呼吸と一緒に心臓の鼓動も止めたい6秒間をなんとか耐えきった後、キロランケさんに頭をぐわんぐわん撫で回されている私を労わりつつ「じゃあ次は三人で撮ろっか!」と笑顔で言い放った杉元さんの言葉に喉から変な音が出たところで、私の初めての撮影会は終了となった。少し残念そうにそう提案してくれた杉元さんにはとても申し訳なく思うけど、大丈夫ですからもう一度撮りましょうとはどうしても言えなかった。

それからアシㇼパさんが堂々と一人での撮影を終えたところで、写真館に用事のなくなった人たちのうち数名と一緒に一足先に宿へ戻ることになった。なんでも最後に谷垣さんが田本さんと二人きりで撮影に挑んでいるそうだが、もしかしたら谷垣さんも写真は少し苦手なタイプなのかもしれない。わざわざ田本さんにお願いして二人きりになったのならきっと他の人には見られたくないのだろうから、後でこっそりお疲れ様でしたと伝えよう。



「それじゃあなまえ、頼んだぞ」
「はい、二人ともお気をつけて」
「なまえさんもね」

土方さんたちと一緒に行動していると大抵の必要な物は用意してもらえるけど、だからと言って何でもかんでも頼りきっているわけにはいかない。いつも通り町にいる間に済ませたい作業を分担して先に出発したアシㇼパさんと杉元さんを部屋で見送り、再び自分のサラニㇷ゚へと向き直る。食材や私物で買い足す物を確認したら、私も早く出かけないと。

荷物を畳に広げながら杉元さんにお借りした鉛筆で買い物リストを作っていたら、ふと廊下から床板の軋む音が耳に届いた。とはいえ客室は他にもあるので気にせず作業を続けていたところ、一番端のこの部屋の前で足跡が止まったことに気が付いて顔を向けた戸の硝子越しに見えたのは、紺色の洋袴。間髪入れずに引かれた戸の向こうには、案の定こちらを見下ろす尾形さんがいた。
6つ過ぎる間無言で見つめ合い、それから視線を外した尾形さんがどすどすと部屋を横切って開け放っていた窓から外を見回す。

「なにか?」
「別に」

じゃあいっか。
用心深い尾形さんのことだ、雇い主である土方さんと合流したから万が一の事態に備えて建物の構造や周辺の確認をしているのかもしれない。それか日当たりの良い場所でも探しにきたのかも。今日の日差しなら少しの間の日向ぼっこにはちょうど良いだろうから。

今はアシㇼパさんたちの荷物もないので好きに過ごしてもらえばいいと気にせず作業を再開しようとしたら、片手を添えていたサラニㇷ゚がぐいっと引かれて、今一度顔を上げると目の前にしゃがみ込んだ尾形さんが互いの手により大きく開いたサラニㇷ゚の口から料理本を取り出していた。
唖然としてそれを見る私をちらりと横目で確認しつつも手は止めず、そのまま何を言うでもなく畳に置いていた銃を持ち再び立ち上がって壁際へ移動しどかりと座り込むと、慣れた所作で本を開いた尾形さんの優雅な読書タイムが目の前で始まった。窓の外から聞こえてくる通りの音をBGMに、普段は銃の引き金に添えられている指先によって紙が捲られる様を二度見送る。

「……本、差し上げましょうか?」
「いるかこんな邪魔なもん」
「はい」

よっぽどお気に召したのかと思えばそうでもないらしい。暇潰しの図書室代わりといったところか。
どちらにせよ現状は大変よろしくない。屈斜路湖の宿では疲れからそのまま見なかったことにしてしまったが、さも当然のように私の荷物を漁る尾形さんをこれ以上放置しておくわけにはいかないだろう。今はともかく、予定通りであればあと数日で特に人には見られたくない汚れ物が出始めるのだ。今のうちに勝手に私の荷物を触ったり中身を取り出したりしないでほしいとはっきり伝えておかなければ。

……なんでこんな当たり前の話を大の大人に対して口にしなければならないのか。少しずつ気を許してくれるようになったことは本当に嬉しく思っているけど、結局尾形さんにとって私は一緒に行動するようになった頃から変わらず、顎で使ってもいい格下の存在らしい。
何故こんなことになったのかと己に問えば、調子に乗せてしまうだけの心当たりはまあまああった。だって嬉しかったんだもの。自業自得である。


