日本最北端にある罪人の極所、網走監獄。敷地内や周辺の山に配置された数多の監視の目についてかき集められた情報から脱獄王白石さんが導き出したのは、網走川に面した南側からの潜入だった。鮭漁のための仮小屋で隠した入口から地下にトンネルを掘り敷地内に忍び込むという、この時期だからこそ実現可能な見事な穴蜘蛛地蜘蛛の術。作戦は一切の異議なく採用され、早速来る次の新月の夜に向けて準備が始まった。

肝心要のトンネル掘りはキロランケさん指揮のもと主に若い男性たちが受け持ってくださることになり、私は女性陣と一緒に彼らが作業に集中できるよう生活を整えたりチカパシと日替わりで穴掘りで出た土くれを運び出す支度をした。他にも対価があるとはいえ冬支度に急がしいこの時期にお世話になるコタンのお手伝いや必要な物資の買い出しだったりとやることはいくらでもあって、作戦決行までに生まれる余計な心配や不安にあまり考えを割かずに済んだ。一部の看守の買収にも成功したそうで、今のところ下準備は順調に進められている。



「杉元さん!」

随分早まった日が暮れて遠くが見えなくなる時分、井戸からチセに戻る途中で網走川の方角から歩いてきた杉元さんを見つけて歩みを早める。かなり近付いたあたりでようやく土だらけの顔がこちらに小さく微笑んでいる様が見えたけど、それに少しだけ違和感を覚える。

「今日も一日お疲れ様でした」
「なまえさんもお疲れ。困ったことはなかった?」
「はい。杉元さんは…今日はいつにも増してお疲れみたいですね」
「あー、うん、まあね。予定通り掘ってた穴が完成したまでは良かったんだけどさ、出た場所が……いや、あとでアシㇼパさんがいる時に詳しく話すよ」
「わかりました」

何かイレギュラーなことがあったらしい。とはいえ深刻と言うほどではなさそうな空気に、言われた通り詳しい話を待とうと頷く。

「じゃあ俺井戸に寄ってから戻るから。キロランケたちももうすぐ戻ってくると思う」
「はい、他の皆さんとチセでお待ちしていますね。
えへへ…実は今日の料理、杉元さんにもご協力いただきたいことがあるんです」
「え〜なになにぃ?すぐに済ませてくる!」
「…あ、杉元さんちょっとお待ちを」
「んぁ?」

私が来た道へと向かいかけた杉元さんをふとした思いつきで呼び止め、持っていた水桶を置いて懐からかなり萎んでしまった紙の包みを取り出すと、その中の一粒を杉元さんへと持ち上げて見せた。きれいな若葉色が日暮れの薄暗さでよくわからないのは少し残念だけど、味に問題ないことはついさっきアシㇼパさんと一緒に確認済みだ。

「疲れた時って甘いものが欲しくなりませんか?」
「わかるぅ〜。けどそれはなまえさんが食べなよ、もう残り少ないって言ってただろ?」
「大半を私が美味しくいただきましたから。不思議ですよね、美味しいものは杉元さんにも一緒に食べていただきたいなって思うんです」

そう言って利き手をもう少しその顔へと近付ければ、少し迷ったそぶりの後に私の物ではない片手が持ち上がる。でも川では落としきれなかったであろう指先からふわりと漂う土の匂いに気が付いたようで、少し間を置いて手を下げて、遠慮がちに、でもしっかりと開かれた口に摘まんでいた金平糖を投げ入れた。
見守る私の前で閉じた口をわずかに動かしてから「うん、うまい。ありがとう、少し疲れが取れた気がする」と柔らかく笑ってくれた彼に「こちらこそ素敵な贈り物をありがとうございました」と同じ笑みを返したら、口元の緩やかなカーブがふっと消えた。

「あのさ、なまえさん」
「はい」
「……いや、なんでもない」

言葉とともに軍帽の庇で遮られた表情は読み取れない。聞き返すべきだろうかと悩み始めるより先に「じゃあまた後でね」と踵を返して、今度こそ杉元さんは井戸へと向かっていった。
その背中がチセの陰に消えたのを見届けて自分も目的地へと向き直り、続きを考えながら足を前へと踏み出しかけた時だった。


