「なまえさん」
コタンを歩いていた私を呼ぶ耳心地の良い軽やかな声に振り返ると、予想通りの人物がこちらへ微笑みを向けていた。立ち止まり口元に弧を浮かべた私へ自然と人の目を惹きつける所作で近づいてきた彼女が、視線を一点に留める。
「日中はコタンで過ごすと聞いていましたが、弓矢を持ってどちらへ?」
「今夜のことで少し土方さんのところまで。それが済んだらアシㇼパさんと一緒に大叔母様のお手伝いや準備をして過ごします」
いよいよ今夜は新月、作戦決行の日だ。
心身を休ませたりいつも通り過ごしたり、皆それぞれに夜の帳が下りるのを待っている。この様子だとインカㇻマッさんも日中遠出の予定はないらしい。
「インカㇻマッさんは何をされていらしたんですか?」
「お世話になったお礼にコタンの人たちを占っています。ここでゆっくり過ごせるのは今日が最後になるでしょうから」
「…そうでしたか。それはお疲れ様です」
当たり障りのない返しでお茶を濁そうとした私に、「もちろん頼まれた方にだけですよ」とにっこり笑みを深めるインカㇻマッさん。
「なまえさんもいかがですか?」
「いえ、結構です」
「そうですか」
今一番気になることなんてひとつしかないわけだが、もしまた苫小牧と同じ結果が出たら今夜一晩気にしないでいられる自信がない。そんな気持ちを知ってか知らずか──いや、きっとお見通しなんだろう。にべない私の返事を気にする様子もなく流した柳眉の尻が、ふっと儚げに下がる。
「ではせめて、今夜のなまえさんの無事を願う言葉をお伝えしても?
先日の話し合いまで私、なまえさんは私たちと一緒にコタンに残るとばかり思っていて……。アシㇼパちゃんたちほどの危険はないかもしれませんが、山にも武器を持った見張りの看守がいて安全とは言い切れないでしょうから」
「インカㇻマッさん……はい、もちろんです」
アシㇼパさんへの気持ちを認めてくれているからだろうか。それとも胸に渦巻く不安な気持ちを誰かにかける言葉で少しでも和らげるためだろうか。どちらにしてもアシㇼパさんのことやウイルクさんのこと、考えることがたくさんある中で私のことにまで心を砕いてくれたインカㇻマッさんに応えたくて頷いた私の片手が、彼女の両手に包まれた。引き寄せたまま手相を見るでもなく、笑みを消した目がその光景を静かに眺める。
「
──なまえさんにとっても、今夜は不安の多い夜になることでしょう。でも常に冷静に、自分の身の安全を優先して行動してください。そうすればきっと、この夜の先で大切な人と再会できるはずです」
「……なんだか占いの結果みたいです」
「ふふ、癖みたいなものでしょうか。なまえさんの好きなように受け取ってください」
相も変わらず掴みどころのない受け答え。それでも以前ほどその言動が気にならなくなったのは、捉えどころのない占い師としてだけではなく、世間から重んじられることのない立場や力を最大限に活かし行動するインカㇻマッさんという女性自身について知ってきたからだろう。短い間だけどここまで見てきた谷垣さんやチカパシ、そしてアシㇼパさんを見る彼女の温かな眼差しが、全て嘘偽りだとは思えない。──全てが本物であればいいと切に思う。
「どうかご無事で。あなたと、あなたの大切な人の願いが叶いますように」
「ありがとうございます。インカㇻマッさんもできるだけ心穏やかに待っていてください。チカパシのこと、よろしくお願いします」
そう告げた私に、インカㇻマッさんはそっと目を細めた。
***
「なまえ」
コタンを歩いていた私を呼ぶ耳心地の良い重やかな声に振り返ると、予想通りの人物がこちらへ微笑みを向けていた。自然と緩む顔をそのままに足を向ければ、ふわりと漂う煙草の匂い。己の存在を周囲に溶け込ませるためには避けるべきものなのに、この人のそばでなら不思議と不快には思わない。
「こんな日まで弓の鍛錬か?」
