私が一人で長くコタンを離れるようになる前のこと。フチさんたちの説得に成功し山にまでついてくるようになった私に、アシㇼパさんはコタンの外で必要な知識や技術を惜しみなく与えてくれた。
男女それぞれの役割を明確に分けるアイヌの人たちの生活において、女の身で狩りへと赴くアシㇼパさんは稀有な存在で。そんな彼女を今に導いたのは、アシㇼパさんのお父上──ウイルクさんだった。
アシㇼパさんはウイルクさんに教わった山や森で生き抜くための術を私に教えてくれる中で、時々ウイルクさんとの思い出を話してくれた。
仮小屋で過ごす夜には輝く星からアイヌの狩猟の知恵を学んだこと。ウイルクさんの機転によって毛皮泥棒を捕まえたこと。突然アシㇼパさん一人でヒグマを狩ることになった時のこと。物心つく前に亡くなられたお母上について、何度も何度も話をしてもらったこと。
アシㇼパさんからお父上の話を聞く度に、一度も会ったことがない私の中にもウイルクさんの輪郭が朧げに縁取られていった。あらゆる分野の知識が豊富で、賢明な対応力を兼ね備えている。常に理知的な人であるが故に、時として私には到底理解しきれない合理的な手段を取る。
でも何よりも強く感じたものは、アシㇼパさんへ注がれた深い深い愛情だった。それは優しさだけでなく時に厳しさとしてアシㇼパさんに向けられることもあったようだけど、それをアシㇼパさんがどう受け止めたのかはウイルクさんの話をするアシㇼパさんの声や表情からすぐに分かることだった。
だから。
“杉元、なまえ…私は…怖い。アイヌを殺して金塊を奪ったのっぺら坊が私の父だったらどうしよう…。”
眼下に広がる高い塀に囲まれた敷地の中をじっと見つめる少女の隣で、先程の彼女の呟きを思い出す。直前まで北海道の秋の実りについて生き生きと語っていた瞳と声には、言葉の通り不安や恐れがじんわりと滲んでいて。そんな姿を見て思い浮かんだ台詞を口に出せずにいる私の前で、薄く小さな肩に逞しい大きな手が置かれる。
「アシㇼパさん。ここまで来たらもう会うしかない」
芯を持ってきっぱりと言い切られた言葉は、いつもと違う形で私の胸の内に入り込む。
「何があっても最後まで俺がついてるから」
私も──最後まで。
続きたがった心は即座に働いた理性によって声になることはなく。見えない壁に隔たれた先にある二人の姿から目を逸らして、薄く開いた口を閉じた。
***
「アシㇼパ!なまえ!」
山での偵察を終えてコタンに戻ると、高く弾む声に名前を呼ばれた。音を辿ればコタンの子供たちが少し離れた先にある広場に集まっていて、手にした棒や輪を笑顔でこちらへ振って見せている。
「ウコ・カリㇷ゚・チュイするから一緒に遊ぼう!」
「アシㇼパ小樽では遊び方が少し違うって言ってたでしょ?教えて!」
フチさんの十三番目の妹さんを頼って昨日からお世話になることになった網走監獄近くのコタン。今朝方出発前に少し話をしただけなのに、アシㇼパさんはここでももうすっかりみんなから一目置かれる存在となったらしい。
普段見慣れない集団に興味津々とはいえ、屈強な男性がこれだけ揃えば好奇心旺盛な子供達でも多少圧倒されるものがあったようで、彼ら彼女らが最初に関わりを持ちたがったのはアシㇼパさんとチカパシに対してだった。
「なまえも一緒に遊んでもいいよ!」
「遊び方わからないなら教えてあげる!」
ちなみに私も見た目の奇妙さからおまけで話の輪に加えてもらった。子供たちにとって遊び相手は多いに越したことはないのである。
「遠方から歳の近い客人が来ることなんて滅多にないでしょうから、アシㇼパさんに構ってもらいたくて仕方ないんでしょうね」
「二人さえ良ければ少し付き合ってあげたら?土方のじいさんたちまだ川から帰ってきてないみたいだし、俺ここで見てるからさ」
「…わかった」
