大海で栄養をたっぷり蓄え網走川へ戻ってきた鮭たちを両手に携え、ようやく辿り着いたチセ。時間の経過とともに増す存在感に夕食十余人分を一度に運ぼうとした浅慮を道中何度か後悔したものの、なんとか地べたに下ろすことなく入口をくぐり、玄関兼物置であるモセㇺから母屋へ向けて声を張る。

「大叔母様っ、ただいま戻りました!夕食分の鮭をいただいてきまし──あっ」

先に食事の支度を進められていると思っていたアシㇼパさんの大叔母様──フチさんの13番目の妹君の姿はそこになく、代わりに今朝町へ出掛けていくのを見送った尾形さんがいた。

炉の熱で暖かな部屋の中、二つ並んだ窓の間の壁を背に小銃を抱えて座っている尾形さん。ばちりと視線のぶつかった個性的な目に、思わず昨日の出来事が頭をよぎる。が、まずは半日ぶりの再会を素直に喜ぶことにした。

「尾形さん、お帰りなさい。暗くなる前に戻られて何よりです」

笑みを浮かべて伝えるも、返ってくる声はなし。だけどこちらへ向けられていた両目が鋭さを感じさせることなく少しだけ細められて、それだけでじんわりと優しい気持ちが胸に広がっていく。
我ながら単純だなぁと思いながら長靴を脱ごうとして、はたと気付く。鉢巻の下から少しは見えるであろう眉を落としながら顔を上げ、この窮地を唯一打開してくれるかもしれない相手にアピールした。

「お疲れのところすみません、少しの間鮭を預かっていただけませんか?手が塞がって靴が脱げなくて…」

この場にいるのが私一人なら手なんて使わずともちょちょいと脱ぎ去ってしまうのだが、人の目があっては些か気が引ける。
まあ相手は少し前まで事あるたびに私に足で文句を主張していた尾形さんだ。こちらの多少の品のなさも大目に見ていただこう、なんて断られた後のことを早々に考え始めた私を、じっと見ていた尾形さん。やや間を空けて億劫そうに腰を上げこちらへ近づいてくる姿に、小さな驚きとそれ以上の喜びが込み上げた。

「少しは考えて動いたらどうなんだ」
「仰る通りです……。えへへ、ありがとうございます」

縄が食い込む手を差し出せば、正面から伸びてきた逞しい手に軽々と回収される鮭たち。早速自由になった片手で靴を脱ぎ床に上がると、一番近い窓のそばに作業場にするためのすだれを広げて持っていた鮭を下ろした。

一時の開放感に浸りながら振り返ると尾形さんが真後ろに立っていて、ちょっとびっくり。でも態度に出さないよう意識しながら「お手数おかけしました」と残りの鮭を受け取った。
その鮭もすだれの上に置いて口とエラに通していた縄をマキリで切りながら、まだ近くにいるであろう相手に声をかける。

「今日も見張り小屋や監獄の様子に大きな変化はありませんでした。詳細は皆さんが揃う夕食の席でお話ししますね。
あ、それから今日はサルナシの実が沢山なっている場所を見つけたんです。少し持ち帰ってきたんですが今からいかがですか?熟した実を選びましたから、甘くて美味しいですよ」
「……」

返事がないので振り返れば、まだ私の真後ろに立っていた尾形さんに少し面食らう。でもそんな彼から小さな頷きが確かに返されたのを見て、今一度の穏やかなコミュニケーションの成立に感情はすぐさま喜びで上書きされた。
よほどのことがない限り食べる物にはあまり頓着しない人だと思っていたけど、先日の金平糖の件といい、存外甘いものが好きなのかもしれない。

「はい、用意しますから少しお待ちくださいね」
「…山には三人で行く話だっただろ。二人はどうした」
「アシㇼパさんと杉元さんは川のそばで干し鮭を作るお手伝いをされています。夕暮れ時には戻られると思いますよ」
「……本。あと毛皮」
「はーい」

