「くぁっ…」
従業員の方に服を渡して部屋へと続く廊下を歩きながら、殺しきれなかった欠伸を勝手に持ち帰ってきてしまった杉元さんの軍帽の庇をお借りして隠す。人様の物を勝手に別の人の手に渡すわけにはいかないので、帽子は自分で洗うことにした。後で杉元さんに洗い方を教えてもらわないと。
廊下に差す穏やかな日の光は、今が朝と昼の間であることを示している。昨晩できなかった分髪や肌のケアを念入りに行っていたらかなり時間が経ってしまった。歩く廊下も通り過ぎた部屋も静かなもので、皆騒動が落ち着いて一休みしているらしい。階下から聞こえてくる控えめな作業音に、旅館の方々のご配慮を感じる。
インカㇻマッさんの話だと杉元さんもアシㇼパさんも別の部屋で既に休んでいるとの事だったから、2人が戻るまでは久々の一人部屋だ。最近はすっかり複数人で眠ることに慣れてしまっていたからちょっとだけ寂しい気持ちもあるけど、こうなればせっかくの貴重な機会を満喫することにしよう。
とりあえず布団の上で大の字になっちゃおうかなあ…!なんて思い付いて少々テンションを上げながら、辿り着いた部屋の障子戸を躊躇なく開けた。
知らない人がいた。
戸を閉めた。
……?
左右の廊下を確認する。間違いなく昨晩私たちが案内された部屋だ。それに今の一瞬で見えた部屋の中にいた人のそばに置いてあったのは、私のサラニㇷ゚だったはず。
確認のためにもう一度そっと戸を開ける。そこにいたのはやっぱり知らない男の人──。
「……」
「あっ」
じゃなかった。尾形さんだった。
私と同じく旅館からお借りした浴衣を身に付けていて、いつも後ろへ撫で上げてある頭部中央の髪たちが無造作に四方へ下ろされている姿は滅多に見ないものだったから、一瞬誰だか分からなかった。どうやらお風呂上がりのようで、こちらを見上げているであろう目はしっとりと濡れた長い前髪で殆ど隠れてしまっている。
壁に寄りかかり座る尾形さんの傍らにはいつも通り小銃が置かれていて、代わりに手の中にある見慣れた本は旭川で買った私の料理本だとすぐに分かった。
旅館に着いてからはまだ一度も開いていない料理本。先程石鹸とタシロを取り出した時にも間違いなくサラニㇷ゚の中に入っていたことを思い出すと同時に、慌てていてサラニㇷ゚の口を閉じ忘れたことに今更ながら気付く。
そして今。尾形さんの隣にあるサラニㇷ゚は、大きく口を開けてその中身を見せていた。
やったな私。やったな尾形さん。
素早く視線を動かし、記憶と同じ位置にあった杉元さんの背嚢に触れられた形跡がないことを確認して安堵。一瞬悩むも、結局何も言わず部屋に入ることにした。幸い今回も私の荷物に見られて困るものは入っていなかったはずだし、口を開けたままにしていた私にも多少の非はある。はず。
何より今は怒る体力も気力もない。次同じことがあったらちゃんと言おう。
「遅い」
「すみません、つい長湯してしまいました」
「…風呂にはいなかっただろ」
「あれ、尾形さんも露天の方に行かれていたんですか?それなら私が脱衣所にいる時間が長かったせいで入れ違ったんですね。なにか御用でしたか?」
「……」
戸を閉めながら尋ねたけど、続きは返ってこない。振り返れば同じタイミングで前髪を撫で上げた手により束の間いつもの尾形さんが現れて、こちらを見ていた目線は前髪が落ちきる間に外された。いや、ぜったい何かあるでしょ。
そもそも何もなければ少なからず疲労の残るこの状況で、わざわざ隣の女湯に私がいるか気にしたりこの部屋に足を運んだりはしないだろう。でもやっぱり主がいない部屋に居座るのはどうかと思う。もし杉元さんと鉢合わせしたらどうするつもりだったのか。今更だから言わないけど。
とりあえず本人の口が開くのを待つことにして、濡れた小物を乾かすために衣紋掛けに向かった後サラニㇷ゚の前に座って残りの荷物を整理し始めてすぐ、横から髪を軽く引かれた。振り向けば存外近くに身を乗り出した尾形さんの顔があって、掬い取られた私の髪にその鼻先が近付く。スン、と微かに聞こえる音に普段ならすかさず距離を取るところだけど、今回ばかりは代わりに口角と顎が上がる。
「もう匂いませんよね?」
「…油」
