「っていうかこの感じ、もしかしてなまえちゃんのこと知らなかったのって俺だけ……?」
「いえ、そうでもないです。他にも……あ」

噂をすればなんとやら。板の軋む音に振り返れば、アシㇼパさんを肩に乗せた牛山さんが建物から出てきた。奥には永倉さんもいて、部屋に向かって何か話している。彼らの話も落ち着いてきたらしい。

見ていれば彫りが深く眠たげな目とばっちり視線がぶつかって、気まずさから目を逸らす。それでも気配と足音は着実にこちらへ近付いてきて、とうとう気付かないふりもできなくなり顔を上げると大岩のような姿に見下ろされていた。別に酷い扱いを受けたことなんて一度もないのに、勝手に身体に無駄な力が入る。

「ボウズ……いや、嬢ちゃん。今まで気付かなくてすまなかったな。いつもは匂いでも嗅げば一発で女だってことくらい分かるもんなんだが、どうも今回は鼻が利かなかったらしい」
「ッス」

刺激しないように最低限の返事をしながら、身綺麗でいる習慣を癖付けてくれた教育に感謝した。日頃からなるべく汚れや臭いを落とすようにしていてよかった。

百戦錬磨の牛山さんにとって私なんて色気のかけらもないひよっこ。それは前から重々承知している。しているのだが、こうして見下ろされているとどうしても札幌のホテルで見た欲に身を任せ暴走していた姿が脳裏に浮かんでしまう。
あの時は薬とお酒のせいで他人事でしかなかったけど、嫌がる白石さんの乳首を舐めしゃぶりあらゆるものを破壊しながら家永さんを求める姿は、覚醒してからもしも自分が当事者だったならと想像すればただただ恐怖でしかなかった。

牛山さんにも相手を選ぶ権利はある。でも世の中色んな趣味の人がいる。
どうにも落ち着かない身体を腕を組んで押さえ込んでいたら、無表情にこちらを見下ろしていた顔がふっと微笑んだ。

「そう構えなくていい。男牛山、怯える娘さんの身体を無理やり暴くような下衆野郎じゃあないさ」
「ぁ…」
「男のフリをするなんざ何かしら事情があるんだろうが、苦労も多いだろうによく頑張ってる。ム、なら嬢ちゃん呼びはよした方がいいかい?」
「牛山さん……いいえ、どうぞご随意に」
「そうかい、ありがとよ」

お礼を言われるようなことなんて何もしてない。
それなのに惜しみなく差し出されるただただ私への優しさに満ちた言葉たちを受け取るうちに、自分が最初の印象に囚われてばかりいたことに気が付いた。
夕張から旭川まで一緒に過ごした中で、彼はいつだって女性たちに優しかった。チンポ先生と呼び慕うアシㇼパさんを大らかな態度で受け入れ常に優しく接していてくれたし、鈴川を捕らえたコタンでも、彼はあくまでも女性たちからの望みに積極的に応えようとしていただけ。
それに直接その場を見たわけではないものの、立ち寄った町や村で牛山さんが女性に無体を働いたり対価を払わなかったなんて話は耳に入ってきたためしが無い。もちろんそれはお世話になった女性たちから私たちの痕跡を第七師団に追わせないため必要な対応ではあったけど、どちらが疎かになってもきっと早いうちに残念な結果として現れていただろう。

