「あ」
「ん?」
あれから尾形さんは存外あっさり部屋を出て行き、以降ランタンの回収や入浴以外の時間を極力部屋でのんびりと過ごした翌朝。相変わらずものすごい回復力の杉元さんとそれに次ぐ谷垣さんの問題ないという自己申告により、予定通り私たちは旅館を立つことになった。
アシㇼパさんたちよりも一足先に準備を終えて外へ向かう最中、長靴を履くため式台に降りたところで聞こえた声に振り返ると、片脇に荷物を抱えた男性と目が合った。長めの髪を後ろで纏め、洋装の上に屋号らしき文字の入った印半纏に袖を通したその姿に見覚えはない。凛々しい眉と髭が飾る精悍な顔つきは、小さく口を開けたままこちらを見つめる毒気のない表情によって、薄れつつある少年の面影を覗かせていた。歳は私と同じくらいだろうか。もしかしたら少しだけ私の方が長生きかもしれない。
ざっと観察を終えてもなお動かない彼に首を傾げれば、何やらひらめいた様子でビシッとこちらを指差した。
「わかった、お前がなまえだろ!」
「あ、はい」
「やっぱりな。土方さんたちの話に出てきたやつが1人足りねえなって思ってたんだよ」
どうやら土方さん方の同行者の一人らしい。荷物を運び出す最中だった様子の彼はその場で荷物を抱え直すと、私のそばまで近付いてきた。
「俺は夏太郎ってんだ。土方さんの漢気に惚れ込んでここまで付いて来たんだぜ」
「夏太郎さん。既にご存知とのことですが、アシㇼパさん方に同行させていただいているなまえと申します。よろしくお願いいたします」
「は〜、本当に家永さんが言ってた通りかたっ苦しい奴だなあ。あんま気にすんなよ、俺もそういうの慣れてねぇからさ」
「はあ…」
初対面だというのに随分と気さくで親しみを感じられる態度にイマイチ距離感をつかみかねていたら、客室へと続く廊下から見知った姿が現れてこちらへ微笑みかけてくれた。
「おはようございます、なまえさん」
「家永さん!おはようございます、ご無沙汰いたしておりました」
そこにいたのは相変わらず年齢不詳の頂点に君臨する家永さんだった。「家永さん、俺が運びますから置いといてくださいよ!」との夏太郎さんの言葉に家永さんへと近付いて、「お持ちします」と胸に抱えていた小ぶりな荷物を受け取る。
「杉元さんたちの怪我を治療してくださったのはやはり家永さんだったのですね」
「若い方は回復が早くて本当に羨ましい限りです。なまえさんはお変わりないようですが、何かあればいつでもお声かけくださいね。勿論怪我以外の身体の不調でも結構ですよ」
「はい、ありがとうございます」
実際にお世話になるかはその時考えるとして、ちょっとだけソワソワする私への気遣いの言葉にお礼を伝えていたらふと思いつく。そういえば、家永さんは私の性別を白石さんたちが知ったことはもうご存じなんだろうか。
ついでに確認してしまおうと続けて口を開いたところで、突如ずしんと肩が重くなる。重力に従い背中を丸めながら顔を上げると右肩には半纏から生えた腕が置かれており、逆方向へと首を捻ればこちらを覗き込む夏太郎さんの慌てたような顔が随分と近くにあった。
「何だお前身体弱いのか!まあ確かに背丈はそれなりにあるくせにヒョロヒョロだけど、今からでも十分挽回できるから気にすんな!
