「本当にありがとうございました。大切にしますね」
うっかり傷付けてしまわないうちに早速サラニㇷ゚の中に紅入れをしまおうとしたら、くん、と腕に抵抗を感じた。見下ろした袖を摘むゴツゴツとした印象の指を辿れば、直前まで散々逸らされていた目に射抜かれる。
「塗らんのか」
「え?いえいえ、もちろん使わせていただきますとも。機会ができるまでは大事にしまっておきますね」
「どうせ使うなら今でもいいだろ」
「……?」
ちょっとその理論はよく分からない。でも尾形さんが求めていることはわかったから、見解の相違を伝える。
「えーと、でも今はこの格好ですから…」
「別にいい」
私はよくないぞ、なんて咄嗟に言い返しそうになるのをぐっと踏みとどまる。口にしたところで納得してもらえるとは思えない。
珍しいもの見たさかただ笑いの種にでもするためか、とにかく今この場で使って見せろと遠回しかつあからさまに訴えてくる尾形さんから目を逸らす。せっかくこんなにも素敵な贈り物を頂いたのだ。初めて身につけるのであれば、贈り主にお披露目するのであればなおのこと、結果はどうなれそれなりの努力をしたいと思うくらいの見栄は私にだってある。
「いやあ、このまま点してもきっと似合わないと思うんですよぉ」
「確かめてやる、見せてみろ」
「本当に素敵な紅ですから、尾形さんには機会を改めて目いっぱいおめかしした姿を見ていただきたいなぁ〜って思って!」
「…今なら見てやる」
「……?
…………??
…えと、じゃあせめて明日まで待っていただけませんか?紅に合うように家永さんに整えていただ」
「いやだ今見る」
あ、これ前回で味を占められたな。
屁理屈で取り繕うことすら放棄した我儘に呆れ脱力しつつ、それが通る前例を作ってしまったのは紛れもなく自分なのだと閉口する。
贈り主の要望に応えたい気持ちはもちろんある。だけどやっぱり、できることならこの紅とともに紡がれてきた装いに合わせた姿を尾形さんに見てもらいたいと思わずにはいられない。
もう少し粘ったら諦めてくれたりしないかなあ……となけなしの期待を込めて盗み見れば、姿勢の影響でやや下から見上げてくる二つの黒。
実は長いまつ毛が飾る切れ長の大きなそれに落ち着かない胸を持て余しながら、チセの中を四方八方見渡して、考えて、悩んで。結局最後には肺と肩からふっと力を抜いた。
どうにも私は、この人のこの目にめっぽう弱いらしい。
放置していたサラニㇷ゚からクヨイ(水袋)を取り出して、薬指の腹をほんの少し濡らす。それから紅入れの蓋を開ければ再び現れた美しい光景にやっぱり躊躇いが生まれたが、意を決して濡れた指先をそこに置き、刺さる視線から顔を背けて薄く開いた唇の上を左右へ滑らせる。
そうして最後に上下の唇を軽く擦り合わせると、緊張を誤魔化すために居住まいを正し、その原因に真正面から対峙した。
「……、」
「……」
沈黙。気まずさに襟巻きを持ち上げようとする手をぐっと膝の上に押し留め、泳がずにはいられない目線を恐る恐る相手に定めれば、今度こそ不満げに細められた目とぶつかる。
「薄い」
「そ、そうですかね……?でも鏡を見ないで点すのってそれなりに難しいから、このくらいが無難かなあって…」
毎日使っていれば家永さんみたいに濃く美しい線もすっと纏えるようになるのかもしれないけど、今の私は要リハビリの経験不足。
それでも指先の色を見る限り多少の変化はあったと思うんだけど……そっか、尾形さんって濃いめの化粧がお好きなんだ。へえー。ふーん。
ミョーに引っかかる事実を頭の中で反芻していたら、不意に迫る圧。反射的に顔を上げれば真顔に戻った尾形さんがこちらに身を乗り出していて、同時に顔の輪郭に触れた指の感触に息を呑む。
顔の中心よりやや下一点に注がれ続ける視線を受け止めている間にも、ぬるい体温が点々と頬に添えられ、親指の腹らしきそれが下唇の縁を確かめるようになぞる。乾燥した厚い皮膚が薄い皮の表面をそうっと擦る感触に、そわそわとぞわぞわが入り混じり全身に広がっていく。
こんなにも落ち着かない気持ちになるわけは、きっと尾形さんが次に何をしてくるかわからないからだろう。また唐突に頬を挟まれるとか、顎を掴んで押しやられるとか。額を殴られる可能性だって捨てきれない。
なんだかこの感じ、家永さんに触れられた時と似ている気がする。そう、きっとそうだ。だから札幌のホテルや夕張の製作所の時と同じように相手の一挙一動から目が離せなくて、与えられる刺激全てに気持ちが翻弄させられて、次はどんなことをされるのかと思うともっとドキドキして──あれ?本当にこんな感じだったっけ?
