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◇◇

 朝食を終え、日課である彼女の"家族"たちに朝の挨拶を済ませた後、裏庭で日光浴をさせられている。…というのも、
 
「私、貴方の真っ白な肌好きよ。でも、あまりお日様の下に出ずにいると、色々と不調が出てくるものなの。傷の具合も良くなってきたし、ここで木々たちを眺めながら日向ぼっこしててね!」
 
 と、強制的に連れてこられたからだ。
 一度は余計なお世話だと断ったが、また車椅子大回転をお見舞いされそうになったので、渋々承諾してしまった。そんなオレを連れてきた本人は、さっさと屋内に戻っちまったが。アンタだって外に出ないし、他人の事言えないだろうに。
 
 仕方無い事とは言え、ここに来てからオレのペースが乱されっぱなしだ。だが、最初こそうんざりするものの、不思議と悪い気はしなくなってくる。こんなに穏やかで、何も考えずにいられる時間なんて、あの日から一度も無かったからだろう。人間らしい生活なんて、長らくしていなかったんだ。
 
 …暖かい。陽の光が、心地良い。
 
 久しぶりの日光に気分良くしていると、屋内から何か聴こえてきた。
 ヴァイオリンの音──女史は、いつもこの時間にヴァイオリンを弾いている。その後は、ピアノの音色が聴こえるはず。幼い頃からの習慣だとかで、どちらも練習を欠かせないらしい。
 
 綺麗な音色だ。それは宛てがわれた部屋に居ても、書斎を借りて設計図を作っている時も聴こえてきた。これまで楽器には縁もゆかりも無かったし、興味も無い。でも、女史が奏でる音色の耳触りが良くて、音楽も悪くないと思い始めている
 一度、ちゃんと聴いたらどう感じるのだろう──気付けば車椅子を動かし、音がする方に向かっている自分がいた。
 
 ──ガチャッ…
 
 なるべく音を立てないよう、そっとドアを開ける。だだっ広い部屋の真ん中でヴァイオリンを弾く彼女は、あの子供っぽい姿からは想像できない程淑やかで、なんだか輝いていると感じた。
 
「…あれ?どうしたの?日向ぼっこは?」
 
 こちらを一瞥した彼女は演奏を止め、ヴァイオリンをソファに置く。こっそり聴くつもりが、すぐにバレちまうなんて。どこか気恥ずかしくて、とてとてと駆け寄ってくる彼女を直視出来ない。
 
 一体、何て説明すれば良いんだ?「演奏が聴きたかった」なんて、安直過ぎるだろう。そんなの…
 
「あっ、わかった!私の演奏、聴きたくなったんでしょ?」
 
 満面の笑みで覗き込んでくる女史に気圧されて、視線が迷子になってしまう。ああ、これじゃどう言い訳しても無駄だ。何を言っても、目が泳いだ時点でオレの負けでしか無い。
 
「別に、音楽なんて興味ありませんが。毎日部屋まで聴こえてきてたら、どんなもんか気になるでしょ?」
 
 なるべく平然を装いながら、苦し紛れに返事をする。だが、彼女はオレの心を見透かしているのか、より嬉しそうに口角を上げ、鈴の音のような声で笑い始めた。
 
「もう、それならそうって言ってくれれば良いのに。貴方ってば、素直じゃないのね」
「興味無いって言ってんでしょうが」
「ふふっ、はいはい…じゃあ、こっち来て。聴かせてあげるから」
 
 すっかり上機嫌な女史に言われるまま、さっきまで彼女が弾いていた辺りに移動する。ヴァイオリンの音色を、こんな至近距離で聴くのなんて初めてだ。そもそも、これまで音楽を聴く余裕なんて無かった。時間の余裕も無かったし、金なんてもっと無かったから。
 
 要らない思考を払うように頭を振り、ヴァイオリンを構えながらこちらを見つめてくる女史に対して、適当に拍手を贈る。すると、彼女は柔らかく微笑んだ後、美しい所作で弓を動かし始めた。
 もし、部屋で聴いていた時の印象程の演奏でなければ、「金持ちの道楽の賜物ですか」なんて嫌味の一つでもくれてやったかもしれない。だが、そんな意地悪をする気には到底なれなかった。至近距離で聴く彼女の音楽は、壁越しに聴くのとは比べ物にならない程綺麗で、洗練されていたから。
 
 芸術の事なんてわからないし、この曲が何なのかも知らない。でも、音の一つひとつが煌めいているようで、気持ちの良い曲だと思う。こちらの邪念を洗い流すようなソレは、まるで魔法のようだ。 
  
