「そうさねえ、例えば……
梅の花 一輪咲いても 梅は梅
──とか?」
「白石」
「えぇー?分かりやすくていいじゃ〜ん」
土方さんに名前を呼ばれ振り返った白石さんの後頭部を見ながら、新たな学びを得た私は手のひらをぽんと打つ。
「なるほど、連歌の中でも俳諧の色が強く残っているんですね。確かに親しみがあって意味も受け取りやすいです。あっ、だから“俳”句!」
「ほんっとわけわかんねえ知識の偏り方してんだよなあこの子。俺そろそろついてけないんだけど」
隣から聞こえるぼやきなんてなんのその。気付きによって弾んだ心に任せて口を動かし続ける。
「それにしても今の句、本当に素敵ですね!」
「…へ?」
「飾らないまっすぐな表現に心惹かれました。俳句そのものの魅力も少しだけ理解できた気がします」
ストンと心に納まった一句をもう一度胸の内で繰り返しながら、冬の寒さ残る中春の訪れを教えてくれた愛らしい花を思い出す。
北海道に来てからも桜とほぼ同時期に咲くようになった姿を時たま町中で見かける機会はあったものの、昔和人が北海道に持ち込んだけど北の方には根付かなかったとアシㇼパさんが言っていた通り、札幌を出た辺りからとんと見なくなった。
「梅の花といえば、枝全体に綻んだ花が散る様やそこから漂う薫香を詠み上げた歌が多かったと記憶していますが、この句は一輪だけでも梅の花の美しさに変わりはないと詠んでいるのですね。忘れていた当たり前のことに気付かせられた気持ちです」
直接的な言葉選びは所謂男性的に思えるけど、この句を詠まれたのは一体どんな人物なんだろう。土方さんもご存知の様子だったし、やっぱり相当に著名なお方なんだろうなあ、と名前も知らない詠み人へ想いを馳せる。
「この方にとって梅の花はどんな存在だったんでしょう。何気なく目にした美しさに心動かされたのか、大鏡の鶯宿梅や大宰府の飛梅のように、詠まれた方にとって特別な何か、誰かだったのか……簡潔だからこそ余韻について色々と考えてしまいます。
でも我々が何を感じてどんな評価を下そうと、この句に詠まれた梅の花が、託された役目のために美しく咲き続けることに変わりはないのでしょうね」
ここに下の句や脇句を添えたって、きっと蛇足になってしまうだろう。詠まれた方に直接作品に対するお考えを伺ってみたかったなあ……なんてあれこれ感動の余韻に浸っていたら、ふと周囲の静けさが気になった。
意識を引き戻せば三つの視線が再びこちらに注がれていて、はっと我に返り頭を下げる。
「すみません、ただの思いつきをベラベラと……!」
「…なに、肯定的な解釈を後ろめたく思うことはない。顔を上げなさい」
言葉に従い頭を上げれば、小さく微笑む土方さんと目が合った。玉鋼のような瞳の中に得も言われぬ柔らかさを見た私が惚けている間、すっと立ち上がった土方さんは布団の枕元に置かれた服の中から長方形の何かを取り出すと、再び座布団の上に腰を下ろし手にした物入れから取り出したものを白石さんへと差し出した。
「白石」
「んえ、いいの?今日俺ひとつも詠んでないけど」
「いらんのか」
「いるいるぅ〜!おじさまステキッ!太っ腹!」
嬉々として白石さんが受け取ったのはどう見てもお金。“壹圓”と中央に書かれた紙を手にご機嫌になって調子のいい言葉を並べる白石さんを見ていたら、「なまえ」と名前を呼ばれた。顔を向ければ節の際立ちさえ魅力に変えた手が今一度財布に添えられていて、慌てて首を横に振る。
「いえ、私のことはお構いなく!」
「おいぼれを楽しませてくれた礼だ、受け取りなさい」
「そんな、こんな時間にお邪魔した上に楽しませていただいたのは私の方です」
「せっかくだしもらっておけばいいじゃん。あって困るもんじゃないでしょ」
「そ、それはそうですけど…」
「じいさんの顔立ててやりなよ」
そう言われてしまうと断りにくい。そっと土方さんの顔色を窺うも白石さんの言葉に異論はないようで、少しの間再考してみたものの、結局は身体の向きと姿勢を正し「ありがとうございます、頂戴いたします」と頭を下げた。
満足気に頷いた土方さんが指先で紙幣を挟むと同時に前へにじり出ると再び頭を下げ、両手で作った皿で受け取る。頂くにしても一円だなんて貰いすぎだとは思いつつ、先程のやり取りもあって今回は大人しく厚意に甘えることにした。
自分のものではない手の気配が遠のいたところで静々と顔を上げてからもう一度目を見てお礼を伝えて、折り畳む為に確認した手元。そこには白石さんが受け取ったものと同じ“拾圓”の文字が──
──は?
