誰かの同伴なしには、屯所の外にも出られない。
これでは角屋に潜入することもできないし、お店にも迷惑がかかると思って、もう私は芸妓になることも控えるようになった。
不服と言えば不服だけれど、土方さんや近藤さんだけでなく沖田さんや山崎さんにもそうきつく言われているので仕方がない。
逆らったらそれこそ後が怖いから、私は大人しく屯所で雑用をしている。
夜になっても寝付けず、暇を潰すためにと思って隊士たちから預かった衣を繕っていると、遠くで大きな音が聞こえた。
何かを破壊するような音。
どうやら門の方向のようだ。
手を止め、様子を伺おうと息を潜めて耳を澄ませていると、障子に誰かの影が映った。
「なまえ、いるか?」
「はい、どうぞ」
私の答えに障子を開けたのは、山崎さんだった。
その表情は真剣そのもので、僅かに焦りが滲んでいる。
自然と、私にも緊張が走る。
「何かあったんですか?山崎さん」
「風間たちが門を破って屯所内に侵入した。灯りを消して、このまま部屋を出るな」
彼はそれだけ言うと、私の返事も聞かずに障子を閉めてどこかへ行ってしまった。
風間たちということは、きっと天霧や不知火も一緒に来ているのだろう。
きっと彼らの狙いは、私と千鶴ちゃん。
これが、お千ちゃんの言っていたことなのかもしれない。
言われた通り、行灯の火を消してじっと息を潜める。
西本願寺の敷地は広い。
私の部屋はかなり奥まった場所にあるけれど、こうして息を潜めていると、遠くの喧騒が届いてくる。
今こうして屯所が襲撃を受けているのは、私がここにいるからだ。
それなのに、私はこのままここで隠れていてもいいのだろうか。
鬼の力は、強い。
いくら羅刹がいたとしても、苦戦を強いられているだろう。
でも、私が出て行って一体何ができるだろうか。
私の腕では、鬼の前には無力だ。
むしろ、足手まといになってしまうかもしれない。
今の状態で、私にできることはあまりにも少なすぎる。
自分の無力さに、唇を噛んだ。
そのとき、突然部屋の障子が開け放たれる。
驚いて視線を向けると、そこには金色の髪を持ったあの男が佇んでいた。
「このような場所に隠れていたか」
低い声が響く。
その片腕には気を失っている千鶴ちゃんが抱えられているのに気付いて、小太刀に手をかけた。
「千鶴ちゃんを、放してください」
「自分が何者なのか、あの女鬼から聞いたはずだ。共に来い」
相変わらず、私と対峙するときのこの人は敵意というものを持ち合わせていない。
「たとえ私にあなたと同じ血が流れていようと、私は行きません。ここに残ると決めました」
ここにいると、あの人の傍にいると決めた。
私には、血の繋がりよりも過ごしてきた時間の方が大切だ。
頑なな私の言葉に、風間は眉を顰める。
「お前は我が風間家の鬼。このような場所にいるべきではない」
「私がどこにようと、私の勝手です。あなたに決められる筋合いはありません。たとえ、あなたが私の兄であったとしても」
何と言われようと、私の決意が変わることはない。
そのことを彼も察したのか、さらに険しい表情を浮かべる。
「ならば仕方あるまい。力ずくでも連れて行くまでだ」
瞬きをした瞬間、距離を取っていたはずの風間が目の前に迫る。
驚いて後ずさる間もなく、鳩尾に痛みを感じたのを最後に、私は意識を手放した。
気が付くと、私は境内の灯篭にもたれるようにして寝かされていた。
顔を上げようとして、鳩尾あたりに痛みを覚えて顔を顰める。
視線を巡らせれば、少し離れた場所に対峙する土方さんと風間さんの姿があった。
さっきまで刃を交えていたであろう土方さんと風間さんの間に、千鶴ちゃんが小太刀を抜いて構えている。
「土方さん!千鶴ちゃん!」
私が目覚めたことに気付いた風間の隙を付いて、土方さんが千鶴ちゃんを抱き寄せて庇う。
私も立ち上がって小太刀を抜き、土方さんの隣に並んだ。
そんな私と千鶴ちゃんの姿を見て、風間は眉を顰める。
