慶応四年三月の夜。
私は、月明かりに照らされる江戸の町にいた。
物陰から息を潜めながらそっと顔を覗かせて、少し先を歩く山南さんの背中を伺う。
夜道を歩くその人はまわりを警戒している様子だけれど、どうやら私には気付いていないようだ。
一定の距離が開いたことを確認して足を踏み出そうとした瞬間、誰かに肩を掴まれて息を飲む。

「こんなところで何をしている、なまえ」

聞き覚えのある声に慌てて振り返ると、そこにいたのは斎藤さんだった。

「斎藤さん……」
「山南さんをつけるのなら、俺が行く。あんたは屯所に戻れ」
「土方さんの命ですね?」

私の言葉に、斎藤さんは沈黙を返す。
おそらく肯定ととって良いものだろう。
それでも、私は首を横に振る。

「斎藤さんが行くのなら、私も行きます。山南さんが外で何をしているのか、自分の目で確かめたいんです」

いつか、君菊姐さんが言っていた言葉。
羅刹が夜な夜な見回りと称して辻斬りをしている、という話が、どうしても頭から離れなかった。
自室に戻ろうとしたところに出かけていく山南さんの姿を見かけて、今に至っている。

「もちろん、無茶はしません。だから私も……」

行かせて欲しいと頼もうとした瞬間、どこからか身の毛のよだつような咆哮が聞こえた。
はっとして物陰から通りの様子を伺ったけれど、もう既に山南さんの姿はない。
聞こえる苦しげな呻き声は、まるで獣のようだった。
耳を澄ましながら、声の方向を探る。

「あっち、ですね…」
「ああ、そのようだな」

そう告げると、斎藤さんは声の聞こえる方向へと走り出した。
未だ周囲に響いている声に悪寒を感じながらも、私もそのあとに続く。
声は何か言っているようだが、その内容までは聞き取ることができない。
狂ったようなその声が近づくにつれて、それが羅刹であると確信に変わっていく。
そういえば、この近くには寺があったはずだ。
方向からして、そこにいる可能性が高い。
前を走る斎藤さんに続いて寺の境内に足を踏み入れると、案の定、声の主はそこにいた。
月明かりを反射する白い髪に、心臓が早鐘を打つ。
ちょうど私に背を向けるようにして立っているせいか、こちらには気付いていないようだ。
新選組の羅刹隊から脱走した者がいるという話は聞いていない。
でも、あの姿は明らかに羅刹のものだ。
ということは、綱道さんが造りだしているという羅刹なのだろうか。
血に飢えているのか、その口からは絶えず譫言が漏れている。
羅刹は肩で息をして苦しげな声をあげながら、その場で刀を抜く。
誰かが対峙するように身構えたのが見えたけれど、その人は陰になっていて顔を見ることはできなかった。
羅刹が刃を振り上げた瞬間、斎藤さんが抜刀してその腕を斬り落とす。
右腕を失った羅刹はつんざくような叫び声をあげて、その場に倒れるようにうずくまった。
さらに止めを刺そうと斎藤さんが刀を振り上げると、突然羅刹に異変が起きた。
斬り落とされた腕を押さえ込んでいる羅刹の手が、形を失くしてさらさらと灰のように落ちていく。
羅刹が慄きの声をあげたのも束の間、あっという間にその身体は人型を失くし、纏っていた衣を残して灰の塊となった。
そして残された衣には青い炎が灯り、やがてその場に残ったのは、灰だけだった。
全てがあまりに突然で一瞬のことで、私は驚きの声も出せずにその様子を見守るしかできなかった。

「あなたに助太刀頂くとは……斎藤殿と申されたか?かたじけない」

抑揚のない声に顔を上げると、羅刹と対峙していたであろう人が前に進み出て頭を下げた。
そうして月明かりに照らされたその姿に、ようやくその人が天霧と名乗った鬼であることに気付く。
天霧は私の存在にも気づいたのか、ほんの少し驚きの表情を見せたあとに、私にも軽く頭を下げる。

「天霧久寿…今の羅刹、あれは?」

斎藤さんが、私の中にあった疑問を口にする。
天霧は表情を変えないまま、口を開いた。

「雪村綱道が作りし、土佐藩の羅刹。先月土佐藩邸より脱走したものが、江戸市中において辻斬りをおこなっているとの噂があり、事実確認を進めていた」
「やっぱり、綱道さんが……」