「なあ」
「おわっ」

突然横から聞こえた声に反射的に振り向けば、いつの間にか少し離れた場所に人影があった。夕闇に溶けかけたシルエットにさらに身体が強張るも、すぐに見慣れた形を作っていることが分かってほっと一息。こちらへ近付いてくるにつれて徐々に子細が分かるようになっていく姿を見守る。
今日も一人で監獄や山小屋の様子を監視してくれていたのだろう。監獄を囲む山側から歩いてきた姿が数歩分開けた目の前で立ち度まる頃には、薄暗がりの中でもいつも通りの無表情まで確認できた。億劫そうに数度外套の裾を払う姿に、昨日も枯草や種を付けてコタンに戻ってきた彼がそれを払い落とそうとするアシㇼパさんに捕まっていた光景を思い出す。

「尾形さん、今日も一日お疲れ様でした。外套を預けていただけるなら後で汚れは払っておきますよ」
「…腹が減った」
「ふふ、そうですよね。今日は大叔母様が沢山鮭料理を教えてくださったんです。中でも特別な料理の準備をアシㇼパさんがしてくれていますから、楽しみにしていてください」

開口一番のセリフが彼にしては素直だったものだから、つい笑みが溢れてしまった。
きっとこの会話はここで終わりで、このまま尾形さんは私の横を通り過ぎてチセに向かうんだろう。そう思って待っていたのに、当の本人はこちらを見たまま一向に動く素振りがない。あれ?と予想外の事態に少し目を見開いたところで、真一文字に結ばれていた口が開いた。

「すごく減った」
「…それはそれは。なら急いで準備を終わらせましょう。お疲れとは思いますがお力添えくださいね、そうすれば早く食べられますから」
「今すぐ食べたい」
「……じゃあチセに戻ったら先に何か口に入れましょうか。干し肉ならすぐに用意できますよ」

尾形さん、どうしたんだろう。なんだか言葉にできない違和感を覚えつつも思い付いた提案を述べた私に、尾形さんの眉がピクリと動いた。それから合っていた目線が下へと外れて、一拍置いて持ち上げられた左手がすっとこちらを指さす。辿った先にはまだ片手に握り持っていた包み紙があって、ようやく意思の疎通が成功すると同時に、わずかな抵抗感が生まれる。

尾形さんが何を望んでいるのかは分かった。でも、これは杉元さんが私にとくれた金平糖で。
もらった時の流れのまま時折アシㇼパさんと杉元さんには渡すことはあれど、大雪山でのやり取りからなんとなく他の人には渡さないようにしていた。今はどうか分からないけどあの時の白石さんがダメだったのなら、尾形さんに分けることを杉元さんが快諾するとはどうにも思えない。
それに残りの金平糖はあと3粒。最後はアシㇼパさんと杉元さんと三人で一緒に食べようと思っていたのだ。これっぽっちの量では尾形さんのペコペコなお腹の足しになるとも到底思えなくて、言い訳を頭の中で組み立てながら口にする。

「……えっと、これ、もうあとほんの少ししかないんです。お腹の足しには向かないと思いますから、戻ったらちゃんとし」
「いやだ」

すっかり耳に馴染んだ低音で発せられた言葉に思わず顔を上げたら、再びまっすぐにこちらに向けられた黒と目が合った。昼中よりも大きく見える気がするその瞳は、見ているとなんだか胸がそわそわと落ち着かなくなる。

「それがいい」

小さな子供のわがままみたい。
念押しするように続いた言葉を聞き終えた時、決して口にするつもりはない言葉が頭に浮かんで留まった。
相応の時間をかけて鍛えられた立派な体躯、薄く顎髭を貯え威厳漂い始めたを風貌の彼はそれこそ真逆にも近い存在のはずなのに、私の頭はそれを記憶の中の幼子たちと重ね合わせようとする。

子供たちのわがままの理由はいろいろだった。自分の主張を認めてもらおうと躍起になっていたり、気にかけてほしいだけだったり。どこまで受け入れてもらえるのか試そうとしていたり──ああ、そうか。ようやく思い出した。