「お前たちは、何故人間に組する」
その口調は、本当に信じられないとでも言いたげだった。
「どうせ最後は裏切られるだけだぞ。あの作り出されたまがい物の鬼を見ただろう。あんなものを作り出す愚かな者と共にいることに、何の意味がある?」
まがい物の鬼とは、きっと羅刹のことだろう。
「それでも、信じているから…」
千鶴ちゃんの答えにさらに険しい表情を浮かべた風間は、私へと視線を向けた。
「雲居の一族の話を聞いたはずだ。お前の同胞は、人間に滅ぼされた。そして生き残ったお前も、いずれ人間共に狙われる。それを知った上で、何故そこまで人間に執着する?」
風間の言っていることは間違っていない。
たしかに私の一族は、人間に滅ぼされたのだろう。
この身体に流れる血を巡って、一体何人が犠牲になったのかなんて考えたくもなかった。
「あなたの言う通り、私の身体に流れているのは鬼の血なのかもしれない。雲居の血とやらを受け継いでいるのかもしれない。でも…」
この身は、人間ではない。鬼だ。
だけど、それが全てなんかじゃない。
「たとえこの身が鬼だとしても、心は人間です。雲居という姓を持つ鬼でも、私は新選組のみょうじなまえであって、それ以外の何者でもない」
今更鬼として生きろと言われても、無理な話だ。
今までずっと、私は人間として生きて来たのだから。
「彼らは、鬼である以前に…私自身を見てくれている。信じてくれている。だから、私も彼らを信じているんです」
千鶴ちゃんと同じように、私も信じている。
新選組にいる彼らを、幼い頃から知っている彼らを心から信じているから、私はここにいる。
私の決意が余程固いことを察したのか、風間は険しい表情のまま刀を鞘に納めた。
いつの間にか、その背後に天霧と不知火が佇んでいることに気付く。
二人も、それぞれ険しい表情でこちらを見ていた。
「興が削がれた。行くぞ」
風間が身を翻して門へと歩き出す。
不知火と天霧は立ち止まったまま、私へと視線を向けている。
「おい、なまえとか言ったか」
「え…はい」
突然名前を呼ばれて驚きながらも返事をすると、不知火は視線を下げて口を開く。
「死ぬんじゃねえぞ」
彼はそれだけ告げると、身を翻す。
天霧もその後に続き、三人の鬼は忽然と姿を消した。
小太刀を収めながらまわりと見渡すと、建物にも被害が及んでいるようだ。
きっと、西本願寺のお坊さんたちから、また嫌がられるだろうなとぼんやりと考える。
「よっ、かっこよかったぜ、なまえ」
「新八さん…ありがとうございます」
突然頭を軽く叩かれ、かけられた声に振り返ると、そこには新八さんがいた。
あんなことがあった後なのに明るいのは、さすが彼と言うべきだろう。
「だけど、あんまり無茶するとまた怒られるぞ?」
「にやにやしながら言うのはやめてください」
少し離れた場所で被害の状況を確認している山崎さんを指差して茶化す新八さんを、軽く睨む。
そして、きっと後でお小言を頂くのだろうなと思って、私は小さく溜息をついた。
それから八ヶ月ほど過ぎた、慶応三年の十一月。
西本願寺を屯所としていた私たち新選組は、その頃には屯所を不動堂村のとある屋敷に移していた。
予想していた通り、西本願寺のお坊さんたちから見て私たちは相当厄介な存在だったのだろう。
新しい場所を提供するから屯所をそちらに移してくれ、と言い出したのは彼らだった。
ただでさえ長州に敵対する新選組だというのに、その上騒がしくされてはたまらない、と思ったに違いない。
でも、そのお陰で立派な屯所に移れたのは、幸運だった。
「沖田さん、ちゃんと寝ていてくださいと昨日言ったばかりじゃありませんか」
薬と白湯を手に沖田さんの部屋に向かうと、彼は布団から上体を起こし、開け放した障子から外を眺めていた。
彼は私に気付いて、悪びれる様子もなく笑顔を向ける。
「ああ、なまえちゃんか。そろそろ薬の時間だと思って起きてたんだよ」