元々しっかり者で面倒見も良いアシㇼパさん。小樽のコタンでも子供たちにねだられては遊びに付き合ってあげていたし、年相応に弾む表情からは決して嫌々付き合っているわけではないことが伝わってきた。杉元さんの一言で断る理由のなくなった顔が小さく頷いたのを確認してから私も彼へ笑みを返すと、先に歩き始めた背中に続く。
──今だ。ずっと見計らっていたタイミングが訪れたことを理解して、杉元さんと広場の間で歩みを止めて名前を呼ぶ。
「アシㇼパさん少々お待ちを。髪に何かついてます」
「ん?」
私の声に振り返った彼女を見ながら、自分の左耳の辺りを指さす。
「この辺りに……枯草かな?さっき藪の中を歩いたときについたんでしょうかね」
「ここか?」
「もうちょっと右です。や、もう少し…ちょっと失礼しますね」
形だけの断りを入れてアシㇼパさんへとさらに近付き、前屈みになって実際には何一つついていない黒髪から何かを探す素振りをしながら、杉元さんの視線からアシㇼパさんの顔を遮ってぐっと顔を耳元へと近付ける。
「うーん、絡まってるなあ…」
「おい、なまえなんかちか」
「このままなんともないフリをして聞いてください」
声を顰めて早口に言い切れば、顔を引こうとしていたアシㇼパさんがぴたりと固まった。時間はない。もたもたしていれば不思議に思った杉元さんはきっとすぐそばに来てくれるだろう。覗き込んだ青に私の影がかかる。
今から私が言うことはただの自己満足でしかなくて、アシㇼパさんが本当にかけてほしい言葉なんかじゃない。そんなことは分かってるし、アシㇼパさんの返事だって予想はついてる。
でも、どうしても伝えておきたかった。
「もしもアシㇼパさんが本当に心の底からのっぺら坊には会いたくないと思っていて、考えても考えてもやっぱり何もかも投げ出したって小樽に帰りたいと願うのなら、いつでも私に教えてください」
“ここまで来たらもう会うしかない。”
杉元さんが口にした言葉に、私はその場で同意を示すことができなかった。だって、アシㇼパさんは怖いと言った。大男にだってヒグマにだって怯むことなく立ち向かう、いつだって勇敢なあのアシㇼパさんが。
金塊のために仲間のアイヌたちを惨殺し囚人たちの命を利用したのっぺら坊が本当にウイルクさんだったとしたら、誰よりも深く傷付くことになるのはアシㇼパさんだ。お父上がご存命だった事実だけを手放しに喜ぶような彼女じゃない。約束通り杉元さんがそばにいてくれたとしても、もし私がまだそこにいられたとしても、その苦しみを肩代わりすることはできない。話を聞いたり一緒に考えたり、支えることはできる。でも自分の心をどう扱っていくのかは、アシㇼパさん自身が決めないといけない。
とはいえ杉元さんの言葉を真っ向から否定することもできなかった。いつか誰かが金塊を見つけた時、のっぺら坊は用済みとなって処刑される。
もしのっぺら坊がウイルクさんなら。仮にここでのっぺら坊の正体を確かめることなく小樽へ戻ったアシㇼパさんがある日疑いようのない事実としてそれを知ることがあったとしたら、アシㇼパさんは今ウイルクさんに会わなかったことをきっととても後悔すると思う。
アシㇼパさんの人生はアシㇼパさんのものだ。のっぺら坊に会うことがこれからのアシㇼパさんの人生にとって本当に正しい選択だったかなんて、今はまだ誰にも分からない。
だからアシㇼパさんの中に迷いが生まれたのであれば、限られた時間を使って自分の気持ちを今一度確かめてみてほしかった。
どれだけ辛く苦しい事実でも受け入れる強さは、とても尊いものだと思う。でももしその強さを今ここで持つことができなかったとしても、アシㇼパさんの人生はこれからもちゃんと続いていく。最初に目指していた理想を諦めることになったとしても、道は他にいくつもある。その中からアシㇼパさんがその時一番進みたいと思った道を選べばいい。
