※この話(網走-8)と次の話(網走-9)は、「門倉が土方へ提供したのっぺら坊の情報は尾形に共有されなかった(杉元たちを出し抜くことは知らされていなかった)」と仮定した話となります。
「尾形には事前に情報が共有されていた」と解釈して読み進めたい方は
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風も距離もあるというのに、舎房の方角から確かに耳に届いた正気を疑う人の声。直後敷地内には警鐘が鳴り響き、方々の建物にぽつぽつと明かりが灯り人影が現れ始める。
詳細は分からないけど非常にまずいことだけは確かな事態に、溢れ出しそうになる余計な感情を抑え込みながらまだ人の気配を感じる小さな格子窓の奥と監獄内を交互に見回していると、突如網走川の対岸に無数の灯火が出現した。そしてその正体を探る間もなく、肌が痺れるほどの衝撃で川に掛かる鏡橋が吹き飛ぶ。
「え…?」
思わずこぼれた声が咎められることはなかった。その後橋と共に飛び散った思考をかき集めてようやくそれが防衛戦の下準備だと気付いたのも束の間、闇夜に溶け込んだ網走川に刹那生まれた光と夜空に響いた橋の爆破に次ぐ轟音によって、再び頭の中はぐちゃぐちゃに散らかる。
「は、やっぱりな」
聞き取れたことが不思議なくらいに静かな声だった。瞬く光が照らす4隻の船からの砲撃で堅牢な塀が崩れ落ちていく光景から目を背けるように見た先には、辛うじて感じ取れる尾形さんの存在。周囲より一段と黒い塊が発した声色はとても冷静で、どことなく嘲笑の色を孕んでいた。
「ここで答え合わせか。結局、俺たちの動向はあの女狐を通して鶴見中尉に筒抜けだったってわけだ」
「……なに、を」
「青森の大湊要港部の司令官は鯉登少尉の父親鯉登海軍少将だ。鯉登少将と鶴見中尉は鯉登少尉の陸軍入隊前から懇意な間柄でな。あの駆逐艦もその伝手で動かしたんだろう」
おおみなとようこうぶとかくちくかんとか分からない単語ばかりだけど、尾形さんが言う“答え合わせ”が彼女を指していることだけはすぐに分かった。分かってしまった。追い打ちをかけるように尾形さんの言葉は続く。
「こんな状況、十中八九鶴見中尉が俺たちを利用しようとした結果だろう。面会なんぞできるわけもないのっぺら坊に会うため監獄に潜り込むとなれば、新月の夜になることはまあ見当もつくからな。
だが俺たちが今夜を侵入の決行日に決めたのは網走に着いてからだ。それなのに旭川で消息を絶った俺たちの数か月後の網走到着を大した誤差もなく把握し、大湊要港部の駆逐艦4隻を引き連れて今夜網走川に潜伏。
第三者からの不確かな目撃情報と憶測だけでここまでのことをやってのけたとしたら、情報将校の割には随分と当てずっぽうが過ぎるとは思わんか?」
「そっ」
そんな、と漏らしかけた言葉を飲み込む。真実かどうかはとかく、そう思うのが自然だということは十分理解できた。
記憶に新しい、私の無事を祈ってくれた彼女の声と姿が頭の中で繰り返される。漠然としていたはずの言葉にどんどん意味が生まれていく。
こうなることを知っていて、余計なことをするなと警告したんだろうか。もしこれが本当にインカㇻマッさんの手引きの上で行われているのだとしたら、その見返りは何なのか。この先に彼女はどんな展開を望んでいるのか。
気付けばあれやこれやと湧き上がる疑問に溺れそうになっている自分がいて、意識を現実へと引き戻す。ここで私がそれを考え込んでも何も得られない。
「大方、杉元たちがのっぺら坊から金塊の在り処を聞き出し脱出したところを取り押さえる腹積もりだったんだろう。だが監獄内の騒ぎで計画の頓挫を察知、混乱に乗じてのっぺら坊とアシㇼパを捕らえる作戦に切り替えたってところか」
淡々と状況を整理していく尾形さんの言葉をなんとか頭にねじ込んでいる間に、連続していた破壊音が止まった。心をかき乱されたまま今一度双眼鏡を覗き込んだ先には、身を隠す必要がなくなった船上で網走川に小舟を下ろそうとしている兵隊たちの姿が。
これで終わりではないことを実感してずしりと胸が重くなる。直後「移動するぞ」とかかった声に顔を上げると、先程まで隣にあった気配を少し離れた場所に見つけた。
