既に沈み切った日の名残りで、西の山際が茜色に染まる時分。
薄闇に紛れて山の中の待機場所まで移動するため、私と尾形さんは他の人たちよりも一足先に準備を整えて、コタンの外れまで来ていた。

少し先で足を止めこちらを振り返った尾形さんに頷いて、チセからここまで見送りに出てくれたアシㇼパさんと杉元さん、それから二人に半ば連れ出される形で数歩後ろをついてきてくれた白石さんへ振り返る。

「ここまでで十二分です。見送りまでしていただいて本当にありがとうございました」
「わかった。夜は随分冷え込むようになってきた、なるだけ身体を冷やすな」
「はい。みなさんもどうかお気を付けて」

アシㇼパさんの忠告にしかと頷いてその隣を見上げると、いつもの精悍な顔つきをどことなく翳らせた杉元さんが私を見ていた。こちらから声をかけようと口を開きかけたところで、軍帽の下から穏やかとは言い難い視線が私の背後へと飛ばされる。

「……なまえさんに何かあったらただじゃおかねえからな」
「お前らがこっちに仕事を回さなければいいだけの話だ優男。そんなに心配なら今のうちによーく本人に言い聞かせておけよ、“今夜のことは尾形上等兵殿に全てお任せするように”ってな」
「なまえさん、何かあったらあいつ囮にして逃げな」
「二人とも無事に戻って来られるようにがんばりまぁす」

いよいよある種の安心感さえ覚えてきた会話のドッヂボールを済ませ相手を突き刺さんばかりに指さす真顔の杉元さんからのアドバイスはありがたく別の機会に活かすことにして、チセからの道中、言うか言うまいか考え続けていたことを意を決して告げる。

「……杉元さん。こんなこと、私が言うのは筋違いだって分かりきっていますが……アシㇼパさんのこと、よろしくお願いします」
「…うん、任せて」

向けられた微笑みに、いつかの雪深い山の中、ヒグマの油できらきらと輝いていた彼を思い出した。往々感じる春の木漏れ日のようなこの眩さが彼の簡単には変わらない場所に由来していると気付かされたのも、それから間も無くのことだった気がする。
きっと言ってくれると信じていた返事を聞けたことに胸の内を軽くしながら、隣で私を見上げる唯一無二の双眼を今一度見つめ返す。

「アシㇼパさん。余計な一言なのは重々承知していますが、どうか言わせてください。杉元さんのこと、よろしくお願いします」
「ああ、もちろんだ」

同じく私のためにわざわざ音にされた言葉の温かさに目を細めていたら、ふと二人の後ろでこちらを見ていた目と目がぶつかった。この件ついては未だ言葉を選びきれておらず口をむぐつかせた私に、垂れた眦がさらにその印象を強める。

「おっ、なになに〜?俺にも何か言いたいことあるわけ?」
「……」

茶化すように図星を指されて、下唇に力が入る。
あるにきまってるじゃないか。本当は、二人のことをお願いしますって白石さんにも伝えたい。でも今夜知るどんな真実もその小さな身体で受け止めようとしているアシㇼパさんと、そんな彼女を命がけで守り支えようとしている杉元さんに、白石さんのことも気にかけていてもらいたいと私の立場で口にすることはどうしてもできなかった。

そんな状況で、白石さんだけに私の身勝手なお願いを言えるわけもなく。
だから白石さんにはもし何かあれば自分の身を守ることに集中してほしいと思う反面、二人のことよりもご自分の身の安全を第一にと言い切ることもできず、それに心のどこかで白石さんになら素直な気持ちを伝えてみてもいいんじゃないかと根拠もなく思う自分もいて、だけど金塊のために二人と手を組んでいるはずの白石さんに何を返せるかも定かではない私がそんなことをお願いするのは分不相応だということも理解していて、考えれば考えるほど口にしてもいいと思える言葉がわからなくなって……。

「ゔー…」
「なぁーんで見送りに来てやってそんな不満そうな顔されなきゃなんねえんだよ。まさか今更二人についていきたくなったわけ?」
「…ちがいますぅ……」

一緒にいたいのは常日頃からのことである。
結局思いを口にする決心はつがず、諦めてその場凌ぎの言葉を探していたら「……へったくそだなあ」なんて呆れの滲んだ声が聞こえてきて、じとりと視線を動かした先にあったささやかな笑みに小さく面食らう。

「ま、お互いやることやってこうぜ」
「……はい」
「おい、行くぞ」

それ以上の言葉を交わすより先に背後から掛かった声に返事をして、これから暫しの間付き従うことになる背中を小走りで追いかける。途中でもう一度振り返り、未だこちらを見ている三人に小さく手を振った。