組み上げかけた持論に綻びが生まれた瞬間、唇から離れていった熱に我に返った。ホッと一息つきかけたが残りの指が肌から離れることはなく、それどころか数をひとつ増やして再びすす…と滑りはじめた感触と一緒に尾形さんの顔がさらに近づいてくる。近い、近い近い。
静かに慌て狼狽える私のことなんて気にも留めていない様子でどんどん迫り来る顔。耳の凹凸を撫で鼓膜を擽る感覚に肌が粟立つ間に、私の意思の届かない大きな手が襟巻きの砦を容易く越えて強張るうなじと後頭部の境に添えられる。
頭突きか?頭突きなのか?頭部への追撃に気構えた私の文字通り目と鼻の先で、尾形さんの首が斜めに傾く。これでは額どころか鼻同士だってぶつかるか怪しいのに、それでも尾形さんは止まらない。
待って。まって。このままではとんでもないことが起きてしまう。
でもいやまさかそんな。尾形さんのことだ、きっと別の意図があるはずなんだ。後ろの荷物を取るだけとか、すぐににやりと笑って私の鼻を摘まみ上げてくるとか。そんな考えを素早く巡らせている間に、肌のキメまで見える瞼がそっと伏し目を作る。
大丈夫。そろそろ、もうそろそろ種明かしがされるはずなんだ。大丈夫、大丈夫…!!
焦点の定まらない肌色と黒の向こう、チラリと覗く晴れ渡る小さな秋空はまるで別世界のよう。呼吸の仕方も忘れて暴れる心臓の鼓動が頭の中でガンガンに鳴り響く衝撃にじっと耐え忍ぶ最中、鼻先に自分のものではない温もりを感じてふと気付く。
なんで私、尾形さんに何かされるのを待ってるの?
刹那、玄関の方からパタパタと人の気配。ほぼ同時に襟巻きの中に潜り込んでいた違和がぱっと消えた瞬間、身体がバネのように弾けた。
「なまえー!クッチちょうだいっ!!
……なにやってんの?」
「っ゛…わ゛、わっかんない……」
「ふーん。ねえねえクッチまだある?アシㇼパが残りはなまえが持ってるって言ってた」
「ウッス…」
思い切り顔を後ろに引いた結果、勢い余って強かに床に打ち付けた後頭部。衝撃で動けずにいる私へかけられたチカパシの声に考える余裕もなく返したら、関心の薄さが伝わるお返事をいただいた。
痛みをやり過ごしている合間に涙で霞む視界の端に捉えていた尾形さんは消え、頭上で止まった足音に咄嗟に襟巻きを持ち上げ口元に影を作った直後、にゅっと生え出たどんぐり眼に見下ろされる。
「谷垣ニㇱパとインカㇻマッの分もある?」
「う、うん。チカパシの分が少なくなっちゃうけど…」
「いいよ。なまえもほしい?」
「気にかけてくれてありがとう、でも山で食べてきたから平気だよ。用意するから少し待ってね」
「うん」
「谷垣ニㇱパクッチ好きかなぁ?」と続く声に「どうだろう。喜んでくれたら嬉しいね」なんて相槌を打ちながら、のそりと身体を起こす。サラニㇷ゚に手を伸ばしながら、チカパシから見えないようにもう片方の手甲で唇を拭う。
ちらりと盗み見た尾形さんの顔は、背中を向けられて見えなかった。
***
新月の夜まであと数日。
朝食とその片付けが済んだ頃合いで、チセの中では潜入時の詳細な流れを確認しながら各々の持ち場や役割が決められようとしていた。計画の中心となる白石さんの声に合わせて、その指が床に広げられた監獄の地図の上を滑る。
「──とまあ、振り分けが必要な役割は主に侵入の実行班とその逃走を補助するための待機班だな。もちろん中を動き回る人数は最低限にすべきだ。アシㇼパちゃんは大前提として、あとは」
「俺もだ」
「あいよ。アシㇼパちゃんと杉元、そんでもって」
「お前もだ、白石。のっぺらぼうのいる独房までの手引きは頼んだぞ」
「…へいへい」
アシㇼパさんの言葉に軽く笑みを浮かべながら肩をすくめてみせる白石さん。その言動の意味を汲み取ろうとした私の視界で、別の動きが意識を奪う。
「暗闇での先導は、予定通り都丹庵士だな。…それと──」
声を途切らせた杉元さんの視線が地図を離れ、囲む輪の中から私へと定まった。こちらの言葉を待っているであろう彼と隣で瞬く星から目を伏せ、浅く頷く。