「気を遣ってくれるのは有難いですけれど、身体を冷やすのはよくありませんよ」
障子を閉め、傍らに座って薬を準備する私を見ながら、彼は苦笑した。
「病気のことは、君にも知らせないでって言っておいたはずだったんだけどな」
「そういうわけにも行きません。少なくとも私と山崎さんは医療担当なんですから、知っておく必要があるんです。はい、お薬ですよ」
沖田さんに薬を手渡しながら、それから、と続ける。
「一応確認なんですけれど、千鶴ちゃんも沖田さんの身体のことを知ってるんですよね?」
そう言った途端、沖田さんの瞳が少しだけ鋭くなる。
「なんだ、喋っちゃったんだ、あの子。案外口が軽いんだね。もし誰かに喋ったら斬るよって言ったはずなんだけど」
「違いますよ。彼女は誰にも話していません、もちろん私にも。でも、彼女の様子を見ていれば分かります」
あまりに予想通りの答えが返ってきて、半ば呆れながら否定する。
それを聞いた沖田さんは、再び笑みを浮かべた。
「ああ、そっか。分かりやすいからね、千鶴ちゃんって」
「純粋なんですよ、あの子は。それで話を戻しますけど、これからは彼女にも、隊士の健康管理を手伝ってもらおうと思っています」
これは、山崎さんと相談して決めたことだ。
千鶴ちゃんは綱道さんの手伝いをしていたこともあって、医術にはそれなりに明るい。
人手が増えるのはもちろん嬉しいし、沖田さんの容態に気を回せる人間が増えるのはとても助かる。
きっと今頃、山崎さんが彼女にその話を持ちかけているだろう。
「それは、僕の看病も含まれてるのかな?」
「はい。ですから、これからは千鶴ちゃんの言うことも聞いてくださいね」
「なまえちゃんがそう言うなら、努力はするよ」
沖田さんはそう言って、薬を飲み込んだ。
遡ること一ヶ月前の、慶応三年の十月。
幕府が朝廷に政権を還す所謂大政奉還により、幕府と朝廷は新しい時代を迎えた。
そしてその一ヶ月後の十一月、歴史の立役者であった坂本龍馬が暗殺される。
坂本龍馬と言えば、角屋で私を贔屓にしていた浪士だ。
敵とはいえ大らかな人柄だったから、亡くなってしまったのは少し惜しい。
そして一番問題だったのは、その坂本龍馬の暗殺された場所に、左之さんの刀の鞘があったということ。
もちろんそれは偽物で、彼の鞘はちゃんと彼が所持していた。
つまり、何者かが新選組の仕業にしようとしている、ということだ。
これから激しく時代が動いて行くことを、そしてそのうねりに新選組が飲み込まれていくことを、このときの私はまだ知らなかった。
それから数日後。
近藤さんに集まるよう言われて広間へ行くと、そこには近藤さんと土方さん、幹部の皆、そして斎藤さんの姿があった。
無事な姿を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「斎藤…?なんでここに…」
「本日付で、斎藤は新選組に復帰する」
新八さんの戸惑った声に、土方さんが答えた。
「どういうことだ?」
「斎藤君はトシの命を受けて、間者として伊東派に潜伏していたのだ」
近藤さんの答えに、皆は一様に驚いた顔をしている。
「なんだ、一君。僕に内緒で、そんな楽しいことしてたんだね」
「近藤さんたちも人が悪いよ…」
「極秘だったのでな。黙っていて、皆にはすまんことをした!」
安堵したような、呆れたような新八さんの溜息に対して、近藤さんは声を上げて笑う。
「あ…お茶を淹れてきます!」
「ああ、うんと熱いのを頼むぞ、雪村君」
「はい!」
千鶴ちゃんが立ち上がり、部屋を出て行く。
それを見計らって、斎藤さんが静かに口を開いた。
「伊東派の動きに関してだが、新選組に対して、明らかな敵対行動をとろうとしている」
「敵対行動…?」
敵対行動、とはどういうことだろう。
事前に話を聞いている様子の土方さんが、険しい表情で告げる。