事前に許可を求められれば何も問題は……今のが許可を求められたことに…?……まあ、何も問題はない。
最初に尾形さんが座っていた壁の近くに置いたサラニㇷ゚からサルナシの実と一緒に本と毛皮を取り出して振り返ると、やっぱり近距離に尾形さん。私の後ろをついて回っているその光景を想像して崩れそうになる表情筋を保ちながらご所望の二つを渡すと、尾形さんはその場にどすりと腰を落とした。夕食の時間までゆっくり過ごすのだろう。

窓のそばまで戻り、整理された調理道具の中から器をひとつ拝借する。食べやすくなればとサルナシの実を切り割る単調な作業を繰り返す中、暇を持て余した頭が思い出したのは昨日の出来事。


日露戦争の責を負って自刃した、当時の第七師団長。尾形さんは彼とその側室──妾の女性との間に生まれたお子だった。

完成した地下トンネルの先、脱獄前から土方さんと内通していた看守部長の門倉さんの官舎で土方さんが突如明かした話と方々から注がれる視線を一笑に付して、尾形さんはただ因縁による軍への干渉だけを否定した。「テメエらだってお互いに信頼があるとでも言うのかよ」と、あの日チタタプと確かに呟いてくれた口で付け足して。

側室。妾。思い者。生活力のある男性に本妻以外の形で迎えられた女性のこと、という認識は今も同じなのだろうか。昔は立場によっては珍しいことではなかったし、経済力と当事者たちの納得さえあれば誰に責められることでもなかった。
だけど一夫一妻が法として定められたこの時代では、話は随分違ってくるようで。母君と尾形さんがそのことを周囲からどう扱われてきたのかは、あの場の雰囲気や「キロランケと谷垣から聴き出した」「公然の事実」といった土方さんの言葉選びでなんとなく察しはついた。

手を止め横を見る。丸めた毛皮を腰に当て、柱にもたれかかり悠々と読書を嗜んでいるこの凄腕の狙撃手について、私は詳しい事情を知らない。
杉元さんも白石さんも土方さんも、目的は違えど金塊を求めている。だからこの人だって同じだろうと漠然と決めつけていたのは、尾形さんへの関心なんてないに等しかった頃。最近では目の前にいるその人自身への関心ばかりが強くなって、そんなこと考えさえしなくなっていた。……きっと、誰に対しても考えないようにしていたんだと思う。

でも官舎での話を聞いてから、ふと尾形さんの目的や過去について考えている自分がいて。どれだけ考えたところで真実なんて分かるはずもないのに、気付けばあの夕間暮れに見た姿が頭の中にいる。
いつもと同じようでどこか違う気がした顔で、尾形さんは何を考えていたんだろう。私の一挙一動を窺っていた真っ黒な双眸が求めていたのは、本当にただ甘い食べ物だったんだろうか。小さな引っ掛かりは思考の中で、疑問から根拠のない憶測へと広がっていく。

何を求めていたんだろう。いつから求めていたんだろう。誰かがそれに応えたことは──。

その先に向かおうとする思考をまばたきと一緒に無理やり落とした。器を持って立ち上がり、少しだけ口角の角度を意識しながら顔を上げる。


「尾形さん、お待たせしました。体質に合わない方が食べ過ぎると粘膜が痛痒くなってしまうので、量はご自分で判断してくださいね」

サルナシの実を乗せた器を尾形さんの横に置けば、それを一瞥した黒目がすぐに手元の文字へと戻される。食べるタイミングは本人に任せ残った実をしまうためサラニㇷ゚を手繰り寄せようとした時、ちらりと視界の端で何かが光った。反射的に焦点を定めれば、何かがサラニㇷ゚の上にちょこんと乗っている。

「……?」

さっき荷物を取り出した時にはなかったはず。見覚えのない物体の正体を確かめようと持ち上げてみると、それは小さな金属の板だった。

片手で包み込んでしまえるほどの大きさで少しだけ厚みがあり、輪郭は長方形。冷たい鈍色に光る表面には牡丹の花と蝶が繊細に彫り込まれていて、美しさに見惚れながらも迂闊に触れたことを少し後悔するくらいには質の良い品だと一目で分かる。

