「あ゛あぁぁ〜〜……!」
冷えた身体に染み込む熱さに、言葉にならない声が漏れ出る。思考を全て熱に奪われながら耐えていればやがてそれは心地良い温度となり、ほっと無駄な力を抜いた。この感覚は何度味わっても良い。足元から立ち上る酢の匂いを嗅いで引いた血の気がようやく戻ってきた気がする。
昨晩風呂場で盗賊に襲われた際、自分が不意打ちに酢の入った徳利を投げ付けたまま逃げ出していたことを突如思い出し、そばにいたアシㇼパさんへ先に戻ることを一方的に告げて1人全速力で戻った旅館。飛び込んだ玄関で鉢合わせて再び腰を抜かしてしまったご主人に平謝りに謝りながら手短に事情を説明し、理解しきれていなさそうな生返事を放置して今の今まで女湯の床を掃除していた。
もともと徳利に入っていた量自体も少なく、大半が盗賊の服に染み込んだらしい酢の被害は想定していたよりもずっとマシなものだったけど、それでも無傷とはいかなかった。小分けにしていた石鹸の残りをありったけ持ち込んで念入りに洗い上げたけど、その間にすっかり鼻は麻痺してしまいお酢の匂いがよく分からなくなってしまった。幸い湯船の底から救出したランタンから灯油が漏れ出た形跡もなかったので、あとは営業妨害にならないうちにきちんと匂いが消えてくれることを祈るしかない。
「ふぁあっ…」
誰もいない空間に漏れた大きな欠伸。悩みは残るものの、確実に眠気が蓄積しているのを実感する。たかが一晩眠らなかったくらいでとも思うけど、きっと安心感とこの温かさのせいだろう。
もう少し温まったら一度部屋に戻って休んで、それから森に置いてきたランタンを取りに行こう。そう決めたところで、背にしていた脱衣所の戸が静かに引かれる音がした。石鹸と一緒に持ち込んでいたタシロの位置を確認しながら振り返り、現れた姿に少しばかり目を大きくする。
「…インカㇻマッさん?」
「はい」
そこには半辰刻前まで見ていた裸体とどうしても比較してしまう、スレンダーかつふくよかな肢体を露にしたインカㇻマッさんがいた。手拭いで前を隠す楚々とした立ち姿に、思わず見惚れる。
「宿の主人からこちらにいると聞いてお手伝いができればと思ったのですが……すみません、谷垣ニㇱパたちの怪我の治療を手伝っていたら遅くなってしまいました」
「お気遣いありがとうございます、お気持ちだけで十分です。皆さんのご容態は?」
「谷垣ニㇱパも杉元さんも治療を終えてそのまま休んでいます。アシㇼパちゃんも杉元さんの治療が落ち着いて安心したようで、今は治療した部屋で一緒に眠っています。出発は明日にして、今日はこのまま休むことになりました」
「そうでしたか。インカㇻマッさんもお疲れさまでした」
杉元さんも谷垣さんも銃で撃たれたのだからもっとゆっくり休んでもらいたいけど、先を急ぐと分かっているから口には出せない。
掛け湯をするため近付いてきた彼女のために少しだけ場所を移動すれば、桶を手にした彼女が近付いてきた。
「盗賊たちが隠していたなまえさんの荷物は、籠ごと元の場所に戻しておきました。それから、宿の主人から預かった浴衣も一緒に。部屋に戻る時に服を預からせてもらえれば、明日の出発までに洗濯してくれるそうです」
「忘れてました……わざわざありがとうございます。ご主人もこれから大変でしょうに親切な方ですね」
「悩みの種が消えてとても喜んでいました。客足が戻るのはまだ先のことだろうから、匂いのことも気にしないでほしいと言っていましたよ」
「うーん、こればかりはそんなわけにも……」
「でも匂いなんてしませんよ?」
「……そこです、そこ」
桶を置いたインカㇻマッさんのやや斜め後方を指させば、少し体を乗り出した後、「……数日すれば消えますよ」と返してくれた困り笑いに同じ表情を向けた。お願いだから早く消えてくれますように…!