「あ、毛先は水油を付けているので。もう少し上なら気にならないと思います」
「…………」
嗅ぎすぎ嗅ぎすぎ。だがもう臭いとは言わせないぞ。
洗ったまま一晩放置した髪の仕上がりは絶好調とはいかないものの、お酢の匂いもごわつきもすっかり無くなっているはずだ。乾かす時間が惜しくて洗い直すことは断念してしまったけど、これは結果オーライと言っていいだろう。
だからそろそろ布団に潜り込みたい。大の字で眠りたい。
尾形さんそろそろ本題に入らないかなーとさっきから同じ体勢のまま動かない姿をぼんやり眺めていたら、そこでようやく自分が肝心なことをずっと言い忘れていたと思い出した。なんだかんだでいっつも本人に伝えるのが遅くなってしまう。自分でも助け甲斐のない奴だと思う。
「尾形さん」と声を掛ければ、長い前髪に遮られながらも上を向いた目玉と少しぶりに視線が交わった。その顔の印象が普段よりもほんの少しだけ幼いような柔らかいような気がするのは、やっぱり髪型のせいだろうか。手は髪から離れない。
「廃屋では助けていただきありがとうございました。考えなしに敵に突っ込んで反撃されて、尾形さんがいなければきっと無事では済みませんでした。いつも助けていただいてばかりで情けない限りですが、本当にありがたいことだと思っています」
私の言葉に影響されて少しだけ大きさの変わった目を見返す。
尾形さんに助けてもらったのはこれで何度目だろうか。一度目の夕張の時にはどうにも素直に言えなかったお礼をこうして心から伝えられている自分と、そんな私の言葉に静かに耳を傾けてくれている目の前の彼の姿に、あの時からの関係性の変化を実感して湧き上がる嬉しさを顔に出すまいと抑え込む。
「これからはもっとよく考えて行動するよう肝に銘じます。まだまだ未熟者でいつになるか分かりませんが、ご恩をお返しできるように精進していきますので今後ともよろしくお願いいたします」
最後まで一気に言い切ってから頭皮に被害のないよう深く頭を下げ、元に戻って相手の反応を待つ。チクチクと嫌味な言い回しの正論が始まることを覚悟する中、少しだけ間を空けて「……俺は、」と聞こえた声に姿勢を正した。
「苦労して谷垣を助けた」
「?……!はい。あの時もありがとうございました」
「今回盗賊たちを一番多く仕留めたのも俺だ」
「はい。尾形さんのお陰で騒動を迅速に収めることができました」
「そうだ。俺がいなければもっと苦労した」
「仰る通りです」
「……」
「……」
「……あとお前も助けた」
「はい。本当にありがとうございました」
「だから俺はすごく頑張ったと言えるはずだ」
「?そうですね。尾形さんはいつもとても頑張ってくださっています」
嫌味を言われている……わけではない、と思う。ぽつぽつと緩急をつけて続く言葉の真意を探りながら事実を肯定し続けていれば、少し珍しさを覚えた発言を最後に再び尾形さんの口は閉ざされる。それから私の髪を手放しもう片手に持ったままだった本を横へ押しやると、体勢を崩してそのまま自身の頭を私の膝の上へと置いた。
硬直。ゆっくり3つ数えて次のアクションを待つけど、何も起きない。
徐々に浮かび上がってきた頭の中を占領しようとする大きな疑問符を追い出そうと試みてそろりと瞬きしてみるも、あまり効果はなかった。
「……尾形さん。髪、まだ濡れてますよ」
「……」
とりあえず薄い浴衣にじわじわと浸透してきた冷たさを指摘したけど、前髪の隙間に見える二つの黒目は明後日の方向から動かない。無視する意向らしい。
はてさてどうしたものか。ちょっと分かってきたかもと思うとまたすぐ分からなくなる尾形さん。彼の攻略難易度が高すぎるのか、私の察しが悪すぎるのか。
このまま枕役に徹して尾形さんが満足するまで待てばいいのかな。でも何もしないせいで機嫌が悪くなったらどうしよう……とソワソワ落ち着かない気持ちで尾形さんの顔を観察していたら、湿った毛束の先がひとつ白目の中に入りそうになっていることに気が付いた。