でもこれ、なんだろう。傾く首を元に戻し、十中八九この存在を把握しているであろう人物へ声をかける。

「尾形さん、これなんですか?」
「……」
「どうして私の荷物の上に?近くに落ちてました?」
「……」

んーもー。
声をかければかけるほど持ち上がる本が尾形さんの顔と重なって、しまいには目も口も隠れてしまった。さっきまでの素直さだったらいけると思ったのになぁ、なんてついつい唇が尖ってしまう。二人きりのこの空間、私の荷物の上に小物を置いたのが尾形さんであることにまず間違いはないだろうに。

素直に受け答えしてもらうことは諦めて、再び己の手の中へと視線を落とす。
形は小間物屋で見かけた煙草や紙用の薄い小物入れに似ているけど、それにしても小さすぎる。帯留め…も違うかな。後ろに付いているはずの紐を通す金具の手触りがない。

裏返して確かめようとしたら、側面に小さな蝶番があることに気付く。もしやと思い反対側を確かめれば、指先をかけるためのわずかな凹みを発見。こんなに薄い板の中に細工が施してあるらしい。

「開けてみてもいいですか?」
「……」
「開けますねー」

質問を宣言に切り替えて凹みに爪をかける。壊さないようそっと開いた中にあったのは、眩く深い赤だった。


「……べに…?」

普段縁のない、だけど最近一度だけ記憶の引き出しから取り出していた言葉がぽろりこぼれ落ちる。
くり抜いた延板の内側に満遍なく塗り込まれた、所々が緑や黄に輝く鮮やかな紅緋色。表に彫られた牡丹の花もきっとこんなきれいな色なんだろうなあ、と自然と想像させられる。
昔は白粉に混ぜたり頬に使う事がほとんどだった紅。それが今は主に女性たちの唇を彩り親しまれていることは、旭川のコタンで実演とともに学んでいた。

そう、答えは簡単だった。

「きっと家永さんの物ですね。後で渡しておきま゛ッ」
「バカも休み休み言えよお前」

導き出した答えを言い切る前に側面から一撃。痛みより衝撃の大きかった頭を押さえて久々に横暴理不尽おまけに罵倒を振りかざしてきた人物へ不満の気持ちを込めに込めた視線を向けるも、閉じた本の背をこちらに向けた不機嫌極まりない顔に睨み返された。な、なんだってんだ。怖気つつも負けじと言い返すために口を開く。

「だ、だって他に心当たりなんてないですもん!もちろん私のものでもないし!」
「お前のだ」
「だからちがっ……
……え?」

今、なんて?

呆然とする私から視線を外し、再び本を開く尾形さん。
尾形さんと紅。交互に視界に映しながら、頭の中で繰り返し再生される言葉を咀嚼していく。

おまえのだ。
お前のだ。
お前って誰だ。私だ。つまりこの紅は私のもの。
でも私、紅なんて持っていない。持っていなかった。でも尾形さんは私のものだという。
今の今まで私のものではなかったものが今は私のものであることを、尾形さんは知っていた。
尾形さんだけが、知っていた。


遠く外から聞こえてきたご婦人たちの朗らかな笑い声を耳に、眼前で自らの手元を撫でるように動く黒目を眺めながら、辿り着いた結論を口にする。

「……尾形さんが、買っていらしたんですか?……私に、渡すために……?」

一点を見つめ動かなくなった瞳。返事はなし。でも否定されないってことは、間違いではない、んだと、思う。

つまりこれって、尾形さんから私へのプレゼント……?

そう考えた途端、ぶわっと舞い上がりかけた胸を慌てて抑え込む。
いやいや待て待て私、落ち着け。何を恥ずかしい勘違いをしそうになっているんだ。

考えろ、きっと何か合理的な理由があるはず。
例えば……ほら、今回の潜入計画のために私が変装する必要ができた、とか。
……いや、そんな案は聞いていない。そもそも前回の女装だって元を正せば私のために手配されたわけで、和人の女性が必要なら家永さんがいる。私一人の女装で今回の計画をさらに確かなものにする手が増えるとは到底思えない。
じゃあ誰かに頼まれたとか?でもその名前が明かされる気配はない。それに何より、尾形さんがそんなお使いを素直に引き受ける状況も想像できない。

じゃあまさか本当に尾形さんから私に……?いやいやそんな、そんなわけ……でも、え、えっ……?
自制しきれない気持ちがどんどん膨らんでいく。きっと見るからに落ち着きのなくなっているであろう私をちらりと見た尾形さんは、どことなくばつが悪そうにふいと黒目を明後日の方向に流すと、本から離した片手ですっと前髪を撫で上げた。

「……金平糖、全部食べたから……」

ン゛ッ!!