「伊東の奴、幕府を失墜させるために、羅刹隊の存在を公表しようとしてやがる。坂本暗殺に原田が関与しているという噂を流し、新選組を陥れようとしているのも奴らだ」
「なんだって?」
「まさか、伊東さんたちだったなんて…」
「伊東…小賢しい奴だ」
あの人はもともと好きではなかったけれど、ここまでくると苛立ちを覚える。
新選組に連なったのも、この為なのではないかとすら思えてくる。
「差し迫った問題がもうひとつ」
再び口を開いた斎藤さんに、まだ何かあるのか視線を向けた。
「伊東派は、新選組局長の暗殺計画を練っている」
「暗殺…!?」
「近藤さんを…?」
沖田さんの瞳が鋭く光った。
私にとっても彼にとっても、近藤さんはまるで父のような存在だ。
幼い頃から面倒を見てくれて、今でもその恩義は忘れていない。
その近藤さんを暗殺しようとするなんて、命知らずにもほどがある。
「というわけだ。伊東さんには死んでもらうしかないな」
「御陵衛士と事を構えるってことか?」
「やむを得まい」
近藤さんもこのときばかりは、瞳を閉じて頷く。
新選組に害を及ぼすような、ましてや近藤さんの暗殺を企むようであれば、仕方ないことだ。
でも、御陵衛士と完全に敵対するということは。
「平助はどうすんだ?」
私の考えていたことを口にしたのは、新八さんだった。
その場に沈黙が降りる。
平ちゃんは、若いとはいえ試衛館からの古株だ。
所属している場所が違くても、私たちは仲間だと思っている。
その沈黙を破ったのは、相変わらず険しい表情を崩さない土方さんだった。
「刃向うようなら、斬るしかねえだろ」
その冷たい声に驚いたのか、お茶を淹れてきてくれた千鶴ちゃんが障子を開いたまま、目を見開いて土方さんを見ている。
土方さんは、そのまま広間を出て行ってしまった。
千鶴ちゃんが土方さんを呼んだけれど、彼はそのままどこかへ行ってしまう。
彼女はこちらに視線を向けると、拳を握りしめて口を開いた。
「いいんですか?皆さんは、平気なんですか!?」
「そんな訳がなかろう。トシだって、本心では助けたいと思っているんだ」
近藤さんが、至って冷静に答える。
その通りだった。
いくら鬼の副長と言われる人だとしても、情を持たないわけじゃない。
けれど、もし私たちに刃向かうのであれば、みすみす殺されるわけにもいかない。
ここで弱みを見せるわけにはいかないのだ。
昔から一緒にいるからこそ、あの冷たい声の裏に隠されたものを感じることができる。
だからこそ、辛い。
近藤さんは立ち上がると、千鶴ちゃんの横を抜けて出て行く。
それに続いて、左之さんや新八さん、源さんも広間を出て行って、残ったのは私と千鶴ちゃん、そして斎藤さんだった。
「すみません…取り乱してしまって」
「皆、千鶴ちゃんと同じで平ちゃんを助けたいとは思ってる。でも、それだけじゃいけないの。個人の感情で、どうにかできる問題じゃないから」
これは、組織と組織の問題だ。
個人の意見云々で決められることではないし、平ちゃんは斎藤さんのように間者というわけではないから、簡単に言ってしまえば敵になる。
きっと御陵衛士は、近いうちに終わるだろう。
立ち上がって広間を出て行きながら、私はそう考えていた。
伊東さん暗殺決行の日の夜。
土方さんと近藤さんは伊東さんの接待、左之さんと新八さんはおびき出した御陵衛士の始末、そして斎藤さんと千鶴ちゃんは平ちゃんの説得に向かっている。
私は沖田さんの様子を見ているようにと土方さんに言われているから、屯所に残っていた。
「皆、うまく行ってるといいですね…」
布団に身体を横たえる沖田さんの傍らに座りながら、呟く。
沖田さんは軽く笑って、それから咳き込んだ。
大丈夫かと尋ねようとしたとき、障子に人影が映った。
誰かと声を上げる前に、障子が開く。
現れたのは、千鶴ちゃんによく似た女の子だった。
「誰かと思ったら、よくここまで来られたものだね」
