「こーんばーんはーっ」
「帰れ」
躊躇なく引き戸を開けた途端返された永倉さんのスパッと一刀両断する声なんてなんのその、動じることなくするりと部屋の中に潜り込んでいった白石さん。
「酒臭いぞ水被ってこい」「まあまあ」と部屋の中から聞こえてくるやり取りを廊下で聞いていたら、眼前の障子戸からにゅっと顔を生やした白石さんに手招きされる。
素直に従ってよいものか。今の時分と己の姿に若干の躊躇いを覚えつつも白石さんの顔が消えた隙間から試しにそっと中を覗き込むと、そこは私たち三人に割り当てられた部屋とほぼ同じ間取りの空間だった。
部屋の中央に衝立を挟んで敷かれた二組の布団から奥へと視線を移せば、畳に座ろうとしている白石さんの向こうにあった慧眼に射抜かれどきりと心臓が跳ねる。
いつも洋装に身を包んでいる土方さんの、初めて見る和服姿。寝巻きにしては深めに詰めた衿合わせはきっちりとした印象を与えてくるのに、普段より露出の多い首筋や袖口から覗く上腕になんだかただならない不穏さを感じる。
……いや違う、わかってる。穏やかじゃないのは私の胸中だけだ。だってなんだかものすごいんだもの。
廊下にまで溢れてきたえも言われぬ色香に当てられてそわそわと気持ちも挙動も落ち着かずにいると、土方さんの向かいに座っていた永倉さんに「ひとまず中に入りなさい」と声を掛けられた。さっきまであれこれ考えていたはずの事がうまく思い出せないまま、少しの迷いの後に意を決し光の元へ一歩踏み出す。
「お、お邪魔します……」
「……この夜寒に寝巻き姿の女子を連れ回すとは感心できんな、白石」
入室した私の姿を一瞥して静かに白石さんを咎めた土方さんの言葉に、各方面への罪悪感と小さな羞恥が湧く。羽織を忘れてさえいなければ……と悔やむ私の前で、名指しされた背中はまるで気にする風もなく背後の畳へ両手をついてゆったりと上体を反らした。
「いやさっきそこで偶然会ってさあ。ちょいとばかり二人でおしゃべりしてたら、前にこのお嬢ちゃんに俳句っていうのはどんなものなのかって聞かれたことを思い出したわけよ」
「…ほう?」
その一言で再び私へと向けられた視線に小さく肩が跳ねた。続けて永倉さんが立ち上がりながら吐いた大きなため息に一層の居心地の悪さを覚える中、こちらへ振り返った白石さんに自身の座る横の畳をぽんぽんと叩かれて、他に取る行動も思い付かず促されるまま立ち止まっていた足を動かす。
白石さんの隣、永倉さんの座っていた座布団の斜め左に腰を下ろしたところで、背後からつい先日にも味わった背中を覆われる感覚。振り返れば永倉さんの両腕が、私の肩に見覚えのない羽織を掛けてくれていた。
「今夜は冷える、羽織っておきなさい」
「すみません、ありがとうございます」
永倉さんの私物か、旅館が用意したものか。
割り当てられた部屋に置いてきてしまったそれとは色も模様も違う襟を胸元へ手繰り寄せながら礼を口にすれば、瞼に隠れた目が穏やかな微笑みを返してくれて、緊張が少し和らいだ気がした。土方さんとはまた違った魅力をしみじみと感じる。落ち着く。
「なまえちゃん、俳句について知ってること言ってみてよ」
「うぁ、はい」
不意打ちに声をかけられて急遽意識を引き戻し、言われた通りに記憶を辿る。
その新しい文化について知ったのは一月ほど前。釧路に入ったばかりの頃だった。
「えーと確か…連歌の発句のように五・七・五で詠み上げた後、脇句以降は続けずにそれだけで一つの作品として完結させたもの……でしたよね?」
「とまあこんなわけよ」
「ふむ」
「連歌を理解していて俳句を知らないとは随分珍しい」
白石さんの言葉に続いた土方さんと永倉さんの反応と注がれる視線に、自分の無知がまたしても想像以上に大きなものだったのだと気付いて口を結び俯く。
ある日雑談の中でぽろっと飛び出た知らない言葉についていつも通り訊ねただけだったのに、こんな結果を招くとになるとは。物珍しさに興味が湧いてしまい、あれこれと聞いたのがいけなかったのだろうか。でもあの頃はそこから百句続けるのが普通だったのだ。
恥ずかしさやら情けなさやら不満やらごちゃまぜの感情を押し込めて主にこの話題を掘り返した白石さんに対してむくれていたら、当の本人からもう一度名前を呼ばれた。
「それでさなまえちゃん、試しに一句詠んでみない?」
「……え?」
予想外すぎる言葉に思わず顔を上げれば、白石さんとその向こうに座る土方さんの顔が見えた。二人とも決してものを知らない私を蔑むような表情はしておらず少しホッとすると同時に、言われた言葉の意味を少しずつ噛み砕く。
「い、今ここでですか?」
「そうそう。もちろん題も出来も気にしなくていいからさ」
「そんな無茶な…ただでさえ私そういった感性が乏しいんです。即興即詠でお聞かせできるようなものなんてとてもとても…!」
「大丈夫大丈夫、土方のおじいちゃんそんなこと気にしないでお小遣いくれるから」
「おこづかい?」
「やっぱりそれが目的かこのノラクラ」