「……え?」
停止した頭を上げれば、正面にいる土方さんは変わらない笑みを浮かべている。かっこいい。違うそうじゃない。
「……え?」
ほぼ限界まで首を捩じった先、一連の流れを無言で見ていた永倉さんへ言葉にできない混乱を込めた視線を向ければ、ゆっくりと頷き土方さんへ向けて口を開く。
「土方さん、なまえが困っていますよ。我々と違って一度に大金を使う機会は少ないでしょうから」
「ちが」
「それからひとまず私の分も上乗せして渡してやってください」
「ほわ」
「ふむ、ではこれも受け取りなさい」
「おわ」
即座に白石さんと同じデザインの紙幣が滅多にお目にかかれない厚みを主張しながらぽんと上乗せされて、感じた重みに軽く引く。ちがう、そうじゃない。どこを見ればいいのか分からず隣の白石さんを見たけど、信じられないものを見る目で私と私の手元を交互に見ている。私もそっち側がいい。
何かの間違いであってほしいと縋る思いで最後にもう一度土方さんを見上げれば、再び柔らかな笑みを返された。
「有意義な時間だった。今夜はもう遅い、また時間が空いたら声をかけなさい。次はもう少し掘り下げた話をしよう」
「あわ」
「私からも礼を言わせてもらおう。胸に染入る良い声だった。嫌でなければまた何か聴かせてもらいたい」
「はわ」
***
気付けば廊下に一人で立っていた。
正確には土方さんたちの部屋から退室した記憶と、ここに来る途中の廊下で白石さんに言われるがままに胸元から取り出したものをいくつか渡した記憶はなんとなく残っているけど、それ以上のことは上手く思い出せない。
私ちゃんと退室のご挨拶したっけ。白石さんは無事に部屋に辿り着けたのか。わからない。
ところでここはどこだろう。あまり変わり映えしない周囲を何度か見回していたら、温かみのある薄明かりを放っていた正面の障子戸にゆらりと大きな影が浮かび上がり、直後に中心が左右に割れた。
「あっ、なまえさんいた!」
「わわ」
目の前には寝間着姿の杉元さんがいた。部屋の中の灯りを背負ってその顔はよく見えないけど、心配と安堵の感情を声色が告げてくる。それが自分に向けられているのだと理解した途端、今の今までぐわんぐわんと揺れまくっていた思考のブレが少しだけ和らいだ気がした。
「よかった、いつもより遅いから心配してたんだよ」
「わ…えと、すみません、ありがとうございます」
余計な気を使わせてしまい申し訳ない。せめて事情を説明しないと。でもどこから話せばいいんだろう。
いまだに落ち着かない頭の中を徘徊している間に、杉元さんは私が部屋に入れるよう一歩横にずれて道を開けてくれた。身体の向きが変わって照らされた眉は、いつもの凛々しい形を崩している。
「羽織も忘れていったみたいだったし本当は様子を見に行けたらよかったんだけどさ、アシㇼパさんが待ちくたびれて眠っちゃって。部屋で一人にさせるわけにもいかな、」
不意に杉元さんの動きがぴたりと止まった。
何事かと見返す私の前で、やがてゆっくりと動き始める見開かれた瞳。首から下に遠慮なく注がれる視線を辿れば、うっかり肩に掛けたままだった羽織と、折り畳んだら余計に分厚くなってしまい合わせの隙間にやや強引に捩じ込んだ紙束の一部が目に留まった。
