コタンの外で福寿草を見かけるようになったころ、アシㇼパさんたちが帰ってきた。
水汲みから戻る途中でその報せを聞いて足早にチセに戻ると、チセの中は大所帯になっていた。その中でいつもの場所に座るフチに寄り添う小さな背中を見つけて心が弾む。
「アシㇼパさん、おかえりなさい!」
「ああ。なまえ、元気だったか?ちゃんとフチのご飯を食べてたか?」
どちらが年上か分からないようなアシㇼパさんの言葉に元気に返事をしていると、横から慣れない視線を感じて顔を向ける。そこで過去に一度だけ見た、記憶に残る顔が微笑んでいた。
「……えっと…キロランケさん、でしたっけ?」
「ああ。そっちは確か、なまえだったか?久しぶりだな」
「…知り合いか?」
キロランケさんの挨拶に軽く会釈を返す私に、杉元さんから声がかかる。こんなに温かみのない声色の人だったろうかと少し違和感を覚えたけど、ひとまず頷き肯定する。
「前に一度、アシㇼパさんを訪ねていらした時にお会いしたんです。でもあの時はちょうどアシㇼパさんは山に入っていたから、そのまま帰られましたよね」
「ああ。…それにしてもなまえ、お前あの頃からすっかり見違えたな。随分逞しくなった」
「あはは…」
自分の状態が特殊すぎて皮肉なのか本心なのか分からないキロランケさんの言葉を、曖昧に笑って誤魔化した。
それから全員で炉を囲み、アシㇼパさんたちのこれまでの経緯に耳を傾ける。
キロランケさんとは海からの帰路で会ったそうだ。キロランケさんは既に網走監獄の件を知っていて、以前キロランケさんのコタンに現れた和人の老人がアシㇼパさんを探していたこと、その老人がアシㇼパさんを、アシㇼパさんのご両親とお父上の旧友であるキロランケさんしか知らないはずの和名で読んでいたことから、網走監獄に捕らえられているのっぺらぼうの正体がアシㇼパさんのお父上であると導き出していた。そしてその話を聞いたアシㇼパさんたちはのっぺらぼうの正体を確かめるため、網走に向かうことを決めていた。
四人の話を聞いていた谷垣さんが、囲炉裏の灰に北海道の地図を描く。人の顔程の大きさに描かれたこの島が実際には驚くほど広大な大地であることは、この五年小樽の周辺で生活していただけの私でもなんとなく理解していた。そんな北海道の端から端までを横断する今度の旅は、途方もない道のりに思えた。
「フチが今日はもう遅いから泊まって行けと言っている。出発は明日の朝にしよう」
アシㇼパさんの一声で各々が動き出す中、私は谷垣さんの描いた地図をもう一度眺める。
やっぱりアシㇼパさんは強いなあ。
今までお父上の敵だと信じていたのっぺらぼうの正体がそのお父上自身だと突然告げられた少女は、自分の目で真実を確かめに行くことを決めた。
キロランケさんのコタンに現れた老人の目的は、まず間違いなく金塊に関するものだろう。だとすればアシㇼパさんの意思とは関係なく、今後その老人以外にも金塊を狙う人々がアシㇼパさんに近づこうとしてくる可能性は十分にある。それならばこのコタンに留まるよりも、網走に向かうことが一つの決着をつける最適解になるのかもしれない。
──それでも。
「なまえ、土産があるからお前の弓を出せ」
「はーい」
どうしてこの子がこんな重いものを背負わないといけないんだろう。
何も知らない部外者のくせに、そんな考えが頭から離れなかった。
その日の夜、チセでは皆が思い思いに寝ていた。勿論布団は足りず、フチさん、アシㇼパさんとこちらのチセに泊まることになったオソマ、谷垣さん以外は雑魚寝だ。
男性陣はさっさと寝ることにしたようで、静かな寝息や誰かの鼾が聞こえてくる。