旅館での頭なでろ催促の上を行く衝撃。悶絶しそうになる胸を押さえ、激情に耐えるために唇を噛み締める。アシㇼパさんへのときめきで鍛えられていなければきっと耐えられなかっただろう。

つまり尾形さんは、あの時のお詫びの品としてこの紅をくれたのだ。あんなしれっとした態度を取っておきながら、内心では悪いことをしたとずっと気にしていたのだ。
私の!!金平糖!!全部食べちゃったって!!

この成人男性の日頃の人となりからあまりにもかけ離れた理由が判明し、嬉しさやら愛らしさやらほんのちょっとのおかしさやら、苦しくも温かな感情が洪水のように押し寄せてくる。目も眉も口も頬も好き放題に緩ませながらじりじりと尾形さんとの距離を縮めて、心からの言葉を紡ぐ。

「へへっ……尾形さん、ありがとうございます」
「……」

相変わらず目は合わないし、眉毛ひとつ動かすことのない尾形さん。誰もいない上座の席を眺めたままするりと撫でつけた前髪は、三つ数えるより前にはらりと額に落ちる。

「見た目も中身もお姫様への献上品みたいにきれいで、ずっと眺めていたくなります。この状態を損ねてしまうのは勿体無い気がするけど、それ以上に使うのが楽しみで楽しみで……それになにより、尾形さんが私のために手間をかけて用意してくださったことがと〜っても嬉しいです!」
「……」

ナデナデナデ。そんな擬音が聞こえてきそうなくらいに髪型が崩れる暇もなく頭を撫で付ける尾形さんをニコニコと眺める。間隔が短すぎて自分で自分の頭を撫で回しているようにしか見えない。目を合わせようと首を傾げたらさらに明後日の方向に視線を逸らされた。照れているのだろうか。かわいい。ものすごくかわいい。

それにしても、どうして紅だったんだろう。今の正確な値段は分からないけど、昔得た知識や以前のお使いでこうしたものが決して安くないことは分かっているし、自分で言うのもなんだけど私への贈り物として選ぶにはなかなかに大胆な選択だと思う。
尾形さんの態度を見る限り嫌味が込められているとは思えないし、もしかして「とりあえず女だったら紅でも贈っておけば喜ぶだろ」とか考えたんだろうか。だとしたら安直な思考がますます可愛らしい。
あと紅屋にいる尾形さん見たかった。どんな風に品物を選んでいたんだろう。絶対に本人には言えないことを好き勝手思いながら、もう一度手元へ視線を落とす。

鮮血のように瑞々しい赤は、思わず目を奪われる蠱惑的な美しさを放っている。質の良いものは笹色に光るようになると聞いたことがあったけど、実物を見たのは初めてだ。
正直なところ使う予定は今のところ皆無なわけだが、こんな素敵なものをいただいたからには自ら進んで機会を作っていくべきだろう。さすがに網走にいる間は難しいが、この潜入計画が成功して網走を脱出したら、頃合いを見て以前お借りした着物がまだ手元にないか家永さんに相談してみようか。そうだ、紅以外の化粧品もまたお借りしたいとお願いしてみよう。そんなおめかしについてあれこれと考えている自分をふと自覚して、呆れのような恥ずかしさのようなちょっとした微笑ましさのような、なんとも表現しにくくこそばゆい感情が胸をくすぐる。

気をつけなさい私、浮かれるのもほどほどにね。
自分を律する気持ちを込めて蓋を閉じ、ずっと価値の増した凹凸をそっと撫でた。


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