人であることしか分からないくらい小さくて顔も何もわからないけれど、その立ち姿がここ最近毎日見ていた彼と重なった。
確信を持ちたくて目を凝らしていたら、谷垣さんらしき人の横から、もう一つ榛色の人影が現れる。
二人に敵対した様子はなく、何か話しているようだけど、当然ここからは聞こえない。──もしかしたら、あれが三つ目の足跡の持ち主なんだろうか。
ふと、嫌な予感がして視線を戻す。
そこには二人に向けて銃を構える、先程倒れた筈の尾形らしき男の姿があった。
衝撃を逃がせないほど体の芯を撃たれていたはずの彼が生きている状況は訳が分からないけど、今は考えている暇はない。
咄嗟に持っていた鹿笛を取り出し、思い切り息を吹き込む。
冷たい空気を切り裂いた音が彼らに届くかどうかというタイミングで手前の男が銃の反動を受け止めて、さらに向こうで後から出てきた人影が周辺の雪を赤く染めながらよろよろと背後に消えた。そして銃声が辺りに響く。
遅かった。もうこうなったら、彼が谷垣さんでないことを願うしかない。
撃ち終えた男がこちらに気付き銃口をこちらに向けたのが見えて、腕の力を抜いて木から滑り降りる。流石にこの距離と視界の悪さではこっちの顔なんて分かりっこないし狙いを定めるなんて無理だろうけど、万が一にでも当てずっぽうで撃った弾に当たるのはごめんだ。
そのまま地面に着地すれば、先ほどの方角から複数の銃声が聞こえてきた。注意不足で気付けなかっただけで、かなりの人数があの周辺に潜んでいたらしい。
状況と聞こえてくる声から判断するとやっぱりあの人影は尾形だったようで、どうやら兵隊──噂の第七師団たちに狙われているらしい。
なんで第七師団を離れていた谷垣さんじゃなくて、谷垣さんを殺しに来た尾形が追われているのかは分からないけど、これでは当分尾形達にコタンの様子を探りに戻る余裕はないだろう。
あとは谷垣さんがどうなったのか気になるけど、もし撃たれた人の傍にいたのが本当に谷垣さんだったなら、あのままぼんやり立ち尽くしたりはしないはず。
「……よしっ」
誰にも聞こえないように口を動かして、脚を動かす。
幸いあの騒ぎからは距離もあるし、音は私とは別方向に少しずつ移動している。
コタンの方角ではないけど、騒動から離れるように移動を始めた。
***
結局、私がコタンに戻ったのはその日の日暮れ前だった。鉢合わせや自分の痕跡の誤魔化しに気を使いすぎて、予想以上に遅くなってしまった。
チセにはすでに谷垣さんが戻ってきていて、壁に開けた穴を確認する谷垣さんにしがみついて鼻をすすっていたオソマと目が合った瞬間、泣きながら飛びつかれた。
どうやら今度は私が戻らないことが不安だったようで、オソマを安心させるために飛び出したのに、結局最後は私が泣かせてしまった。
「ごめんねオソマ」と頭を撫でながら宥めていたら、谷垣さんから名前を呼ばれた。
「オソマから俺を探しに出て行ったと聞いた。なまえ、あの時の鹿笛は…」
「…鹿に聞こえました?」
「ふっ……ああ。随分必死な様子の鹿だった」
「あっはっは」
なんとなく気恥ずかしかったので笑って誤魔化して、優しく微笑む谷垣さんに眉尻を下げる。
「…すみません、何もお役に立てませんでした」
「そんなことはない。おかげで咄嗟に身を隠せた」
「…隣にいた方は?」
「……分からない。だが、お前が気にする必要は無い」
きっぱりと断言した谷垣さんに返す言葉は何も見つからなくて、素直に頷いてからずっと気になっていたことを口にした。
「軍には、戻られなかったのですね」
「……おばあちゃんに、家を直すと約束したからな」
「迷惑かもしれないが、」と続けた谷垣さんの言葉に被せて「フチさんも、オソマも、……私も、谷垣さんが残ってくださって嬉しいです」と伝えれば、言いかけた言葉を飲み込んで「……そうか」と微笑んでくれた。
「なまえ、谷垣ニㇱパ、フチが中に入っておいでって!」
「はーい」
いつの間にかチセの中に戻っていたオソマに声をかけられて返事をしたら、足を動かす前にもう一度「なまえ」と名前を呼ばれてその顔を見上げた。
「……お前も、自分が本当にやりたいことを言ってみたらどうだ?」
「……」
穏やかな声でそう言った谷垣さんが誰のことを指して言ったのかははすぐに理解できたけど、だからこそなんて返せばいいか分からなくて、曖昧に笑って返した。
それからチセに入ってフチさんにも戻るのが遅くなったことを謝ったら、無事に戻ってきてくれてよかったとただ微笑んでくれた。
チセの壁の修理について谷垣さんと相談して、フチさんの夕食の準備を手伝うために移動したら、オソマにくいっと袖を引っ張られた。
「どうしたの?オソマ」と訊ねると、ちらりと谷垣さんがこちらを気にしていないのを確認してから、私の耳に口を近づけようとするのでそっと顔を寄せる。
「フチが、今日のことはアシㇼパたちには話さなくていいって。みんな無事だったならそれでいいからって」
「……うん」
谷垣さんの話によれば、尾形と二階堂は以前から鶴見中尉への造反を企てていたらしい。それに谷垣さんが気付き密告すると勘違いされたために今回の騒動が起きたけど、二人の裏切りに鶴見中尉は既に気付いていて、今朝の大捕り物へと繋がった。
だからもうあの二人が谷垣さんの命を狙ってこのコタンに戻ることはないし、それならアシリパさんたちに今日のことを伝えても、恩返しに戻ってきた谷垣さんがまたここに留まり辛くなってしまう。
アシㇼパさんに隠し事をすることにちょっとだけ感じる負い目には蓋をして、フチさんの言葉に背中を押してもらってひっそりと考えていた選択を自分の意思で取ることにした。
「フチさん、イヤイライケレ」
そう伝えると、今朝のようにフチさんがそっと両頬を包んでくれた。その手はやっぱり暖かくて、なんだか少し泣きそうになった。
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