沖田さんが、上体を起こしながらそう言った。
彼女は千鶴ちゃんによく似ているけれど、今頃千鶴ちゃんは平ちゃんに会っているはず。
それに、雰囲気が全く違う。
「沖田さん、この人は…?」
彼は私の問いには答えず、私を背に庇うようにその女の子に向かい合う。
「初めまして、なまえさん。私は薫と申します」
「どうして、私の名前を…?」
「どうかご安心を。沖田さんに、いつぞやのお礼に参っただけです」
千鶴ちゃんよりも幾分低い声でそう言って、彼女は微笑んだ。
「お礼…?」
彼女が懐から取り出したのは、赤い光を放つあの液体。
「それは…!」
どうして、部外者であるはずの彼女がこれを持っているのだろうか。
「なんで、君がこれを?」
「綱道さんから頂きました」
「綱道さんって…あなたは綱道さんとお知り合いなんですか?」
思わず尋ねると、薫と名乗った彼女は微笑む。
「私の父です。そして千鶴は、私の双子の妹」
「双子…?」
「ええ。あなたと千春さんと同じように、私と千鶴も双子なのです」
千鶴ちゃんの血縁ということは、彼女自身も鬼だということだ。
だから、私や千春のことも知っているのか。
「私たちの生家が倒幕の誘いを断って滅ぼされた折り、千鶴は綱道さんに、私は土佐の南雲家に引き取られて、離れ離れになってしまったのです」
「じゃあ、君も鬼なんだね?」
「ええ…冷静ですね、沖田さんは」
ただ淡々と、薫さんは話を続ける。
「病のことは千鶴に聞きました。この変若水を呑めば、蝕まれた身体も治ります」
その言葉に、沖田さんは瞳を細めて刀を握った。
「あの子は、僕の身体のことを人に話したりしない。誰かに言ったら、斬るって約束だからね」
それを見ても、薫さんは微笑むばかり。
まるで、挑発しているようだった。
「今のあなたに、戦えますか?」
「僕は…僕はまだ戦える!」
「沖田さん…!」
私が止める間もなく、沖田さんが抜刀して刀を振るうけれど、そこに薫の姿はなかった。
その直後、彼女は縁側にふわりと降り立つ。
そしてこちらを見て嘲笑ともとれる笑みを浮かべると、障子を閉めた。
慌てて障子を開けてみても、もうそこには誰もいなかった。
再び障子を閉めて沖田さんを振り返ると、彼は変若水を手にしてじっとそれを見つめている。
「まさか、それを飲もうだなんて、考えていませんよね?」
嫌な予感がして、彼の傍らに座りながら尋ねる。
沖田さんは何も答えない。
それが、私の不安をさらに掻き立てる。
「羅刹になろうだなんて、思っていませんよね…?」
「なまえちゃん」
縋る思いで問う私に、沖田さんは静かに口を開いた。
「君が心配するようなことは、何もないよ。これは、僕が山南さんに渡しておく」
そう言って彼は微笑んで、変若水を懐へとしまい込んだ。
油小路での乱闘が終わり、傷だらけの平ちゃんが屯所に運び込まれてきたのは、それからすぐのことだった。
左之さんたちの話によると、御陵衛士との乱闘の際、天霧と不知火が薩摩藩士を引き連れてやって来たそうだ。
圧倒的な戦力差の中で、天霧は千鶴ちゃんと私を差し出せば新選組は見逃すという取引を持ちかけたと言う。
もちろんそれに応じることはなかったけれど、再び始まった乱闘の中で、平ちゃんは天霧の拳を受けたらしい。
怪我の様子を見た山崎さんが、険しい顔つきになる。
私から見ても、平ちゃんが助かる見込みが限りなく少ないのが分かった。
このままでは、彼は助からない。
でも、このまま見ているだけというのも嫌だ。
それなら。
「何をするつもりだ、なまえ」
護身用にいつも懐に忍ばせている小刀を取り出すと、すかさず山崎さんが私の腕を掴んだ。
私が何をしようとしているのか察したのだろう、その表情はいくらか慌てているようにも見える。
「私の血を飲ませれば、助かるかもしれません」
「駄目だ」
「どうしてですか?やってみる価値はあるはずです」
「そうすることを、藤堂さんが望んでいないとしてもか?」