アシㇼパさんは強い。でもその強さがアシㇼパさんを縛り付けるなら、いつも強くいる必要なんてない。どんな結果になったとしても、アシㇼパさんが私やフチさんにとってかけがえのない存在であることに変わりはないのだ。
先のことを何一つ約束できない私にそんなことを言う資格なんてない。それも分かってる。私の余計な一言で、せっかく杉元さんに励まされたアシㇼパさんの気持ちをまた揺るがすことになるかもしれない。
でもあの時私の名前を呼んで不安を打ち明けてくれたアシㇼパさんに何もせずにいるなんて、どうしてもできなかった。
こんな状態の私にできることなんて高が知れているけど、今この瞬間アシㇼパさんのために動くことはできる。
アシㇼパさんが心から帰りたいと望めば、杉元さんはきっと理解してくれるはず。お金は私が貯めていたものを渡して、足りない分をどうするかは三人で話し合おう。結末を見届けたいと願うキロランケさんを説得できるかはわからないけど、まずはこちらの言い分を聞いてくれると思う。
白石さんや土方さんたちは……いい顔はしないだろう。だけど彼らが求めているのは金塊であってアシㇼパさんじゃない。のっぺら坊が土方さんに出した指示だってもとはアシㇼパさんへの接触で、彼女を網走に連れてくることではなかったはず。良好な関係を保っていたいアシㇼパさんが強く拒んでいると伝われば、少しは考えてくれるかもしれない。
アシㇼパさんがどんな選択をしても、私にできる限りのことをしたい。確かな気持ちを胸に空と海の色を見据えて、続きを吐き出した。
「頼りないかもしれないけど…そうしたら私、できる限りのことをしてアシㇼパさんがのぞうゥ゛ン」
「…言っただろ、なまえは私に甘すぎる」
全てを言い切るより先に、伸びてきた二つの手に両頬を挟まれ顔をやや後ろに押しやられた。唇を突き出したまま固まる私に向かってアシㇼパさんは困ったように微笑むと、長いまつ毛をすっと伏せる。
「杉元の言う通りだ。これはもう私だけの問題じゃない。ここで諦めたらこれだけの協力はもう手に入らないだろうし、確かめずに逃げ戻ればきっとずっと後悔することになる。怖いのは本当だけど、一人じゃない。背中を押してそばにいてくれる人がいる。
…それに私は、やっぱり本当のことが知りたい。例えどんなに辛い結果だったとしても…目を背けずに全て受け入れて、前に進んでいきたいんだ」
再び私に向けられた青には、変わらず不安の陰りがある。それでも光を湛えたまっすぐな瞳に射抜かれて、ふっと自分の顔の緊張が緩むのがわかった。
言われると思った。でも、それでもどうしてもアシㇼパさんに伝えたかったのだ。
「……すみません。余計なお世話でした」
「仕方ないさ、なまえは私のことが大好きだからな」
「…はい、そうなんです」
自信満々に言い切ったアシㇼパさんの言葉に何だか嬉しくなって、互いに小さく笑い合った。
「アシㇼパー?なまえー?」
アシㇼパさんの向こうから子供たちの催促の声がする。時間をかけすぎてしまったらしい。「ほら、いくぞ」とこちらに背を向けたアシㇼパさんに返事をして、歩きながら隣を見下ろす。
“何があっても最後まで俺がついてるから。”
頭の中で繰り返される、杉元さんの声。何の迷いもなくその言葉を投げかけることができる杉元さんが羨ましかった。私も言いたい。でも無責任すぎる。私にその言葉は大きすぎる。
「…アシㇼパさん」
「ん?」
今度は歩みを止めずにこちらを見上げる。その顔に向けて小さく口を開ける。
「…私も、何があってもずっとアシㇼパさんの味方です」
「……うん」
少しだけ細められた目にぎゅっと締め付けらる胸。湧き上がる罪悪感。
ああ、やっぱりこれも彼女が望む言葉じゃなかった。
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