「今晩のことで土方さんにご助言をいただきたくて、牛山さんの稽古場まで行ってきたんです。この後はチセで夕方までゆっくり過ごします」
本日二度目のやりとりをスラスラと返したらキセルを持つ手とは逆の手で腰掛けた丸太を軽く叩かれて、促されるまま隣に腰を下ろした。見上げた先には相変わらず存在感のあるまつげに縁取られた、今さっきよりほんの少しだけ細くなった気がする瑠璃色の目。アシㇼパさんと少し似ている宝石は眺めていると不思議と肩の力が抜けていく気がして、うまく言えないけどいいなあと思う。
「キロランケさんも今日はコタンで過ごされるんですね」
「今のうちに済ませておきたいことがあったからな。ちょうど今終わったところだ」
そう言って「ほら」と帯のあたりを経由して出された拳に深い考えもなく両手を揃えて差し出したら、手のひらの上に置かれたのは獣の牙のような形をした何か。見慣れた形状と根元側の中央に空いた小さな穴でそれがアイヌの人たちお手製の根付であるとはすぐに気付いたけど、私の意識は一瞬で別のことに奪われた。
「わあっ…!」
思わず声が漏れるほどの存在感。私がマキリに付けているものよりも幾分大きなその根付には、繊細な文様が隙間なく彫り込まれていた。
下緒を通す穴の周囲をさりげなく装飾したものなら目にしたことはあったけど、根元から先端まで文様を彫り込んだものは初めて見る。蔦のように絡みついた唐草文や一分の乱れもなく揃った鱗模様はどこを見ても美しく、大変な技術と根気のいる作業だったことが見ただけで伝わってくる。
「すごい、すてき、きれい、かっこいい…!!」
「気に入ったか?」
「それはもう!!」
もっとよく見ようと指先で拾い上げたら、削りたての木の香りが鼻腔をくすぐった。今は明るい木の色は、これから長い時間をかけて艶やかにより美しく変化していくのだろう。キロランケさんの素晴らしい技術や感性が詰め込まれた、本当に見事な根付だった。
「はあ〜……。ありがとうございます、大変結構なお品を拝見しました……」
「戻すな戻すな。そのまましまっておけ」
「え?」
「気に入ったんだろ?やるよ」
「え゛っ」
感動に浸りながら恭しく差し戻したら返ってきたのは手ではなく言葉で、まさかの展開に慌てて首を横に振る。
「いえ、そんなつもりで言ったわけじゃないんです」
「だろうなあ。でもせっかくなまえに渡すために作ったんだ、受け取ってくれ」
「ぬん…?」
ちゃんと言ってもらえるとこんなにもスムーズに理解できるんだなあ。なんて動揺した頭が余計なことを考える。
でもなんで。先日尾形さんからいただいたのは金平糖のお詫びだったけど、キロランケさんから何かをいただくような心当たりなんてそれこそ思い付かない。しかもこんなに手間暇かけたものを。
「本当はマキリ一つ拵えてやりたかったんだが、旅の片手間じゃいつ仕上がるか見当がつかなくてなあ」なんて不満げな言葉を気にする余裕もなく戸惑っていたら、こちらを見下ろし紫炎を燻らせていた顔がふと和らぐ。
「……もしもこの先アイヌの男にマキリを渡されそうになったら、その根付に相応しい出来かよーく見比べてみろ。お前は少しばかり放って置けないところはあっても、なんだかんだよくできた女だ。どれだけダメな夫でも一緒に暮らしていけるだろうが、お前ばかり苦労するハメになるのは俺が気に食わないからな。その根付に相応しいだけのマキリかそれ以上に価値のある何かを用意できるだけ甲斐性のある男なら、お前の苦労も少しは減るだろうよ」
降ってきた言葉に、いまだ自分の手の上にある根付を眺める。
きっとこれは、旭川での話の続きだ。あの時ひとりでいいと言った私にキロランケさんは何も言わずにいてくれたけど、やっぱり最終的にはこの時代でも女性にとって一番の幸せとされる形を掴むための道を示すことにしたらしい。
私の言葉足らずで意図が伝わらなかったのか、理解した上で考え直せと諭されているのか。どうであれこれがキロランケさんの優しさであることに違いはなくて、そして私がその優しさを活かせる日が来ないことも同じくらい確かで。せっかくの心遣いを無碍にする罪悪感らしきものが、じわじわと胸の中を蝕む。