天霧の言葉に、甲府でのことを思い出す。
私を狙っていたあの羅刹たちは、綱道さんが造りだしたものだと風間も言っていた。
天霧は既に灰となった骸を見下ろして、手を合わせる。

「見つけ次第抹殺せよとの藩命であったが…既に寿命だったようだ」
「寿命って…どういうことなんですか?」

思いがけない言葉に、声が震えた。
先程の光景は、明らかに普通ではない。
今まで死んでしまった羅刹は見たことがあるけれど、それらは全て、脱走や暴走によって粛清された人たちばかりだった。
羅刹は、心臓を貫かれない限り死なないはずでは。

「羅刹の力は、決して神仏からの授かりものではない。人並み以上の腕力、敏捷性、そして驚異的な回復力…それは自身の身体に秘められているもの。本来数十年かけて使い果たしていく力を、借りているに過ぎない」
「つまり、力を使えば命が短くなるということか…」

斎藤さんの言葉に、天霧は頷いた。

「今の羅刹が灰となったのは、寿命が尽きたから…」
「うむ」

不意に風が吹いて、数分前まではたしかに羅刹だった灰が舞い上がる。
それが羅刹の成れの果てだと思うと、震えが止まらなかった。

「あなたも、このような時間に出歩かない方が利口でしょう。雲居の血が多くから狙われていることは、その身を以てご存知のはず」

雲居という言葉に顔を上げると、天霧はじっと私を見据えていた。
その視線を受け止めて、私は乾いた唇を開く。

「私の血…雲居の血が、人を狂わせず、際限なく能力を引き出すというのは、本当ですか?」

いつか、山南さんが私に言った言葉が脳裏を過った。
雲居の血が、変若水のように人を狂わせることもないということ。
変若水が、雲居の血の代わりとして開発されたこと。
私の言葉に天霧はちらりと斎藤さんを見やった後、無表情のまま頷く。

「ええ。雲居の血を飲んだものは血に狂わず、驚異的な力を発揮します。そして、羅刹のように寿命が尽きてこのように灰になることもない」

心のどこかでは分かっていた答えに、それほど驚くことはなかった。
あの変若水を開発する元凶となった代物だ。
人によっては、それは素晴らしいものであったに違いない。
雲居の血の実態が明らかになった以上、私がすることはひとつだ。

「風間千景に伝えて下さい。私は死ぬまで、この血を使うことはない、と」

私の中に流れるこの血について、詳しいことは何も知らない。
どのような経緯で、何のために存在しているのかも分からない。
でも、そんな私でもひとつだけ分かることがある。
こんな血は、きっと存在してはいけなかった。
この血のせいで、雲居の鬼は人間に狩られたのだから。
ならば、私で全てを終わらせるべきだろう。

天霧は少しだけ驚いたような表情を見せたけれど、すぐにいつもの表情に戻って深く頷いた。

「では、私はこれにて失礼する」

天霧はそう言って頭を下げて踵を返したけれど、またすぐに立ち止まって振り返る。

「先程の羅刹の件は、羅刹になったお仲間にもお伝えなさい。新選組にも血を求め、彷徨っている者がいるようですし…」

その言葉を最後に、天霧はその場を後にした。



斎藤さんが土方さんに羅刹の欠陥について報告したことによって、土方さんから山南さんに、一時的な羅刹の増強中止が命じられた。
ちょうどその頃、将軍慶喜公が寛永寺に謹慎されていることを理由に、新選組が江戸に駐屯し続けることは難しくなっていた。
そこで、一度江戸で新兵を募ったあと、私たち新選組は会津へ向かうこととなる。

そして、慶応四年四月二日。
私たち新選組は、下総流山の造り酒屋、長岡屋へと陣を移していた。
斎藤さんは先日入隊した新兵たちを率いて、新式兵装の訓練のために私たち本隊とは別行動をとっているから、この場にはいない。
新兵が増えれば羅刹隊の駐屯も難しくなるということで、山南さんや平ちゃんは羅刹隊を連れて、一足先に宇都宮を経由して会津へ向かうことになっている。
酒屋の囲いの隙間から、そっと外の様子を伺う。
ちらほらと見え始める新政府軍の兵の姿に、嫌な汗が伝うのを感じた。
これでは、囲まれるのも時間の問題だろう。
こんなに早く、私たちの居場所が露見するなんて思わなかった。
外の様子を見に行った島田さんは、無事だろうか。