その言葉に、私は何も言えなくなって口を閉ざした。
目の前で苦しそうに呻く平ちゃん。
彼の生死は、彼自身が選ぶことだ。
きっと彼は、私の血に特別な力があったとしても、今自分が死にかけていようとそれを口にしようとはしないだろう。
彼がそんな人ではないことなんて、分かっている。
でも、だからと言って、このままでは本当に彼は命を落としてしまう。
「それなら…それなら、一体どうすればいいんですか…?」
「藤堂君の容態はいかがです?」
突然障子が開いて、山南さんが姿を現した。
その表情には何も浮かんでいない。
私たちの様子と平ちゃんの様子を見て、彼は眉を顰める。
「二人とも、あとは私に任せて出ていてくれませんか?」
「何をするつもりですか?まさか、平ちゃんに変若水を飲ませる気じゃ……」
「そうでもしないと、彼は助からないでしょう。飲むか飲まないかは、彼に決めてもらいます」
さらに言い募ろうとする私の腕を引いて、半ば強引に山崎さんが部屋を出て行く。
「待って下さい山南さん!山南さん!!」
私の叫びも空しく、私の目の前で障子が音を立てて閉まった。
また、私には何もできなかった。
治らない傷を抱え、それを補う為に、大切な人たちが羅刹になっていく。
この手はまた、何をすることもできなかった。
そして、平ちゃんが羅刹になったという情報が私にもたらされたのは、その翌日のことだった。
それから一月後の、十二月。
京都では、薩長両藩が本格的に軍備を整え、軍隊を集結させていた。
新選組もそれに対抗する為に伏見奉行所に入り、戦闘に備えることとなった。
「怪我ももう良くなったみたいだね。良かった」
「おう。もう前と変わらない気がするよ」
布団から上体だけを起こした平ちゃんが、大きな欠伸をしながらそう言った。
彼はもう、ほぼ以前と変わらない生活ができるようになっている。
ただひとつを除いて、だけれど。
今は昼間。
羅刹となった彼にとって、この時間に起きているのは辛いことだろう。
彼はもう昼夜が逆転していて、普段なら眠っているはずの時間だ。
「ほら、まだ眠る時間でしょう?」
「ああ……羅刹って、やっぱり不便だな」
苦笑いを浮かべながら、平ちゃんはぽつりと呟いた。
「変若水を飲むって決めたのは俺自身だけどさ、昼間起きてるのがこんなに辛いなんて思わなかったよ」
何も言えない私に気付いて、彼は困ったように笑う。
「ごめんな、こんなこと言ったってどうにもならないのにさ」
平ちゃんはそのまま布団に潜り込んで、おやすみ、と言って背を向けてしまった。
その背にかける言葉も見つけられずに、私はおやすみ、とだけ返して部屋を出る。
何もできないことに情けなさを感じながら廊下を歩いていると、反対側から千鶴ちゃんが駆けてきた。
「あ、なまえちゃん!」
「どうしたの?そんなに急いで…」
「今、お千ちゃんと君菊さんが来てるんだけど、聞いて欲しい話があるって」
千鶴ちゃんの後に続いて座敷に入ると、そこには土方さんとお千ちゃん、そしてその少し後ろに控える君菊姐さんの姿があった。
お千ちゃんは私の姿を見て微笑む。
「お久しぶり、なまえちゃん」
「お久しぶりだね、お千ちゃん、君菊姐さん」
軽く挨拶を交わして座ると、土方さんが口を開く。
「本来ここは、部外者は立ち入り禁止なんだが…一体何の用だ?」
「ごめんなさい。どうしても、今日しなければならない話があったものですから…」
お千ちゃんは真剣な表情で告げる。
「話というのは他でもありません、羅刹のことです」
「羅刹?」
彼女の言葉に、土方さんは眉を顰めた。
まさか彼女の口から羅刹という言葉が出てくるとは思わなくて、私も驚く。
「単刀直入に伺います。彼らは失敗作なのに、いつまで使うつもりなんですか?」
非難の色を浮かべた声で彼女は続けた。
「あれはあなたがたの手に余るもの。これ以上、新選組は羅刹に関わるべきじゃありません」