「お隣、失礼しますね」とそばに来た彼女に「どうぞ」と返せば、ゆっくりと湯に浸かりほうっ…と艶やかな吐息を漏らす。相手は違えどいつも湯屋で見慣れている姿のはずなのに、なんとなく見てはいけないものを見ているような気がして視線を逸らしてしまう。何か話しかけたほうが良いのかな……なんてほんの少しだけそわそわしながら膝を抱えようとしたら、隣にいるインカㇻマッさんの視線が自分の胸元へ注がれていることに気付いた。肌着を身に着けている時には見えない位置にあるそれに気付いたのだと分かって曖昧に笑いかければ、柳の眉がしなりと垂れた。
「すみません、ひとりでゆっくり過ごしたかったのかもしれないのに……」
「いいえ、そう言う訳ではないんです。ただその、アイヌの皆さんは複数人で入浴する文化がないと伺っていたので、インカㇻマッさんが来てくださったことが少し意外で…」
「本来はそうですが、私は和人の村や町に滞在する機会も少なくないので外湯や銭湯を利用する機会があるんです。皆さん最初は困惑したり驚いたりしますが、話をしているうちに大抵は受け入れてくれます」
「なるほど…」
男女ともにアイヌの人たちは年頃になると、同性同士でも肌の露出を見せるのは最低限になる。小さな頃から一緒にお風呂に入ってくれていたアシㇼパさんは、その日は絶対にお酢を使わないと約束すれば今でもたま〜に一緒に入ってくれることもあるけど、そろそろ別の理由で断られる日も近いのかもしれない。さびしい。
静かな空間。でもさっきみたいな気まずさはなくなって、また少し眠気が出てきた。そろそろ上がろうかなと思い立ったところで、名前を呼ばれて顔を向ける。
「教えてください。あなたは何故この旅に同行しているのですか?」
「……アシㇼパさんの、お役に立ちたくて」
唐突な言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
なんで……と言われても。彼女に尋ねられると些細な問いでもなんだかとても深い言葉を求められている気がしてしまう。でも結局は何もいい感じの言い回しなんて思いつかなくて、真意も分からないまま素直に答えれば、私を見つめていた顔が頷いた。
「釧路までの道中、チカパシからアシㇼパちゃんの話をよく聞いていました。そして時にはなまえさん、あなたの話も。数年前にコタンにやってきて、アシㇼパちゃんのことをとても慕っていると聞きました。それは何故ですか?」
「……お話ししなければならない理由が分かりません」
「私が聞きたいだけです。偶然にもウイルクが死んで間もなくコタンに現れ留まるようになったあなたの話を、いつか直接聞いてみたいと思っていました」
そこまで言われて疑われているのだと気付かないほど意識は朦朧とはしていなかった。でもそこに不快感や怒りはなくて、素直に納得する。今更ながら自分が怪しさ満点なタイミングでアシㇼパさんに接近していたことに気付く。アシㇼパさんのお父上の件にしても金塊の件にしても、今まで疑われなかったことが逆に不思議になってきた。杉元さんもキロランケさんも私のことを知ってなんとも思わなかったんだろうか。
新たな気付きに疑問は生まれたけど、まずはインカㇻマッさんの質問に掻い摘んで答えることにした。のぼせないように浴槽の石に腰掛け直しながらざっと話の筋道を組み立て、口を開く。
ある日野盗に襲われ意識を失い、気付いたら雪山で死にかけていたこと。狩りをしてたアシㇼパさんに見つけられてコタンに運び込まれ、命を助けられたこと。元居た場所への帰り方が分からない私に、アシㇼパさんが今の生き方を教えてくれたこと。
本当のことを言えない部分には曖昧な言い回しを使いつつも、ほぼ全ての経緯の真実をはっきりと伝え終えれば、風呂場は再び沈黙に包まれた。果たして彼女は私の言葉をどう受け取ったんだろうか。肌が冷えてきたので再び湯船に身体を沈めたところで、「金塊に興味はないのですか?」と声を掛けられた。今度は間髪入れずに首を横に振る。