いいか、困ったことがあったら家永さんじゃなくてまずは俺に言え。お前気まで弱そうだけど遠慮すんなよ、何とかしてやるからさ」
「…え?」
「あら、夏太郎くん優しいこと」
「はい!なので家永さんはこいつのことはお構いなく!」
話に付いていけない私を差し置いて家永さんへと元気に返した夏太郎さんに、同時に組まれた肩を前触れなく後ろに引かれて少しよろける。そんな私を支えながら耳元で「絶対に家永さんと二人きりになるなよ」と囁く声に、ようやく意図を理解した。どうやら彼も家永さんの飽くなき向上心の礎に選ばれかけた経験があるらしい。でもそれなら、初対面の私の事なんて身代りに差し出した方が得だろうに。
「えっと…はい、ありがとうございます夏太郎さん」
実際にお世話になるかはその時考えるとして、まずは表向き私へ向けられている気遣いに対してお礼を伝えれば、夏太郎さんは一度見開いた目をすぐに眩しそうに細めた。
「へへっ、気にすんなって。若い奴の面倒見てやるのは当然だからな!」
「…あー……」
そうかそういうことか。得意げに笑う夏太郎さんから何となく視線を家永さんへと泳がせたら、愉しげに薄い笑みを返されて終わった。
つまりこの好青年は、私を自分よりも年下の庇護対象であると判断したらしい。この距離感から察するに、きっと性別に関しても何の疑いもなく仲間意識を持たれているに違いない。元々そういう勘違いをしてもらうための格好なのだから結果としては大成功なのだけど、とうとう全員に周知されたと思っていた事実が覆されてしまい若干微妙な気持ちになってしまう。
この先夏太郎さんだけに勘違いしてもらっていたところで生ずるメリットも思いつかないし、今のうちにさらっと訂正しておくべきだろう。善意100%で接してくれているらしい夏太郎さんがなるだけ嫌な思いをさせずに済む伝え方かあ……と考えを巡らせている中、床板の軋む音とともに家永さんの背後からぬっと現れた姿を視認した瞬間素早く背筋を伸ばす。
「よう嬢ちゃん、疲れは取れたかい?」
「おはようございます先生っ!!お陰様で朝から元気ハツラツです!!」
今日もビシッと背広を着こなして最高に輝いていらっしゃる牛山さん改め先生のご挨拶に全力で返せば、「元気があるのはいいことだ」と満足げに頷いていただけて恐悦至極。経緯はわからないが旅館の備品らしき重厚な衝立を軽々と担ぎ上げていらっしゃるお姿は、まさに力こそパワー。
「……嬢ちゃん…?」
「ん…?ああ、そういえば二人が会うのは初めてか。
嬢ちゃん、そいつは夏太郎だ。まだまだ青臭い奴だがこれでなかなか根性はあるぞ。嬢ちゃんさえよければよくしてやってくれ」
「はい先生!」
先生からの頼みとあっては滅多なことでは断るまい。二つ返事で了承し、先生が反対側の廊下の角に消えたのを見届けてからいつの間にか肩から退いていた腕の持ち主へと振り向けば、数歩離れた場所で非常に居心地悪そうに肩を窄めて立っていた。
「…あの、よろしくお願いしますね」
「は、おっ、はい…」
目が合わない。
***
「あーそっか、なまえちゃんまたその恰好かぁ」
「おはようございます白石さん」
旅館の外。昨日の朝ぶりに顔を合わせた白石さんの第一声にいつもと同じ挨拶を返す。こちらを見てやや唇を尖らせている白石さんからは、ほんの少し納得がいっていない様子が伝わってくる。
「もうみんな知ってるんだしさー、男の恰好する必要ないんじゃない?」
「今更着替える必要性もありませんし、動きやすさはこれが一番ですから。それにこれでも大分好きにさせていただきましたよ、晒しを緩めたりとか」
「へぇー」
「白石さんせめてもう少しさりげなくお願いします」
躊躇なく私の胸元に注がれる視線に苦言を呈したら、白石さんの背後から現れたアシㇼパさんが柔らかな微笑みを湛えて白石さんを見上げる。
「忘れるなよシライシ。お前の中でなまえが男から女に変わったところで、お前よりなまえの方が強いことに変わりはないぞ」
「思い出させてくれてありがたいね…」
「なまえもまずはきちんと叱れ。言ってダメならストゥ貸してやる」
「はいアシㇼパさん」
「クーン…」
「なまえ」
「……はい」
アシㇼパさんの背後から近付いていた気配に名前を呼ばれて顔を上げれば、分かっていた通りそこには谷垣さんがいた。昨日の謝罪のチャンスを自分でふいにして以降、何かしら言い訳を作っては先延ばしにしていたツケが回ってきたのだと腹を括って向き合う。
