「チンポ先生!!」
「おうお嬢、偵察お疲れさん。何も問題はなかったかい?」
「問題はなかった!でもこれがある!」

鉄砲店への用事で町へ出た尾形さんに代わり偵察を終え戻ったコタンで、稽古着姿の牛山さんを見つけるやいなや弾丸のように駆け出したアシㇼパさん。おやつとして持ち帰っていたサルナシの実を差し出し熱を込めて食べるよう促す背中に、自然と頬が緩んでしまう。
そんな中でふと隣から感じた気配に顔を向ければ、当然そこには今の今まで一緒にいた杉元さん。目が合ったついでにこの気持ちに同意を得られないかと笑いかけたが、返ってきた変化は襟巻きから覗く口元が力無く曖昧に上がっただけ。その様子に違和感を覚えると同時に、観察していた唇が徐に開かれた。

「アシㇼパさんが『怖い』って言った時……俺がアシㇼパさんの気持ちを尊重しなかったこと、軽蔑したかい?」

意味はすぐに分かった。今日のように山で偵察をしていたあの時の二人の会話と、戻ったコタンで私がアシㇼパさんへ耳打ちした内容を思い出す。アシㇼパさんの答えを聞きわざわざ杉元さんに打ち明ける必要はないと結論付けていたけど、杉元さんの様子を見るに、最初から自分と相反する話と察した上で私の好きにさせてくれていたのだろう。

隠したかった当人に既に気取られていたと知り、覚悟していたばつの悪さや後ろめたさが湧き上がるが、私に向けられている柔らかな表情に否定や警戒の気色はない。だからまずは、首を横に振って素直な気持ちを口にした。

「いいえ。あの時の杉元さんの言葉は、アシㇼパさんが一番欲しかったものだと思います。…それでも私にはどうしても言えなくて。杉元さんが伝えてくださったのは、本当にありがたいことでした」
「…なまえさんはいつだってアシㇼパさんのことを一番に考えてるからね」

自分勝手な私の話を聞いてもなお気持ちに寄り添おうとしてくれる言葉に、つい自嘲がこぼれてしまった。自分の考えが本当に彼女のためを思ってのものなのか、時々分からなくなる時がある。

「そうやって余計なことばかり考えているから、アシㇼパさんに甘いって言われてしまうんですよね。アシㇼパさんが望んでいるのは都合のいい言葉や逃げ道なんかじゃないのに。
……分かっていても、やっぱり伝えておきたかったんです」

このまま前に進んでも、諦めても。アシㇼパさんが自分の意思で決めたのなら、金塊とのっぺら坊についての結末はどんな形になっても構わないと思ってしまった。

「前へ前へと進んでいく勇敢なアシㇼパさんはキラキラ輝いていて素敵で、アシㇼパさん自身もそういう生き方を望んでいると分かっているはずなのに、これから先にあるかもしれない“もしも”を想像していると、どうしても思ってしまうんです。たとえ見たくないものから目を背けたとしても、進もうとしていた道を諦めることになったとしても、アシㇼパさんの本質とか、フチさんやマカナックルさんたちにとってアシㇼパさんが大切な存在であることに変わりはないんじゃないかって……。
──申し訳ありません。私、杉元さんの事情を知っているのに……」

勿論金塊が見つからなかったとしても、別の方法で杉元さんへ協力するつもりではいた。でも、確かな成果をすぐに約束できるわけじゃない。ご友人の奥方に残されている時間もまだ知らない。そもそもその金策に最後まで協力できるかすら、私に保証はない。

結局あの時私がしたことは、浅い考えから生まれた独り善がりな行動でしかなかったのだ。自分の身勝手さを再認識することになりたまらず目線を下げた私の視界で、夏の頃より伸びた杉元さんの影がゆっくりと首を左右に動かし否定の意思をこちらへ示す。

「なまえさんはそれでいいんだよ。金とか因縁とか余計なことに縛られないで、純粋にアシㇼパさんのことを思ってる。そんな人がいつでもそばで味方でいてくれることは、なまえさんが考えてるよりもずっとアシㇼパさんの力になってるさ」

金とか因縁とか。
杉元さんの言葉で頭の中に蘇ったのは、つい昨日の出来事。その場の全ての視線を浴びながらいつも通り不敵な笑みを浮かべてみせた彼のことを今はそれ以上考えないよう胸の奥へと押しやり、「そうだとしたら、すごく誇らしいです」と口角を上げて返した。そしてふと思う。