ああそうだ、これについても説明しないと。そう思い至って顔を上げたら先程までの温もりに満ちた表情が一変、感情がごっそり抜け落ちた顔がこちらを見ろしていて息が止まった。
「誰」
「ひぅっ」
肺が痙攣する。落ち着きかけていた狭い頭の中を今日一番に疑問と混乱がはね返り暴れてわけが分からない。
杉元さんから過去こんなにも圧を向けられたことがあっただろうか。いや、あった気はする。でもそれがいつだったのかすぐには思い出せない。目の前の彼から意識が逸らせない。
「ねえ誰。何されたの。宿の客?俺の知ってる奴?」
「あ、あ、え…?」
さっきから杉元さんは何を言ってるんだ。
怒っていることは分かる。そりゃあ余計な気を揉ませたり予定を狂わせてしまったことは大変に申し訳なく思うけど、それが理由にしてはさっきの態度からの変貌があまりに急すぎる。
そもそも誰とか何をされたとか、一体なんのこ……あ。
ここでとつぜんのひらめき。
素早く下を見る。行きにはなかった羽織と大金を持ち帰った私の姿。表面の冷えた身体はせめて中の熱を逃がさないように全身を強張らせていて、きっと顔にもものすごく動揺が滲み出ていることだろう。
つまり、だ。私、今、ものすごく誤解を招く姿をしているのでは?
「──!?ち、ちがっ、誤解っ…!!」
「へえ」
ブンブンと激しく首を振る私を見て、ほんの少しだけ口角を上げた杉元さんの冷たい目と声にちょっと泣きたくなった。何も解決していないことがありありと伝わってくる。
恐らく杉元さんはとんでもない思い違いをしている。早く説明しないと。でもどこから?お風呂を出たところ?白石さんを見つけたところ?土方さんの部屋に行ったところ?
こんな時こそ落ち着かないといけないのに、ぐるぐる回る頭の中で右往左往していたら、もう一度私の手元を見た杉元さんの眉がぴくりと動いた。
「…荷物、どうしたの」
「え?……あ、土方さんたちの部屋に忘れ、ハッ!?」
「取ってくる」
「だめっ!!」
私の横を抜けた逞しい腕を慌てて掴む。その場に留めようと両足で踏ん張るものの、手入れの行き届いた床板の上をずるずる滑っていく私の足。ええいやっぱりこの腕びくともしない!
「杉元さん聞いてください、土方さんたちとは少しお話ししていただけなんです!!白石さんに聞けばわかります!」
「そう白石も。わかった」
「わかってないです!」
今の杉元さんを土方さんたちの部屋に行かせてはいけない。足りない体重分を離れつつある引き戸の縁に頼ろうと足を伸ばしかけたところで私を引く力が消えて、杉元さんがこちらへ振り返った。
恐る恐る見上げた先には強く引き結ばれた口元と、小さな私が写り込んだ激しい感情に満ちた瞳。何故だか酷く傷付いているように見えて思わず掴んでいた腕から両手を離した私へ素早く伸ばされたもう片方の腕を咄嗟に目で追えば、肩の辺りでピタッと止まった大きな手がぐっと空を握りしめ、そして力なく下ろされる。
腕から目線を戻して見上げた杉元さんは最後に一瞬だけその瞳を揺らし、それから私に向かって優しく優しく微笑んだ。
「大丈夫、もう大丈夫だよ」
「何も大丈夫じゃないッッ!!」
結局役立たずな私に代わって杉元さんと私を落ち着かせてくれたのは、私の声で起きてしまい大層ご立腹なアシㇼパさんであった。
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