視線を伏せた顔はとても思いつめた表情をしていて、春の始めにフチさんへコタンを出ていくと告げることを決めた時と同じ顔をしている。それだけで谷垣さんが私を詰問するつもりなんてないのだと分かってしまって、いつのまにか強張っていた顔から力が抜けて困り笑いを浮かべてしまう。
「なまえ、すまない……。俺はてっきり男だと思って、その、小樽ではい、色々と面倒を……」
「そんなことお気になさらないでください。私が望んで谷垣さんに勘違いしてもらえるように動いていたんですから」
「厚意に甘えて下の世話までさせてしまって…!!」
「谷垣さん言い方!!」
良心の呵責に苛まれているのであろう、酷く苦しそうに絞り出されたとんでもなく誤解を招く発言を慌てて遮る。谷垣さんの背後、少し離れた場所からこちらを凝視しているインカㇻマッさんと杉元さんの視線がグサグサと突き刺さる中、急ぎ言葉を補う。
「私がしたことなんてせいぜい排生ぶ、いや出したも、あ゛ーもうっ!怪我人の最低限の衛生の確保だけですよね?ね?ねッ!?」
「そ、それはそうだが…」
「だがもなにもそれだけです!」
当時布団から一歩も動けないくらい憔悴していた頃の谷垣さんのそういった介助は、フチさんやマカナックルさんが率先して行ってくれていた。私は気にしないと伝えていたけど結局ちょっとした後片付けを頼まれるくらいだったから、谷垣さんのデリケートゾーンには誓って一度も触れたことはない。
納得しきれていない様子の谷垣さんからこっそりと視線を外し、インカㇻマッさんがほっと胸を撫で下ろしているのを確認してこちらも安堵する。隣の杉元さんはまだもの言いたげな目つきでこちらを見ているけど、今は気にしないことにしよう。杉元さん、普段は大らかなのにそういった方面の発言には私にだけちょっと厳しい気がする。昨日もアシㇼパさんと話している時に「チンポ先生」と先生をお呼びしたら軽く窘められてしまった。成人女性の発言として相応しくないことは確かだけども。
とにかくまた新たな誤解が生まれる前にと、谷垣さんの顔を覗き込んで言葉をかける。
「谷垣さん。改めて、ここまで正体を偽り続けてしまい申し訳ありませんでした。まだ谷垣さんについて知らなかった頃に面倒事を避けたくて始めたことでしたが、谷垣さんがコタンの子供たちと同じように私を扱ってくださることが心地良くて、結局誤解を解こうと思うこともなくここまできてしまいました。
……ここまで好き勝手にしておきながら重ねてわがままを言いますが、できればこれからも今までと変わらず接していただけないでしょうか?」
「む…だが……」
「もちろん、谷垣さんが今回の件で不快な思いをされていなければの話です」
「そんなこと思うはずないだろう」
「なら、ぜひ。昨日も今日も、私は一昨日までと同じなまえです」
「……本当にいいのか?」
「私がそうしてほしいんです」
アシㇼパさんの言葉を少々お借りしつつも嘘偽りない気持ちを伝えた私に、谷垣さんは少しだけ困った顔を続けた後、やがて眉の位置はそのままにふっといつもの優しい顔を見せてくれた。
そうこうしているうちに土方さん方も旅館から出てきた。まずは近くの駅逓所まで移動するという話を聞きながらふと視線を感じて下を向けば、じっと私を見上げるチカパシがいた。どこを見られているかよく分かる視線が上がりきっていないそのどんぐり眼を見ながら、昨日の風呂場でのインカㇻマッさんの言葉を思い出す。どうも彼女は私のことを過大に評価しているようだけど、確かにチカパシにとってよく知らない大人たちばかりのこの状況で数少ない見知った仲である私が彼を気に掛けなくてどうする。きっとインカㇻマッさんが私に言いたかったのはそういうことなんじゃないだろうか。
そういえばチカパシ、釧路町からここまで私が女だってことをちゃんと内緒にしてくれたんだ。私の胸に異常がなかったことは昨日理解しただろうし、これでこの問題ももうおしまい。お願いを聞いてくれたお礼を言わないとなあ、なんて考えながら笑いかければ、動きを察知してようやく目の合ったチカパシが不思議そうに首を傾げて口を開いた。
「なまえはインカㇻマッより背が高いのに、どうしてオッパイはインカㇻマッより大きくないの?」
「ほんとにね」
「チカパシ、こっちに来なさい!」
「谷垣ニㇱパは背も高いしちんちんも金玉もおっきいよ!」
「ほんとにね」
「なまえやめなさいっ!」
「なまえさんこっち来て!早くッ!!」
チカパシにとってはクワガタも谷垣さんの股間も一緒なのだ。でかければでかいほどカッコイイのだ。
← /
top /
→
home