愚かな私を見下ろす慈愛に満ちた目。そしてそれを縁取るかわいらしい睫毛がパチパチと瞬く動きに目を奪われる。

「それになあ、確かに滅多にお目にかかれないような別嬪さんではあるが……いいかい嬢ちゃん。これから先、その顔や身体でしか嬢ちゃんの価値を測れないような野郎に言い寄られても相手になんかするんじゃねえぜ。
今の嬢ちゃんはまだまだ成長途中だ。これからいろんな経験を重ねて、酸いも甘いも、いい男も悪い男も知ってますます魅力的になっていくのさ」
「先生……」
「いつかそう遠くないうち、身も心も熟れて飛び切りいい女になった嬢ちゃんを抱かせてもらう日を楽しみにしているよ。二人で心ゆくまで布団の上の極楽を堪能しよう」
「ちんぽ先生…」
「もちろん、嬢ちゃんが望むならいつでも喜んで相手になるぜ。そんじょそこらの男じゃ物足りなくなっちまうのはちと不便だろうが、相応しい男が現れるまで俺が何度でも嬢ちゃんを満たせばいいだけの話だ」
「チンポ先生…!!」

全ての欲から解き放たれたように清らかな眼差しが私に降り注ぐ。その姿がキラキラとまばゆく輝いて見えるのは、きっと陽の光だけが理由じゃないはずだ。

自分で自分が恥ずかしい。私ったら、何でこんなにも長い間牛山さんの──先生のことを誤解してしまっていたんだろう。そんな疑問に一瞬甦りかけた札幌の記憶は、先生の肩の上で誇らしげにこちらを見下ろしているアシㇼパさんの顔に見惚れて霧散した。そう、アシㇼパさんは初めて会った時から先生を慕っていた。杉元さん然りキロランケさん然り、それだけで彼が立派なお方なのだと知るには事足りたはずなのに。

私の身体と気持ちとおまけに女としての矜持まで尊重しようとしてくれる発言に胸が高鳴って興奮で身体を震わせたら、少しだけその目が大きくなる。

「おっと、俺としたことが突然現れた別嬪さんと話すのについ夢中になっちまった。お嬢、一度下ろしてもいいか?」
「ん」

大きな身体を屈めて肩から降りたアシㇼパさんの両足が地面に着いたことを確認すると、「これでも羽織っておくといい」と言って自身の背広の釦を外し始めた先生に慌てて首を振る。

「せ、先生そんなお構いなく!」
「なあに、今朝の日差しはちょいと激しくて身体が火照っちまってな。宿まで嬢ちゃんが預かってくれたら助かるよ」
「はわわ…」

やだあ!!すてきぃ!!

バチンと投げられたウインクに胸を貫かれて、軍帽の庇を持つ指先に過剰な力が入る。脈打つ胸の鼓動が押し当てた手まで伝わってきそう。
「昨日女を抱いたばかりだからな」とか「なまえちゃんしっかりして!そいつ今ちょっとスッキリしてるだけだから!いつ札幌の時みたいになるかわかんないよ!!」とか認識の外から聞こえてくる声の意味を理解するよりも、今はどこまでも私を立てようとしてくれる紳士的な言動の数々を頭の中で反芻するのに忙しい。

ああ先生、なんて大きなお方……!
いつか選ぶことになるかもしれない道のために、今のうちに先生のご厚意に身を委ねてみるのも本当に悪い選択ではないんじゃないか……なんて考えが頭の隅にちらついた時、背後から何かが急に肩に覆いかぶさってきた。軽く柔らかな感触の正体を確認しようと首を捩じり始めた途端その何かの上から両肩を掴まれグルリと身体の向きを変えさせられて、視界が先生から杉元さんへと切り替わった。

「これ着て」
「えぁ、え?」
「早く。ここ腕通して」

硬い声に急き立てられるがまま、彼が持ち上げている私の肩に掛けられていた着物の片袖に腕を入れたら無言でもう片方でも同じ動きを要求される。両袖を通せばすぐさま襟を正され、「結んで」と手短に私に告げると自分はしゃがみ込んで膝の位置にあった付け紐を結んでくれた。
脛の半分くらいまで隠れる丈のこれは普通の着物とは異なるようで、大きく開いたデザインの襟元は私の肌着と同じように付け紐を結ぶ形になっている。言われた通りに合わせる位置を確認しながら紐を結んで、最後に右胸の位置で蜻蛉頭を留めた。ところでなんで私は全裸の杉元さんに服を着る手伝いをしていただいているんだろうか。