「さっさとしろ、恐らくここにも兵士が来る。なんとか中に潜り込んで舎房とのっぺら坊の状況を確認するぞ」
「え?で、でも第七師団が、鶴見中尉が狙っているのがのっぺら坊とアシㇼパさんなら、ここに来る必要なんて…」
「これだけ派手な大立ち回り、当然軍の中でだって黙認されることじゃない。どんな言い訳をするつもりか知らないが、『鶴見中尉の、延いては鯉登少将の行動は正当なものだった』と“生き残った奴ら”が口を揃えて証言すれば、後はどうにでもなる。軍っていうのはそういうもんだ」
一段と低まった声が告げた内容に、薄々勘付いてはいたこれからここで始まろうとしていることをしかと理解して、身体の末端がすっと冷えていく。
「……見張り小屋の、人たちは」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ、親切ぶって警告でもしに行く気か?見つかった途端に撃ち殺されるぞ」
至極真っ当な指摘をされては、もう何も言い返せなかった。私に彼らを救う力はない。
──なら、何ができるのか。
“常に冷静に、自分の身の安全を優先して行動してください。そうすればきっと、この夜の先で大切な人と再会できるはずです”
半日前に聞いた彼女の声が頭の中に響き渡る。
インカㇻマッさんが今回の件にどう関わっているのかも、彼女の言葉の真意も、私にはまだ分からない。でも、ここで立ち止まっているわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない。私は私にできる精一杯のことをするためにここに来たんだ。
蠱惑的な声を手のひらに食い込んだ爪の痛みで振り払い、草木を揺らす音を追って足を踏み出した。
持ち場を離れることもできず眼下の光景をただ眺め続けるしかない看守たちの目を避け、網走川方面から彼ら目掛けて忍び寄る複数の気配をやり過ごし西側の塀の外にある作業場へ至る道に辿り着くまでの間に、網走監獄の混乱は激化の一途を辿っていた。
轟音と共に次々と空高く打ち上がる眩い光から身を隠しつつ、船から目撃されるリスクを承知の上で既に無人となっていた見張り小屋へ上る前にダメ元で裏門を確認すると、何故か脇戸が開いている。一部の看守が怖気付いて逃亡を謀ったのだろうか。罠の可能性も承知の上で慎重に中を確認し身体を滑り込ませた尾形さんに続いた先には、数刻前まで静寂に包まれていた監獄とはまるで別世界の光景が広がっていた。
空から落ちた光の塊は屋根の上でなおも燃え続け、北東へ続く道にはいくつもの人影が無造作に崩れ落ちている。それが道標のようになった先には舎房の一部が見えたけど、遠目にもそこは激しい銃声と怒号が飛び交いこの混沌の中心地と化しており、今更潜り込めるような状況じゃないのは明白だ。
勝手に共鳴し始めた古い古い記憶に引き込まれそうになる頭を「ひとまず舎房の状況を確認できる場所を探すぞ」という声に大きく頷くことで現実へと引き戻し、翻った外套の後に続こうとした時だった。
「尾形!なまえ!」
確実にこちらの存在を認識している耳慣れた声に素早く振り向けば、近くにあった建物の影からキロランケさんが顔を出していた。別れた時と変わりない姿を見て安堵に溺れそうになる心を精一杯律して、周囲に敵がいないことを確認し駆け寄る。
「キロランケさんどうしてここに……!」
「看守と師団の戦闘を避けて迂回していたんだ。お前たちこそ…いや、今はいい。
杉元たちは舎房にはもういない。アシㇼパと白石は脱出に備えて正門で待機していて、俺も今から向かうところだ」
はっきりと明言されたアシㇼパさんたちの無事の報せに、どっと肩から力が抜け落ちそうになった。そんな私に小さく頷いたキロランケさんは、次にその視線を尾形さんへと向ける。
「…舎房にいたのっぺら坊は偽物だった。教誨堂にいる本物を連れ出すために、杉元が一人で向かっている。何も無ければもうそろそろ着いているはずだが……」
つまり私たちは最初から犬童典獄の策略にまんまと嵌められていたのか。行き場のない感情に唇を噛みしていたら、ふと都丹さんの名前がまだ出ていないことに気が付いた。きっとアシㇼパさんたちと一緒だろうと思いつつ顔を上げたら偶然ぶつかった尾形さんの目が私を一瞥し、そのままキロランケさんへと向けられる。