「…私は村で待機します。もちろん人手が足りない場所があればそちらに回りますので、何なりと」
今回の作戦の第一目標は、誰にも気付かれずにのっぺらぼうに会い立ち去ること。白石さんが中心となって緻密に練り上げたこの計画の中に、私がアシㇼパさんたちに同行する利点はない。官舎での待機だって敵陣の中でいざという事態に備えての配置なのだからずっと適任の人たちがいるし、広い網走川を何度も往復する舟の漕ぎ手としては腕力も体力も心許ない。地下トンネルも舟も一度に移動できる人数に制限がある以上、精鋭に絞って固めるべきだ。
官舎で杉元さんがのっぺらぼうを脱獄させる案を出した時、アシㇼパさんは「父が本当にのっぺらぼうなら危険を冒してまで連れ出す必要はない」と言った。でものっぺらぼうが本当にアシㇼパさんのお父上だったとしても、実際に会って話をすれば事情は変わってくるかもしれない。彼について私たちは知らないことが多すぎるのだから。
釧路のコタンで谷垣さんが捕まってしまった時の事を思い出す。アシㇼパさんがどんな選択を結論しても、杉元さんはきっとアシㇼパさんのためにできる限りのことをしてくれる。
このための長い旅だった。肝心要の時に力不足な私がいたところで何ができるのか、いたばかりに最悪の場合何が起こり得るかを考えてみれば、2人の目的が達成されるために自分がするべきことは明白だった。
そんな私の思いはどこまで知られているのか、私を見つめたまま何を言うでもなく頷いたアシㇼパさんへ同じ行動を返す。隣にいる杉元さんへと視線を移せば同じく小さく頷いてくれて、徐にその口が開かれた時だった。
「俺につけろ」
「…あ?」
視界の、輪の外から投げられた声。私に向けられていた眼が瞬時に剣呑さを帯び地を這う声と共にじろりと動いた先を追えば、土方さんと永倉さんの肩の向こうで壁の柱に背を預けた尾形さんがいた。言葉の意味を理解した全ての視線が一斉に注がれているであろう中、当の本人に動じた様子は一切ない。
「計画中、俺は援護が必要になった時に備えて山に身を潜める。元よりそのつもりで今まで見張りをさせてたんだろ?
そいつなら夜の山でも邪魔にならないことは分かってるからな、旭川と同じでいざって時には多少役に立つかもしれん」
「…お前一人でどうにでもなるだろ」
「気軽に失敗していい計画じゃねえんだ、打てる手は打つに限る。こんなところで私情を挟んでる場合か」
ぴしゃりと撥ね付ける言葉にその場の空気が張るが、相手を睨み付けたまま杉元さんはそれ以上言い返さない。一方で尾形さんはすぐに視線を外し、薄ら笑いを浮かべながら投げやりに手のひらを広げて見せる。
「ま、侵入した奴らが順調に事を運んでくれさえすれば杞憂に終わるのは確かだな。それに何かあったとしても、俺はお守りはしてやれん。俺にとって一番重要なのはこの計画を成功させることなんでね。
──だから、」
音もなく獲物を狙う獣のような双眸に射抜かれ、息を呑む。
「最後はお前が決めろ。お前にとって何が重要で、そのために自分がどこで何をすべきなのかをな」
胸ぐらを掴み上げられたような気分だった。
旭川で尾形さんのサポートに私が名乗り出た時、彼は何も言わないどころか興味も示さなかった。邪魔にならなければそれでいいと言わんばかりの態度に、こちらもこれ幸いとプレッシャーを感じることなく同行したことを憶えている。
あの時と同じようで違う今、ここまで私を見てきた彼はチャンスと選択肢を与えてくれた。あの触れ合いといい相変わらず分からないことだらけの人だけど、彼ならきっと、いざという時には迷いなく私の望む“最善”を選んでくれるだろう。最悪ばかりを考えていた私が一歩を踏み出すために、これほど心強いことはない。
多くの視線を感じながら、こちらを見据えたままの闇夜の色に向かって大きく頷き、口を開いた。
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