「ごめん、これしか見つからなかった」
「とんでもない、十二分です。わざわざありがとうございます」

立ち上がった杉元さんにお礼と共に軍帽を返そうとしたけどあっさり断られてしまったので、再び胸元に添える。他に何も持っていないということは、本当に私の服だけを探してきてくださったらしい。
改めて身に纏ったものを見れば、肌寒い時期に町で見かけるご婦人用の外套だと分かった。明らかに私には分不相応な光沢感と着心地に、正直なところものすごく落ち着かない。汗染みでも付いちゃったらどうしよう。
どうしてこんな物がここに……と考えかけたけど、盗賊たちが今までどうやって生きてきたのかを思い出して納得した。きっとほとぼりが冷めた頃に売るつもりだったのだろう。

「やれやれ…」と呆れた様子の先生の声が聞こえてそちらに向けようとした顔は、杉元さんに代わって正面に立ったアシㇼパさんに身に付けた外套を下へと引かれて元に戻った。指示通りしゃがみ込めば軍帽を持ち上げていた片腕を退かされる。

「血が付いてる」
「ん、でも私のじゃないでああぁ……」

隣で続く会話を聞くためアシㇼパさんの言葉へ簡潔に返そうとしたけど、その赤を手近にあった美しい布でせっせと拭い取り始めた光景にそれどころではなくなってしまった。今のでどれくらい価値が下がったんだろう。でもアシㇼパさんの優しさはプライスレスなのでありがたく享受する。


「犬より役に立っとらんぞ谷垣一等卒。秋田に帰れ」

満足のいく結果になったらしいアシㇼパさんの手が離れたところでちょうど聞こえてきた尾形さんの声に立ち上がりながら振り返れば、いつの間にかキロランケさんと谷垣さんがそこにいた。キロランケさんと肩を組んで支えられている谷垣さんに少しだけ不安は生まれたものの、深刻そうな気配はない。背後を振り返ったキロランケさんが手で合図を送れば遠く木々の間から鮮やかな葡萄色がするりと現れて、ようやく全員の状況が確認できたことに安堵した。

気付けば話を終えたらしい杉元さんもそこへ加わり、どこを見ても肌色ばかりに目がいってしまう。みんなスタイルいいなあと大分麻痺してきた感覚でぼんやり全体を眺めていたら、丁度私と谷垣さんたちの間にいた白石さんが少し横に移動した結果見えてしまったブツ2つに頭をぶん殴られたような衝撃が走る。頭が回らないままそばにいたアシㇼパさんの目をそっと空いた手で覆ったものの、すぐさま白い手に指を割り開かれた。頼もしい。私はちょっとお腹いっぱいだ。勝手に見ておいて何だけど、できれば早めに忘れたい。

意識して視線を上げたら、こちらに気が付いたキロランケさんが微笑みながら片手を上げてくれた。その振動で肩を組んでいた谷垣さんも顔を上げたことでそれに応えようとしていた私と目が合って、思い詰めたような表情を訝しげに変え、そして最後に大きく目を見開く。その驚きに満ちた表情に、キロランケさんへと向けようとしていた笑顔から少しだけ眉尻を下げて返した。そうだ、彼にも説明しないと。

さーて、どこから話をしようか。きっと一方的に決めつけて怒りを向けてくるような人ではないはずだし、万が一にも白石さんのような滅茶苦茶な展開になることもないだろうけど、やっぱりどんな結果になっても受け入る覚悟だけはしておかないといけない。怖いけど、受け入れないと。

……ああでも、できたら少しだけ休んで頭がスッキリしてから説明させてもらいたいなあ。
旅館に戻って、杉元さんや他にも怪我をしている人がいたら手当てをして、それから仮眠をとる前にもう一度あのきれいなお風呂にゆっくり──。

「──あ゛」

やっばい。忘れてた。


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