私はアシㇼパさんとオソマの希望で二人が寝る布団の隣を寝床にもらって、マカナックルさんがお元気だったことや、旅の思い出を聞かせてもらっていた。布団に潜って小声で話すお喋りの楽しさは、いつの時代も変わらない。
「海ではニシンと白米を食べた。ヒンナだった」
「白飯!いいなあ…!!」
「それからレプンカムイを獲って、竜田揚げにして食べた」
「レプンカムイ…お土産の背筋の持ち主ですよね」
「そうだ。外がパリパリで中がほくほくだった。ニシンの卵が沢山ついた昆布も揚げて食べたな。また食べたい」
「なにそれすっごくおいしそぉ…」
「あと、白石を食べたイワンオンネチェプカムイを食べた。脂が乗っていてとてもヒンナだった」
「食べ…?なんで白石さん生きてるんですか?」
「人魚だったからだ」
「そっかぁ」
最後は羨ましがるタイミングを逃してしまったけど、アシㇼパさんのグルメレポートに夕飯を食べた筈のお腹がどんどん減っていく。初めて食べたこちらの白飯の美味しさを思い出している間に、アシㇼパさんはいつのまにか眠ってしまったオソマへ布団を掛け直す。
「谷垣もかなり元気になったな。あれならもうすぐ力仕事もできるようになるだろう」
「はい。進んでいろんな仕事を手伝ってくださって、コタンの人たち──特に子どもたちからすっかり気に入られたみたいです」
「谷垣ニㇱパ!」と名前を呼びながら足元に集まる子ども達の姿を思い出していると、火皿の灯火に照らされたアシㇼパさんの口角が上がる。
「なまえも気に入ったみたいだな」
「……そう、ですね。フチさんにもオソマにも……私にも。とても親切にしてくれます」
そう伝えれば、アシㇼパさんは得意げに鼻を鳴らした。結局アシㇼパさんの予想通りの結末になってしまった気がしてなんだかちょっと居心地が悪い。でもその顔を見ていたら、あの日谷垣さんに言われた言葉を思い出した。
"お前も、自分が本当にやりたいことを言ってみたらどうだ?"
「──アシㇼパさん」
「ん。なんだ?」
声を出そうとして、一瞬言葉に詰まる。
それでも、覚悟は決まっていた。
「──今度の旅、私も連れて行ってくれませんか?」
「……」
「…んがっ」
むにゃむにゃと背後から白石さんの寝言が聞こえる。何を言っているかは分からないけど、どこか満足気なので悪い夢ではなさそうだ。
私の言葉にアシㇼパさんはその綺麗な瞳を見開いて、それからゆっくりと口を開く。
「……なまえも金塊に興味があるのか?」
「うーん、そこは正直言ってあんまり……」
そりゃ銭はあるに越したことはないものかもしれないけど、もともと金塊はアイヌの人たちのものだったわけだし、私も一攫千金を狙う質ではない。それに、今の私にはアシㇼパさんに教えてもらった生き方がある。
なら、なぜだ。
言葉にしなくても伝わってくるアシㇼパさんの気持ちを乗せた視線に射抜かれながら、天井を仰ぎ見る。
「えっと……アシㇼパさんに恩返ししたいのと、どこかで私を知ってる人に会えるかなもしれないのと、私もアシㇼパさんと珍しいもの食べてみたいのと……うーん、理由は沢山あるから、アシㇼパさんが一番納得できそうなものを選んでください。全部本当です。
……でも一番は、私がアシㇼパさんのそばにいたいだけです」
子供の我儘みたいな本音に自分で呆れつつも、口にすればふっと心が軽くなった。
「勿論恩返しになればそれが一番ですけど、アシㇼパさんは強いし、杉元さんもキロランケさんもいて、私なんかお呼びじゃないことは分かってます。
……だからこれは、アシㇼパさんのそばにいたいっていう、ただの私の我儘です。迷惑にならないように頑張りますから、どうかお供させてください」
近くにいれば、私でもアシㇼパさんの盾くらいにはなれるかもしれないし。その理由だけは絶対に隠し通すと決めて、アシㇼパさんにお願いする。
「…ふん」