「尾形さん」

だったら今こそ歪みを正さねばと意気込んで、身体の向きを変えて姿勢を正し改まった声音で呼び掛ければ、紙を摘んでいた指がぴたりと止まった。指図されたことが気に入らないとかなんとか言われて物理的に痛い目を見るのはごめんなので、距離は縮めない。

「あの、前から言おうと思っていたんですが私の荷物の──」

本題を口にし始めてすぐ、言葉が途切れた。ゆったりと持ち上がった黒い瞳に射抜かれたからだ。
不愉快だと睨みつけるわけでも、私の言い分を小ばかにしようとするでもなく、じっとこちらを窺う様は普段目にする真顔とはまた少しだけ違って見えた。よそった食事を渡す時や頼まれた繕い物をしている時、それからちょっとした会話の合間。そんなふとした瞬間に最近よく見るようになった気がする底の見えない昏い瞳が一瞬僅かに揺れたように思えたのは、私が瞬きをしたからだろうか。

表情の抜け落ちた顔に付いている口が開かれることはなく、私を視界に捉えたまま動かない彼が何を考えているのかはやっぱり分からない。──分からないけど。その姿を見ているうちに奥底から込み上げてきた気持ちが、私の胸をじわじわと締め付けてくる。
良い気分とは決して言えないそれはずっと前から知っている感情のはずなのに、名前や適切な表現の仕方がどうしても思い出せない。
でもこの気持ちを無視して彼に向けて放とうとしている言葉を発してしまったら最後、私はこの時をずっと後悔し続けるような気がしてならないのだ。



──どのくらいの間そのまま見つめ合っていたのか。なにをきっかけにするでもなく肺を膨らませていた空気を勢いよく鼻から漏らした私に、尾形さんの眉がピクリと動いた。それを横目に見ながら手にしていたサラニㇷ゚の中を探って奥の奥から厚い布の包みを取り出し、尾形さんとの間に置いて注目させようとそちら側へほんの少し押しやれば、二つの黒い丸が私の指先を追う。

「──この包みの中には、洗い物やすぐには処分できない汚れ物を入れるようにしています。今のうちは本を取り出すためにサラニㇷ゚を開けるだけなら問題ありませんが、この包みだけは絶対に触らないでください」

若干オブラートに包んだ表現になってしまったが、伝えたい内容に間違いはないのでご容赦願おう。「触ったらすぐに分かりますからね。そうなったらもう本はお貸ししませんからね」とハッタリを混ぜ込んでもう一押しする私を眺め続ける尾形さんから反応を返されることは終ぞなく、やがてふいと斜め下を向きながら前髪を撫で上げると、再び手の中の本へと視線を落としてしまった。その様を唇を尖らせて眺める。

了承の返事が貰えたわけではないし、結局またその場凌ぎの対応でしかない気はするけど、まあ、今はこれで良しとしよう。尾形さんは嫌味が達者な上に格下と判断した相手を粗雑に扱うことはままあれど、己に得もないのにわざわざ労力を割いてまで誰かへ嫌がらせをするような人ではないはず。そう思った瞬間先日の楽しそうなすっぽんぽんの尾形さんが脳内で再生されかけたが即刻中止して、まずは様子を見てみようとやや強引に結論付けた。

さあ、そうと決めたら後は有言実行あるのみだ。何かあったら本当にもうサラニㇷ゚には触らせないんだからな、と意志を込めてもう一度尾形さんをじとりと睨め付けてみたものの、文字を追いかける尾形さんと目が合うことはなかった。

「邪魔だからその包みさっさとしまえ」
「…はい」
「外がやかましい。窓閉めろ」
「はい」
「あと膝」
「は…ん?」
「膝。寝る」
「…………これから買い出しに出かけるので…」
「荷物広げてるんだからまだいるんだろ。早くしろ」
「……」

あまりの傍若無人な物言いに立ち上がりかけたまま二の句が告げずにいる私を、ちらりと見上げる両目。さっきと同じその目にまたしても別の意味で何も言えなくなってしまって、むずむずと蠢かせていた唇から力を抜いて、小さくため息をついた。
大丈夫。多分。


/ top /
home