あまり深く考えずに前髪と額の間に指を潜り込ませてそのまま前頭部へと這わせれば、整髪料の付いていない存外柔らかで指通りの良い髪が見慣れた場所に納まる。すっかり見慣れてしまったけど、やっぱり不思議な髪型だ。でも上げても下ろしても尾形さんによく似合っているのだから、髪型も髪型の発案者も尾形さんもすごいと思う。もしかして尾形さん自分で考えたのかな。そんな必要性のないことを考えながら尾形さんを地味な痛みから救出したことに満足して離した手は直後、繋がる手首を掴んだ何回りも大きな手に引き戻されてペチッと小さな音を鳴らした。
再び固まる私。それをじっと凝視したまま、尾形さんは引き寄せた私の手のひらを動かして自分の額の丸みと収まりの良い位置を見つけると、目を閉じて鼻からひとつ息を漏らした。
その様子を息を呑んで見守っていれば、やがてゆっくりと瞼が持ち上がり、今一度こちらに向けられる二つの瞳。見下ろす先にある瞳孔が分からないくらい深い色に誘われて、胸の奥底から不穏な感情たちが混ざり合いながら込み上げてくる気配がする。
よく知るそれをよりにもよって尾形さんへと感じている自分に戸惑う中、当の尾形さんはこちらを見上げたままほんの僅かに私の手首を握る手に力を込めて、一方向に押した。その力と注がれる視線に促された気がして、導かれた先、先程と同じく額から頭頂部にかけての曲線をそっと撫で上げる。
そうして同じ動きを三度程繰り返したところで、尾形さんはもう一度満足気に鼻息を漏らすと、肩から先の力を抜いて瞼を閉じた。
見下ろす眉間や目尻、口角が心なしか柔らかさを帯び、どこか近寄りがたい顔立ちの中に僅かに幼さが浮かぶ。
その表情を目の当たりにした瞬間、渦巻いていた感情の中からすぽんとひとつ確かなものが飛び出して、雷に打たれたような衝撃が走った。
お、尾形さんが、かわいい……!?
いやまさか。そんなまさか。なんだこれ。
いつものなんだか微笑ましいなんてもんじゃない。かわいい。明確にかわいい。猫ちゃん。え、これ本当に現実?
いやいや落ち着け私、冷静になるんだ。
相手はあの尾形さんだぞ。強くてムキムキで気分屋で、おまけに髭まで生えてる尾形さんだぞ。カッコいいはとにかくかわいいわけが……いや、そういえば猫ちゃんも髭生えてた。気まぐれだし、強くて全身筋肉だ。あれこれもう尾形さん実質猫ちゃんなのでは?あーだめだこれ多分頭回ってないや。だいたい杉元さんだって強くてムキムキでカッコいいけどかわいいもんな。尾形さんがかわいくたって不思議じゃないか。
しなやかな髪を撫でる度、自分の中にある柔らかいものに触れたいとか無責任に何かを愛でたいとかいった欲が和らいでくのを感じる。最近はちょくちょくリュウに補充させてもらってはいたものの、人と猟犬の良好な関係を保つためには好き放題可愛がる訳にはいかず、やっぱりちょっと物足りなさが残ってしまっていた。
夕張での偶然の出逢いに味をしめてからは行く先々常に心の隅っこでwin-winな取引ができる猫ちゃんと出くわすことを期待していたが、まさかこんな形の解決手段もあったとは思わなんだ。
かわいい。尾形さんはかわいい。大切なのは信じる心。いいね?私。
結局どうして尾形さんがこの状況をご所望だったのか本人の口から語られることはなさそうだけど、「俺は頑張った」と言った彼に、ふと夏の湿原でアシㇼパさんが白石さんに言っていた言葉を思い出して勝手に嬉しくなってしまった。ただの偶然かもしれないがもしあの時の話を尾形さんが憶えていたのだとしたら、ひょっとしたらこれも彼なりに自己表現してみた結果なのかもしれない。そう思うと額と髪を触れる手に一層気持ちがこもった。年齢なんて関係ない。頑張ることもそれを続けることも、いつだって大変なんだから。
尾形さんの新しい一面を見ることができて、尾形さんに新しい一面を見せてもらえて、胸の中までぽかぽか温かい。緩みっぱなしの頬をほったらかしにしたまま片手で同じ動きを繰り返しながら、空いているもう片方の手を背後に回して、ちょっと前から私の臀部を這っていた大きな手を剥がした。それとこれとは話が別だ。猫ちゃんは意図してお尻を触らない。執拗に撫で回さない。
「チッ」
チッじゃない。猫ちゃんは舌打ちしない。
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