日暮れ前から感じ始めていた風の気配は、監獄北側にある舎房と周辺の見張り小屋を把握できる待機場所に着く頃にはその主張をさらに強めていた。
夜の帳が下り切った今、闇に慣れた目で把握できるのは監獄や山小屋に灯るいくつかの常夜灯と、そばにいると知っている人の朧げな気配だけ。作戦の下準備中に土方さんが用意してくださった双眼鏡を取り出して眼下にあった光の一つを覗いてみたけど、見回り中の看守達の輪郭が少し見えやすくなった程度で、その先に広がる暗闇の中に何があるのか分からないことに変わりはなかった。門倉さんの推察が正しければ今夜のっぺら坊がいるはずの舎房の小窓から漏れ出る薄ぼんやりとした光にも、変化はない。計画通りなら既に当直に入っているはずの門倉さんの宿舎からは、"うっかり"消し忘れた灯りが障子紙越しにわずかに漏れ出ている。

「風が強いな」
「はい。これだと狙撃への影響もすみません失言です余計なお世話でした」

物騒な視線を感じた気がして即刻考えなしの発言を謝罪に切り替える。素人による一般論なんて尾形さんには関係のないことで、この闇や風も彼は既に読み切っているのかもしれない。本当に頼もしい限りである。

それならこれも余計かなとは思いつつ、荷物に括り付けていた毛皮を途中まで広げてその場に敷き、小声で尾形さんに呼びかける。

「尾形さん、差し支えなければ今のうちだけでもこちらにおかけください。下からの冷えと座り心地が少しは変わると思います」

地面には枯れ葉もあるし空気もまだ凍えるような寒さというほどではないけど、この夜の間、尾形さんにはできる限りコンディションを整えていてもらいたい。
先に失礼して左端に腰掛けてみればある程度視界も確保できており、作戦開始時刻まで監獄や見張り小屋を監視するには大きな問題はなさそうだ。毛皮もそれなりに長さがあるから、二人で座っても尾形さんに窮屈な思いをさせることはないだろう。

後の判断は本人に任せてまた双眼鏡を覗こうとしたら、尾形さんの影が徐に動き出して、そのまま私の右隣に腰を下ろした。本当に隣。真横。
座った位置が近すぎる故に、鍛え抜かれた体躯と臀部に押しのけられて膝を抱えるように座り込んでいた身体がやや左側に傾く。せまぁい。

三つ数えても変わらない状況に毛皮を敷いた場所が悪かったのだろうかと思い「場所を変えましょうか?」と提案するも、返事も反応も一切なし。だったら私が移動するかと腰を上げようとしたけど、尾形さんが座った時に上着の裾ががっつりその下に巻き込まれてしまったようで立ち上がれない。

「尾形さん、上着の裾が挟まっているので一度腰を上げていただけませんか?」
「……」
「……」
「……」

なんだなんだ。

不動の尾形さんのお尻の下から無理やり裾を引き抜く気にもなれず、そろりそろりと体勢を戻してみれば、少し重心を変えてくれたのか弾き返されることなく元の位置に収まった。
そのまま動かずにいればこちらの様子を伺うように再び少しずつ身体を寄せられて、互いの隙間がぴたりと埋められる。頬に感じた空気の揺らぎに今さら至近距離に尾形さんの顔があることを意識してしまい一瞬余計なことを考えかけたが、右側面に感じる程よい圧にいくらか寒さが和らいだ気がして、ゆっくりと息を吐いた。
──もしかして。

「…寒いですね」
「……ああ」

へへっ。
胸の内と一緒に溶けた頬を誰に見られることもない闇夜の下に曝しながら、共感の意味を込めて接触面にほんの少し重さを重ねた。
会話がないことに居心地の悪さを覚える時期なんてとうに過ぎたけど、返される声があるというのはやっぱり嬉しいものだと思う。

なんだか無性にこの話をアシㇼパさんに聞いてもらいたくなった。一緒に彼のチタタㇷ゚に気付いた彼女なら、この些細な出来事も一緒に喜んでくれるような気がする。
だけど私の話を聞いたアシㇼパさんが満足げな笑みを浮かべる姿を想像すると同時に、そんな彼女がこれから対峙する長い夜を思い出して、そっと憂いの息を吐く。

ああ、どうか全てが上手く行きますように。
意味がないと分かっていても、何かに願わずにはいられない。


だけどそんな願いも虚しく、数刻後、突如として身の毛立つ叫び声が計画の崩壊を報せたのだった。


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