でもまずは善意のお礼を伝えねばと顔を上げたら、ばちりと真剣な眼差しとぶつかった。
「勘違いするなよ。女なら大人しく結婚して家庭に入れだなんて説教するつもりはないし、これから先もお前の生き方を決めていくのはお前自身だ。
……俺の古い知り合いにも、そういう女の幸せってやつを選ばずに生きていくことを決めた女性がいた。強く賢く美しく、そして崇高な信念を持った、俺が心から尊敬する人だ」
そう話しながらここではないどこかを見ているキロランケさんの表情は、柔らかくて、でもどこか寂しそうで。その尊敬する女性はキロランケさんにとって本当に特別で大切な人で、もうずっと長い間会えていないんだろうなと勝手に想像する私を、もう一度宝石のような瞳がしかと捉える。
「お前がひとりで生きていくと決めた理由を俺は知らない。だがこの先その決意が揺らぐくらい離れ難いと思える相手と出会った時には、そいつと一緒にいられる方法をもう一度じっくり考えてみろ。
この先もっといい女になっていくだろうお前を男共が放って置くとは思えないが……一緒にいたいと思う相手が、夫や家族の形に収まるとは限らない。どんな形でも、お前が望んだならそれでいい。
なあなまえ。お前はきっと、ひとりでも生きていける。だが俺は、お前がこの先もひとりきりにならないことを願うよ」
話を聞き終えるまで耐えきれず、俯いて顔を隠した。小さな根付に込められた私の手のひらでは受け止めきれないくらいの温もりに息ができないような気持ちになって、やがて息継ぎをするように顔を上げて笑顔を作る。
「キロランケさん……こんな立派な細工と見比べていたら、それこそ私簡単にお嫁に行けないです」
「当たり前だ、一生食う物に困らせない奴以外俺は認めん」
「元も子もない!」
大げさに反応を返したら真顔を装っていた表情が途端に悪戯めいた笑みに変わって、それに釣られて笑えば胸がすっと軽くなった。
気を取り直して細帯からマキリを外して下緒を解き、もともと付けていた自作の根付を素敵な贈り物と取り替える。繊細な装飾が施された根付と飾り気の一切ない無骨なマキリはいっそ清々しいくらいアンバランスだけど、細帯に通し直せば輪郭を隠すためにゆったりと着込んだ上着のせいで、根付は腰回りの膨らみに隠れて見えなくなってしまった。丸太から立ち上がりキロランケさんにお披露目したら「似合ってる似合ってる」なんてテキトーに言われて、また二人で笑い合う。
「……なまえは今夜は尾形と山で待機だったな。腹の底が知れない奴だが、狩の成果や話を聞く限り腕は確かなんだろ?何かあったとしても指示に従って落ち着いて行動すればいい」
「はい、そうします」
そういえば、キロランケさんは尾形さんが戦っている姿を見たことがないんだっけ。尾形さんはもちろんのこと、キロランケさんから尾形さんに積極的に声をかけている姿も見たことがないなあと普段の二人を思い出していたらふと思いついて、丸太から腰を上げたキロランケさんを呼ぶ。
「キロランケさん」
「ん?」
「…キロランケさんの尊敬する方のお話、機会があればもっとお聞きしたいです」
「……ああ、そのうちな」
その女性は北海道に来る前からの知り合いなのかなとか、どうして私なんかのためにここまでとか。複雑なことなど全て吹き飛ばすように、大きな手にわしゃわしゃと頭を撫で回された。少し乱暴だけど胸のあちこちで心地よいこそばゆさが小さく弾けて、子供じみた小さな悲鳴を上げる。
──もし父さんが生きていたら、成長した私の幸せについてこんなふうに考えてくれたんだろうか。
おこがましいと分かっていても、そんなことを考えずにはいられなかった。
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