 …魔法、なんて。何を言ってるんだか。
 
「ご清聴ありがとう♪ねぇ、どうだった?」
 
 演奏を終えて、満面の笑みでこちらの様子を伺う女史。その瞳は、賞賛への期待で輝いていた。どうやら、楽器の腕にはよっぽど自信があるらしい。端から悪い評価を得る事なんて無いとでも思っているような、そんな様子だ。
 
 事実。賞賛する他無い、素晴らしいものだった…が。
 
「オレには、芸術の善し悪しなんてわかりません」
「えー?」
「でも、まぁ…良かったです」
 
 素直に褒めれば良いものを、オレのひねくれた心がそうさせてはくれなかった。普段から上っ面の褒め言葉なら簡単に出てくるのに、嘘偽り無い言葉を言おうとすると、喉の奥でつっかえてしまう。他人を認める行為が、堪らなく癪に思えてきてしまうから。
 
 助けてもらったあの日、女史の事をべた褒めしたのは、オレにとって珍しい事だった。あの時は彼女のギャップが面白かった事もあったし、軽い気持ちで「可愛い」だの何だの褒めちぎる事が出来た。"氷の女王"だとか呼ばれる程に冷淡な彼女の、あまりにも初心な反応を見る事で、自分が優位に立てていたような気がして…それが理由だと思っていた。
 
 ここに来て数日経った今では、気が付けば自発的に褒めなくなった。彼女の反応を見る事に飽きた、というわけでは無い。ただ…
 
「えへへ。良かったなら、それで良いの!じゃあ、次はこっちに来て!」
 
 どうやら、あんな面白みの無い褒め言葉でも満足したらしい。女史は満面の笑みを見せたかと思うと、オレの車椅子を引き、ピアノの前に移動させた。
 
 今度は、何が始まるというのか?それを聞く前に、彼女は答えを提示した。
 
「ピアノ、少しだけ弾いてみない?音楽って、楽しいんだよ」
 
 「まずは片手で。一緒に弾いてあげるから」と言った女史の手によって、オレの手は半ば強制的に鍵盤の上に移動させられた。
 彼女の小さくて綺麗な手が、骨張って見栄えもしない手に重なっている──何故か心が落ち着かないでいると、いつの間にか指を鍵盤に押し込まれていた。
 
 指が沈むと、ピアノから音が鳴り響く。そしてひとつ、またひとつ押し込んでいく度に、どんどん違う音が出てくる。ピアノの存在は知っていたし、どういう原理で音が鳴るのかも知っている。だが、実際に触れるのはこれが初めてだった。
 不格好で、音も固い。ただ音を出しているだけで、女史が奏でていた音楽とは程遠い代物。これじゃあ、芸術性の欠片も無い。いや、彼女に指を動かしてもらってこれなのだから、もはや比べられる舞台に立てちゃいないか。
 
 だが、それでも彼女は「上手だね」「綺麗な"音楽"だね」なんて言ってくれるものだから、オレは──
  
「ふふっ。ドレッバー、楽しそう」
 
 その言葉にハッとなり、反射的に手を引っ込めてしまう。楽しそう、なんて。今のオレは、どんな表情になっていたんだ?考えれば考える程、頭が混乱して仕方なかった。
 
「そ、そういえば」
「ん?」
「さっきの曲、何ていう曲なんです?」
 
 戸惑いを誤魔化そうと尋ねてみると、可笑しそうにクスクスと笑う女史。
 オレの心中を察したのかはわからない。ただ、彼女はひと言
  
「『愛の挨拶』って曲だよ。とっても柔らかで、優しい挨拶。まさに、朝にピッタリでしょ?」
  
 簡潔に述べて、美しく微笑むだけ。そんな彼女に対し、「そりゃ、悪くないですね」なんて返ししか出来ず、泳ぎそうになる視線を誤魔化すように、鍵盤を凝視する。
  
 あの夜から、オレの身体は機械のようにぎこちない動きしかできない。あの光景が染み付いて、恐ろしくて堪らないから。ならばいっそ、何もかも機械のような人間になってしまおう。表情だって、上っ面で作れば良い。心を持つより、その方が楽だ。もう、自分の"人間くさい"部分なんて、自覚したくも無い。

 そう思っていたのに。
 まるで、自分が"人間"に戻っているようで──一瞬でも"心地良い"と感じてしまった事が、酷く恐ろしかった。

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