聞き分けの良い子なんて稀で大抵散々手を焼かされたし、根を上げたくなる時もたくさんあった。アルバイトだったりお手伝いだったり、関わる時間が短いからこそ付き合えていたんだと思う。
でも、どれも愛おしかった。私を甘えられる存在と認識して、可能性を感じて求めているのだと思うと、後先なんて考えずに強く抱きしめて胸の中に閉じ込めてしまいたくなった。何でも望みを叶えて、悪いもの全てから守りたくなった。もちろん全てを実行できたことなんてなかったし、一部のできたことだって本人たちがそれを真底望んでいたのかも分からない。そもそも、本当に大切に思うのであればするべきではなかったこと、しなくて正解だったことの方が多かったと思う。
でも私はそうしたかった。だって、私はもっとされたかったから。


長い間見つめ合っていた気がするけど、周囲の暗さはあまり変わっていない。視線を外しすっかり小さくなってしまった包みを広げれば、くしゃくしゃにくたびれた紙の上に白黄桃の粒がころんと顔を出した。

「全部」
「……」

そのうち1つを指先で摘むより早く先手を打たれて生まれた若干の呆れは口には出さず、二、三瞬の躊躇いの後心を決めて尾形さんとの距離をさらに縮める。包み紙ごと手渡す前にこちらを見たまま大きく口を開かれて、もう何も考えずに3つ続けて舌の上めがけて放り込んでいく。それからもごもご動く顎髭を眺めていたらすぐ遠慮なく噛み砕く軽い音がして、立ち襟から覗く首の皮膚がひとつ波打った。

「…甘い」
「はい。お腹の足しにはなりましたか?」
「まったく」
「お役に立てず残念です」

概ね予想通りの回答に心が波立つこともなく返せば、ようやく尾形さんの視線が私から外れた。何かしら彼の中でひと段落したらしいことを確認して手元に残った包み紙を畳んで懐にしまう。
そういえば、この金平糖がなくなったら今度はアシㇼパさんが買ってくれるって言ってたっけ。色々と落ち着いたら様子を見て言ってみようか。もちろんその時は私もアシㇼパさんにお菓子を買おう。そうだ、二人で杉元さんに贈るお菓子を選ぶのもきっと楽しいに違いない。

「……」
「それじゃあ早く戻って夕飯を完成させましょう。あ、先に井戸に寄って行かれますか?」

いつか口に出せる日を願わずにはいられない思い付きに心を少し弾ませながら尋ねれば、無言でアシㇼパさんたちの待つチセへと足を動かし始めた尾形さん。自分のペースで後に続けばすぐに隣に追いついて、それから同じスピードで向かう自分達に小さく笑った。



***



「チタタプ」
「!?」
「…!?言った!!」

蚊の鳴くような声、でも確かに耳に届いた言葉に勢いよく振り向く。そこにはついさっきアシㇼパさんの提案を聞き流していた時と変わらず口をピッタリと閉じた尾形さんが黙々とチタタㇷ゚を作っている。でも聞こえた。聞こえたのだ。杉元さんたちに訴えるアシㇼパさんの声が私の空耳ではなかったことを証明している。

「ンも〜〜聞いてなかったのか!?なまえは聞いただろ?なあ!」
「…っ!!」
「ほらぁ!!」

興奮した顔のアシㇼパさんに何度も激しく頷く。感激しすぎてうまく言葉が出てこない。でもきっと私もアシㇼパさんと同じ顔をしているはずだ。
本当なんですとアシㇼパさんの向こうにいる杉元さんたちに熱い視線を送るけど、一切信じていないといわんばかりの表情を返されてしまった。なんっったるもったいないことを!!

もう一度尾形さんを見る。すました顔で小気味良く鮭を刻む様子が、春の山中でヤマシギを刻んでいた姿と重なる。
さっきの言葉はどんな気持ちで言ってくれたんだろう。もしアシㇼパさんが言った通りこの作戦に向けて少しでも歩み寄ってくれたのであれば、こんなに嬉しいことはない。そうしても良いと思える何かを、この旅の中で尾形さんがアシㇼパさんたちに感じてくれたのだから。

大丈夫ですよ、私とアシㇼパさんにはちゃんと聞こえていましたからね!溢れる喜びを抑えきれなくて、尾形さんの顔を覗き込んでシパシパと瞬きを繰り返す。無視された。
照れてるのかな?かわいいね!


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