「……でも、アシㇼパさんが望んだのは背中を押してくれる杉元さんの言葉でしたね。あんな風にお互いを補って対等な関係で支え合っているお二人の姿は、見ていると私まで満ち足りた気持ちになれるんです」

今日も見ていた並んだ二つの背中を思い出しながら弾む声の先をもう一度確認すると、促されるままサルナシの実を食べ始めた牛山さんに渡す次の実を持って待ち構えている、小さく見えて私よりもずっと逞しい後ろ姿。杉元さんに好評だったから、牛山さんにも沢山食べてもらいたいんだろう。
牛山さん、サルナシの実を食べ過ぎると色んなところが痛痒くなるってご存知なのかなあ。口を挟むことを躊躇してしまうくらいずっと見守っていたくなる光景に、気持ちがどんどん緩んでいく。


「──本当に、杉元さんがいてくださってよかった。
私はアシㇼパさんに約束できることがあまりないから」

本当に突然だった。場所も時間も越えて、あの日気付けばここにいた。
どれだけ記憶を探ってみても、アシㇼパさんが私を見つけてくれた場所を探してみても、原因は分からずじまいだった。旅について行きたいと告げた夜にアシㇼパさんへ言ったことに嘘はないけど、正直なところこの旅で帰る手がかりを見つけられる可能性は限りなく低いと思っている。

帰り方が分からない。そもそも帰れるのかすら分からない。だから、いつ帰ってもおかしくない。
数十年後か、ひと月後か、今日この瞬間か。とにかくその時が来たら私は、来た時と同じようになんの前触れもなくここから消え去るのだと思う。そんな不確かな身の上で簡単にこの先の約束を交わしてしまったら、私はいつか、アシㇼパさんを裏切ることになるかもしれない。

アシㇼパさんの心は強い。だけどそれは傷ひとつつかない鋼のような強さとは断じて違う。
信頼をもって交わしてくれた約束を踏みにじり何も告げずに消息を絶てば、私を受け入れてくれた柔らかな心でアシㇼパさんは何を思うんだろう。もしその約束と私が消えたことが引き金になって、彼女の身に危険が降り掛かることがあったら。助けを求められない場所で、ひとりぼっちにさせてしまうことになったら──。想像するだけで、腹の底から冷たく不快な何かが這い上がってくる。怖くて苦しくてたまらなくなる。

だったら最初から約束なんてしなければいい。いつ消えても不思議じゃない存在でいればいい。そう決めてからは、なるだけ早く自立できるように努力した。ある程度の力をつけた今、本当はすぐにでもコタンの人たちにお礼と別れを告げて消息を絶つべきなのだが、自分勝手な私はまだこうしてずるずるとその日を先延ばしにしている。
この旅に私が無責任に同行していられるのだって杉元さんのお陰だ。もし今私が突然消えることになったとしても、杉元さんは最後までアシㇼパさんのそばにいてくれる。

そうなったら私のことは帰り方か知り合いでも見つけたんだろうと思ってくれたらいいなあと願いつつ、そろそろ残った皮の回収と手拭いを渡すことを口実にお二人の輪に入れてもらおうかと企てていると、肩を優しく、だけどしっかと掴まれた。身体のほんの一部分に触れられただけなのに伝わってくる大きな存在感に促されて振り向けば、陽の光に輝く明るい瞳が強い意志を込めて私を見据える。

「大丈夫。何があっても絶対に俺が二人を無事に小樽に、あの村に帰すから。全部元通りにする。
だからなまえさんは何も心配しなくていい。アシㇼパさんのそばにいて、アシㇼパさんと一緒に笑っていてくれたらそれでいいんだ」

私とアシㇼパさんへの思いやりに満ちたその言葉に、心からの感謝を伝えようとした。でも口にしようと思いついた言葉たちは、どれも喉を震わせる前に霧散していく。
何度か失敗を重ね、ついには数度開いただけの口を閉じて微笑みを作った私に、杉元さんは満足そうに目を細めてくれた。

とてもとても優しい人。心の底からそう思う。
胸の中に感じた小さな不安には今はなんとなく触れられず、そっと奥底へとしまい込んだ。


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