「アシㇼパさんは私の取り分のことまで考えてくださっていますが、私としてはなくても問題は一切ありませんね。確かにあって困るものでは無いでしょうけど、もともとはアイヌの方々が集めたものと伺っていますし、ただ呑気についてきているだけの私よりも手に取るに相応しい方々がいるかなって。アシㇼパさんにとってこの旅の目的はのっぺらぼうに会うことのはずですから、例え金塊自体が手に入らなくても彼女がお父上についてひとつの区切りをつけられたら、私はそれで満足です」
ああ、でもそれだと杉元さんには困った事態になるのか。いくらくらい必要なんだろう。アシㇼパさんと三人で協力して、なるべく短い期間で用意できたらいいんだけど。そういえば土方さん方は金塊が見つからなかった時にはどうするつもりなんだろう……と次々考えを広げていたら、水面がぱしゃりと跳ねた。
「なまえさん」
声に振り向けば、曲線で描かれた魅力的な身体。赤みがかった白い肌に水の玉が浮かんでいて、儚げで美しいと思った。
「あなたにとって私が、アシㇼパちゃんを惑わせる不穏な存在の一人であるということは理解しています。そしてあなたが、私よりキロランケのことを信頼していることも。
でも私も、あなたと同じようにアシㇼパちゃんをとても大切に思っています。証拠なんてありませんし今は証明することもできませんが、それでもあなたには直接私の気持ちを伝えておきたかった」
その言葉に何も言い返せない私に、インカㇻマッさんはそっと微笑む。
「私にとってウイルクは──アシㇼパちゃんのお父様は、とても大切な友人でした。彼がここにいない今、私はウイルクの分までアシㇼパちゃんに平和な日々を過ごして欲しいのです。少なくともその願いはなまえさん、あなたもきっと同じだとこの短い時間の中でも確信しました」
知り合ってからほんの数か月。やっぱり私はまだインカㇻマッさんのことが分からない。それなのに彼女はもう私の中にある何かを見つけて、それを見出した自分の目を信じて迷いなく行動している。形も色も違うのにその目にあの子が重なって、何だかとても羨ましく思えた。私なんて、自分のことさえ胸を張れることなんてないのに。
「私はあなたのその、金塊に縛られることなくアシㇼパちゃんを守ろうとする思いを信じます。そしてあなたと同じように私も、何があってもアシㇼパちゃんを守ります。男性たちやあなたのように鉄や火薬で戦うことはできませんが、私だからこそできる戦い方もあるはずですから」
「……はい」
相手を力でねじ伏せることだけが戦いじゃない。頭脳だって性別だって、何だって武器になり得る。それは十二分に理解しているつもりだ。そしてきっと彼女は私なんかよりずっと強いんだろう。
インカㇻマッさんが嘘をついていないからって、キロランケさんが嘘をついていることにはならない。インカㇻマッさんのアシㇼパさんを守りたいという思いを信じたい。それなのにまだ一歩踏み出すことに戸惑っている自分がいる。そんな私をどうこう説得することもないままインカㇻマッさんは微笑みを深めて、ゆっくりと立ち上がった。
「すみません、昨晩の疲れが出てきたのでお先に失礼しますね」
「あ、はい。おやすみなさい…」
しまった、上がるタイミングを逃してしまった。今からでも一緒に上がろうかな、でも今のままだと脱衣所で気まずいよなあ……とか考えならインカㇻマッさんを見上げていたら、「ああ、そうでした」と前触れなくインカㇻマッさんがこちらを見下ろした。
「もし特別な事情がなければですが……チカパシのこと、もう少しだけ気にかけてあげてみてください。あなたのことを慕っているのはアシㇼパちゃんだけではないようですから」
そう言って今度はいたずらめいた笑みを浮かべた後、インカㇻマッさんは脱衣所へと歩いて行った。その背中を眺めながら、ぼんやり思う。
やっぱり私、見るなら女の人の裸のほうがいいなあ。
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