「俺はこのままのっぺら坊と杉元の援護に向かう。あれだけ非常時に備えていた犬童のことだ、教誨堂にのっぺら坊だけを放置しているとは思えん」
「…頼んだ、後で落ち合おう。
なまえ、お前は俺と来い。先にアシㇼパたちと合流するぞ」
そう言うが否や別方向へと移動を始める二人の背中に、考えるより先に身体が動いていた。伸ばした手がそばから離れようとしていた布を掴むと同時に、喉が震える。
「尾形さん」
振り向いた真っ黒な目が私を捉えた。あまり高さの変わらない正面にあるその目を、互いに逸らすことなく見つめ合う。
「お願いします。私も連れて行ってください」
正しい判断なのか分からない。そばにいたところで大したことができないこともわかってる。キロランケさんの指示に従えばアシㇼパさんにもすぐに会えるし、一番迷惑をかけずに済むだろう。
それでも。ほんの少しだけでもまだ私にできることがあるのなら。尾形さんの、杉元さんの
──アシㇼパさんの役に立ちたかった。与えてもらった返しきれないほどの恩に、少しでも報いたかった。そのためにも、ここまで旅をしてきたんだから。
「そんなこと言ってる場合かッ!2人のことは尾形に任せて、お前はアシㇼパのそばに…!」
急いで戻ってきた強い口調の叱責は、私に届く前に目の前でもう一つの手によって制された。見定めるようにじっとこちらを見ていた片目が、ほんの僅かに細められる。
「ついてこい」
「おいっ!」
焦りと苛立ちを含んだ声を無視して、今度こそ教誨堂の方向へと向かう尾形さん。その背中を追うより早く腕を掴まれ見上げた顔は、険しい表情でこちらを見下ろしている。
「バカなこと考えるななまえ。杉元ならきっと大丈夫だ、俺と来い」
「自分にできる精一杯のことをしたいんです。無茶をするつもりはありませんし、尾形さんに不要と判断されたら大人しく正門に向かいます」
「だが、」
「キロランケさん」
正しい言葉を、彼の名前で遮った。
言われたことに大人しく従うべきだと、浅慮で自己中心的な行動だと、今からでも訂正しろと頭のどこかが警告する。それでも今夜私がここにいられるきっかけをくれた尾形さんの言葉と、誤った道を示そうとした私を諭したアシㇼパさんの言葉を思い出して、まっすぐに顔を上げる。
「お願いします、先にアシㇼパさんのところへ向かってください。
アシㇼパさんは、のっぺら坊に会うためにここまで来たんです。会って正体を確かめて、ずっと一人で抱え続けてきた思いに一つの区切りを付けるために、大きな覚悟を持って今夜を迎えたんです。だからその思いが報われるために私にもまだできることがあるなら、ここで引く気はありません」
「……第七師団や看守たちに見つかれば、躊躇なく殺されるんだぞ」
「大丈夫、これでも逃げることと隠れることだけは結構得意なんです。
──それに私、キロランケさんが思っているほどきれいな人間じゃありませんから。目的のために人の命を奪う覚悟も実績も、もう持っています」
見開いた夜に染まった色の目に、「もちろんアイヌの方々にご迷惑はおかけしません。事前に用意もしてあります」と腕を広げコタンで裏返していた上着を主張してみせながら、それよりもまるでキロランケさんや杉元さんがきれいじゃないような言い方をしてしまったことが気に掛かった。嫌な思いをさせてしまっただろうか。でも訂正する時間は今はない。
「だから杉元さんと合流できるまで、アシㇼパさんのことをお願いします。白石さんなら上手くやり過ごしてくれているとは思いますが、この状況で殺気立った敵に見つかればどうなるか分かりませんから。キロランケさんが二人のそばにいてくだされば安心です」
全て言い切って口を閉じれば、久々の沈黙が互いの間に生まれた。納得はしていないのだろう。だけど少しの間険しい表情で私を見下ろしたままだった顔が、ふと、どこか諦めたように眉尻を少しだけ下げ、同時に解放された腕からすっと熱が逃げていく。
「……絶対に、無茶はするなよ」
その顔に小さく笑い返して、今度こそ踵を返した。
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