「失敗かどうかは俺たちが決めることだ。あんたにごちゃごちゃ言われる筋合いはねえ」
「では、その羅刹の方が見回りと称して辻斬りをしているのはご存知ですか?」
君菊姐さんが発した言葉に、土方さんは驚いて切れ長の目を開く。
「なに…?」
「辻斬りって…どういうことですか?」
どういうことか分からず、君菊姐さんに尋ねる。
「そのままの意味です。彼らが突然壊れる症状は、何ら改善されていません。都の治安を守るのが役目である方々が罪もない民を斬るなんて、本末転倒もいいところです」
たしかに、夜の方が動ける羅刹隊が、夜中に見回りをしているのは知っている。
だけど、辻斬りなんてそんなことをするとは思っていなかった。
この二人のことだ、嘘はついていないだろう。
「それからもうひとつ」
そう言ってお千ちゃんは、私と千鶴ちゃんへと視線を移した。
「千鶴ちゃん、なまえちゃん。ここを出て、私たちと一緒に来ない?」
「え…?」
突然の誘いに、私と千鶴ちゃんは驚きを隠せない。
「その話なら、前に断ったはずだけど……」
「もうじき、京は戦場になります」
「今は、あの時とはもう状況も違うわ。二人も、それは分かってるでしょう?」
お千ちゃんの言葉に、思わず視線を下げる。
それは、分かっている。
あのときよりも、新選組は危うい状況に立たされている。
きっとそのうち、戦いに飲み込まれていくことになるだろう。
私の隣に座る千鶴ちゃんも、俯いている。
「それに、あなたたちが私たちと来れば、この人たちも戦いに専念できる」
二人の様子を見れば、私たちの身を案じてくれているのはすぐ分かった。
だけど、私は決めたのだ。
「せっかくだけど、私はここに残る。ここで私にもできることがあるから」
顔を上げてそう告げた私を見て、お千ちゃんは少しだけ哀しそうな顔を浮かべる。
それでも何も言わずに、今度は千鶴ちゃんへ視線を向けた。
「千鶴ちゃんは、どうする?」
「…私は……」
「出て行きたかねえんだろ?」
まだ迷っている様子の千鶴ちゃんを遮って、土方さんが口を開いた。
「だったら余計なことを考える必要はねえ。ここにいりゃあいい」
土方さんの言葉に、千鶴ちゃんは意を決したのか、お千ちゃんにここに残ることを伝えた。
私も千鶴ちゃんも新選組に残るという決意を受け入れてくれた二人を、屯所前で見送る。
「ねえ、千鶴ちゃんの想い人ってもしかして……」
「え!?い、いや、あの…」
突然のお千ちゃんの話に驚いて、千鶴ちゃんが頬を染めながら俯く。
その様子を見て微笑みを浮かべていると、お千ちゃんがこちらを見ていることに気付いた。
「なまえちゃんの想い人は、あの人でしょう?角屋によく来ていた、薬屋さん」
「え…ああ、うん…」
悪戯っぽく言う彼女とその背後で笑みを浮かべている君菊姐さんに、苦笑しながら頷く。
私が角屋で芸妓をしていたとき薬屋に扮して山崎さんが来ていたから、きっとそのことを言っているのだろう。
「私のご先祖様はね、人間に恋をして、都まで付いて来たんですって。どんな事情も立場も、恋の前には無力なものよね」
お千ちゃんは、瞳を細めてしみじみとそう語った。
「姫様、そろそろ行きませんと」
君菊姐さんの言葉に頷いたお千ちゃんは、私と千鶴ちゃんの手を握って明るい笑みを浮かべる。
「じゃあね、千鶴ちゃん、なまえちゃん!またいつか、どこかで会いましょうね!」
「うん、ありがとう」
「またね、お千ちゃん」
背後から足音が聞こえて何気なくそちらを振り返った瞬間、お千ちゃんの手が離れる。
それに気付いて再び前を見たときには、既に二人の姿はなくなっていた。
「行っちゃったね…」
「うん…また、会えるといいな…」
これからのことに想いを馳せながら、私と千鶴ちゃんは二人でそこに立ち尽くしていた。
生きる場所
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