「てへっ☆」
ペロッと舌を出しウインクを投げる白石さんと、不快極まりないと言った顔でそれを見る永倉さんを眺めながら、白石さんの収入源のひとつを遅ればせながら理解した。
俳句がお好きなのかな、とチラリとパトロンを盗み見れば変わらず視線は私だけに注がれていて、その顔つきは先程までよりもやや柔らかいものに感じられる。
「白石の言う通り、まずは心のままに詠んでみなさい。決まりを知らない今が一番自由に表現できる時だ」
「……えっ、と……」
こんな状況で自作の歌のお披露目だなんて、もちろん辞退したい。恥の上塗りになる結果は目に見えているのだから。
でも知らないことでこんなに珍しがられるほど俳句が今の日本人にとって常識なのであれば、ここは恥を忍んで学ばせていただくべきだろう。知らないフリよりも知っているフリの方がずっとずっと難しい。知識は力なのだ。
「あの…ではその、お耳汚しを失礼します」
とはいえ当意即妙に歌を詠み上げられるようなセンスはない。それでも夜分に人様の部屋へ長居し続けるわけにはいかないので、三人の視線をなるだけ気にしないようにしながら懸命に頭を捻る。
短歌や連歌でさえ実際に詠む機会はほぼ無かったのに、今回はたった十七文字に自分が伝えたいことをまとめなければならない。ただ詰め込むだけでは面白みがないと分かっていても、緊張や焦りもあってか掛詞や縁語は思いつけない。枕詞は文字数的に難しそう。せめて時節を踏まえて詠み上げたいけど、何を取り入れようか。
考えれば考えるほど頭が混乱する……だが頑張れ、頑張るんだ私。元になった連歌は知っているんだから、それほど酷いことにはならないはず。なんとかなる。
──よし。
姿勢を正し顎を引いて瞼を閉じ、深呼吸をひとつ。
こういうのは変に恥ずかしがる方が格好が付かない、堂々といこう。他の部屋のご迷惑にならないよう声量を意識しながら大きく息を吸うと、記憶に残っていた節回しでゆっくりと朗詠を始めた。
季節は秋。学んだ中では物悲しさや寂しさを詠む歌が多かったけれど、突然そんな情緒を絞り出す気にはなれず、今回はただこの秋の夜の寒さに募る風呂や布団への恋しさを詠むことにした。
最低限には品のある言葉を選んだつもりだけどあまり装飾的な表現は思いつかず、風景への言及もない。結局、「こんな寒い夜は温もりに包まれたい」というなんの深みもない世迷言になってしまった。反省点を挙げようとすればキリがないけど、今の私にはこれが精一杯だ。
余韻を残すように最後の音を伸ばし終え、肺に残っていた空気を入れ替える。普段人には見せない一面を曝け出したことによる不安やほんの少しの高揚感にドキドキしながら瞼を持ち上げた先には、大小の差はあれど驚きの色を含んだ表情でこちらを凝視している三人がいて、息を呑んだ私に向かって最初に口を開いたのは白石さんだった。
「……おみやびぃ〜〜」
あ、これ褒められてないな。
すんっと一瞬で顔と肩と心から力が抜けた私の視界で、土方さんが白石さんに同意するようにゆっくりと頷く。
「間接的な言い回しに古典味がよく出ている」
「え、あれでもですか?」
「ねえなんで急に歌い出したの?ねえねえなんで?」
「だ、だって元は連歌だっていうから…」
「なるほど。だが俳句の朗詠とはあまり聞かんな」
「う」
「言葉選びまで古臭すぎてわっかりにくいんだよなあ〜。短歌にすれば京都の一部のお華族様が気に入るかも」
「んぐっ…!」
自分が突然奇声を上げ出した変人だったと分かり、先程以上の恥ずかしさやら情けなさやらがマグマの如く湧き上がってくる。お三方ともあくまで一般論や感想を述べているだけだと分かっていても今の私では上手く受け止められず、凹みすぎて逆にむしゃくしゃしてきた。
感情に任せて耳の穴へ小指を突っ込みながら言葉通りつまらなそうにしている顔をきっと睨みつける。
「だから得意じゃないって言いましたよね…?お陰様で自分の無知と感性の低さを再認識できましたっ!」
「いやそこはどうでもいいのよ。漢詩やら短歌やらのお高い教養持ってる前提で詠まれても俺わかんねーし、なまえちゃんが俳句を知らないって分かってる上で考えてもらったんだからさ。それになんだかんだ言ったけど、俺結構あの句好きだぜ?色っぽくて」
「い…?」
「ま、とにかくまずは崩してみなよ。もっと分かりやすく単純に」
「…崩す、って言われても……」
噛み付く私を気にすることなくフォローを入れてくれる白石さんの言葉を聞いているうちに、またしても八つ当たりなんていうタチの悪い甘え方をしていた自分に気付く。気まずい思いながらも収まりがつかず拗ねたように言い返してしまった私にやはり動じることなく、「あーはいはい、急に言われて分かんねえよなあ」と胡坐をかいた膝の上に肘をつき考え込む白石さん。
が、すぐに何やら意図を孕んだにやけ顔をこちらに向けた。
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