「えぇ…?」
結果、鼻息一つで寝返りを打って背中を向けられてしまった。
えっどうしよう。これは断られたと判断すればいいのか。
「何がそばにいたいだ……先に離れて行ったのはお前じゃないか」
呟くように聞こえてきた言葉に、息を呑んだ。
全くもってその通りだった。
ここに来てからの五年間、とにかく一人で生きていけるようになることばかり考えていた。日に日に愛しくなるこの小さな背中がかけがえのないものになるのが怖くて、この子は一人じゃないから大丈夫だなんて勝手に決めつけて自分勝手に離れていったのは私だった。
それが突然ここに現れた私が、いつ同じように消えるかも分からない私がするべきことだと思っていたから。
「…本当ですね。会いたい時に戻ってきて、アシㇼパさんに甘えたい放題でした」
そして今、結局私はまた身勝手にアシㇼパさんに縋り付いているわけで、心底自分に嫌気が差す。
それでも、もうアシㇼパさんを私自身が選ばなかった言い訳にはしたくなかった。
「…なまえは本当にそれでいいのか?全てが終わったところで、お前には何も残らないんだぞ」
「アシㇼパさんが元気にこのコタンに帰れたら、私にはそれで十分です。
……アシㇼパさん。私が初めてここに来た時の事、憶えてますか?」
「……ああ。アチャが死んで最初の冬だった」
感触も音も匂いも、今でも鮮明に思い出せる。何もかもを失った私に、最初に与えてくれたのはアシㇼパさんだった。
「アシㇼパさんが私を見つけてくれたから。生きる意志をくれたから。山での生き方を教えてくれたから。私は今、ここに生きています。
──私、アシㇼパさんが思っている以上にアシㇼパさんのことが大好きなんです」
自然と緩んでしまった表情は気にすることなくそう伝えれば、アシリパさんは再びこちらに寝返りを打った。相変わらず不機嫌そうな大きな瞳が私を捉えて、それからふいと逸らされた。
「……知ってる」
「ヒンッ…!」
「…杉元静かにしてろ」
なんだか後ろがやかましいけど、今は無視する。杉元さんと谷垣さんいつから聞いてたんだろう。
ひそひそ聞こえてくる声に若干決まりが悪い思いをしている間に、アシㇼパさんがもう一度私を見た。
「言っておくが、今私は杉元と組んでるんだ。杉元の同意がないと連れて行かないからな」
「…はい。明日お願いしてみます」
「何かあったらまずは自分の身を守れ」
「はい」
「…それから」
アシㇼパさんに顔を近づけるように動作で指示されて、毛皮を被ったままずりずりと布団に近づいた。いつだかオソマと内緒話をした時のように、そっと耳をアシㇼパさんの口元に近づける。
「約束しろ、なまえ。もし着いてくるなら、殺す必要のない人間は殺すな」
今度こそ私にしか聞こえないように、吐息だけで伝えられた言葉。
まだアシㇼパさんに付いて山に入っていた頃、ここに来てから初めて人を殺したことがあった。
それは私としては必要なことで、アシㇼパさんには気付かれることなく事を成せたと思い込んでいたけど、とんだ思い違いだったらしい。
あれから今日までアシㇼパさんに無理矢理秘密を共有させてしまっていたことへの罪悪感が、墨の滲みのように胸に広がっていく。
……でも。それでも。
「…はい。もし約束を破りそうだったら、教えてくださいね」
「…ああ」
後悔はしていない。あの時も今も、何をしてでも私はこの子を守りたかった。
話が終わり、今度こそ眠るために布団に潜り込んだアシㇼパさんを確認して、私も元の位置に戻って毛皮に包まり直す。
さて、どうやって杉元さんに納得してもらおうかな。
明日のことを考えながら目を閉じた。
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