「なまえさん」

名前を呼ばれて振り返ると、そこには島田さんの姿があった。
どうやら、怪我はしていないようだ。
無事な姿に、ほっと安堵を覚える。

「外はどうでした?」

私の問いに、島田さんは首を横に振る。
その表情には焦りが浮かんでいた。

「もう囲まれています。裏はまだなんとかなりそうですが」
「そう、ですか…」

無事な姿に安堵したのも束の間、予想はしていた状況に思わず声が震える。

「とにかく、副長に指示を仰ぎましょう。早くしないと、手遅れになる」

そう言った島田さんに頷いて、私たちは土方さんの元へと向かった。
現状を説明すると、その人は疲れの浮かんだ表情を歪ませる。
そして踵を返すと、近藤さんが待機している二階へと階段を駆け上がっていく。
慌ててそのあとを島田さんと追うと、そこには机に軍記物を広げた近藤さんと、千鶴ちゃんの姿があった。

「近藤さん!いるか!?」

土方さんの只ならぬ様子を察したのか、近藤さんは真剣な表情で口を開く。

「どうした?トシ」
「すぐ逃げる準備をしてくれ。敵に囲まれてる」

近藤さんは眉を顰め、千鶴ちゃんは驚きの声をあげた。

「敵は二、三百はいます。奴らに気付かれないよう、裏口から戻ってきましたが…」

そう言いながら、島田さんは格子から外を伺う。
私もそれにならって外の様子を見やったけれど、もう既に酒屋のまわりには多くの新政府軍が集まっていた。
思っていたよりも多いその数に、拳を握りしめる。

「せめて桁がひとつ少なきゃあどうにかできたんだが…今からじゃ斎藤を呼び戻す時間もねえ。島田、なまえ」

土方さんに呼ばれ、私は嫌な予感を感じながら振り返る。

「ここは俺がどうにかする。千鶴と近藤さんを連れて、先に逃げてくれ」

予想とそう変わらない言葉に、私が答える前に千鶴ちゃんが口を開いた。

「そんな!いくら土方さんだって無茶です!昼間で体調だって良くないのに!」
「千鶴ちゃんの言う通りです。土方さん一人であの数をどうにかするなんて…」
「やってみなきゃ分かんねえだろ!」

土方さんの怒鳴り声に思わず身を竦ませるけれど、ここで退くわけにはいかない。
島田さんも土方さんに詰め寄って、その肩を掴む。

「待って下さい!敵は銃を主体とした部隊です!」

島田さんがそう言ったとき、それまで黙って座っていた近藤さんが立ち上がった。

「トシ、お前が行くことはない。俺が相手の本陣に行こう」

近藤さんが発した言葉に、その場にいた全員が目を見開いて近藤さんを凝視した。
土方さんは虚を突かれたような様子を見せていたけれど、すぐに近藤さんに詰め寄る。

「何言ってんだ近藤さん!あんたじゃみすみす死ににいくようなもんだ!」
「もちろん、新選組の近藤とは名乗らんよ。俺たちは旗本で、このあたりを警備している鎮圧部隊と言えば、お前たちが逃げる間の時間稼ぎくらいできるだろう」
「馬鹿言ってんじゃねえよ!そんな話、すぐばれるに決まってる!」
「仮にそうだったとしても、俺は大名の位を持っている。そう簡単に殺されたりはしないさ」

声を荒げる土方さんに対して、近藤さんは穏やかにそう告げる。
その表情に笑みさえ浮かんでいるように見えて、私は混乱したまま成り行きを見守ることしかできない。

「あめえよあんた!旧幕府からもらった身分なんざ、やつらには毛ほどの価値もねえ!俺なら、心臓を貫かれねえ限り死ぬことはねえ。時間を稼ぐなら俺の方が適任だ!」
「だめだ。お前が何と言おうと、俺が敵の目を引き付ける。もう決めたことだ、トシ」

不意に、私が近藤さんに初めて会ったときのことを思い出す。
今まで大変だったな、と優しく頭を撫でてくれた大きな手。
心配しなくていい、と笑ってくれた、あの穏やかな微笑み。
どうして今、そんな昔のことを思い出してしまったのかは分からなかった。

「ふざけんじゃねえ!!大将のあんたがいなくなってどうすんだ!俺は、あんたの首に縄をつけてでも逃がして見せる!あんたの身体はもう、近藤勇一人のもんじゃねえんだ!」
「ならばこれは命令だ!土方副長、駐留している隊士たちを率い、市川の部隊と合流せよ!」

近藤さんの口から出た命令、という言葉に息を飲んだ。
それは土方さんも同じようで、今まで声を荒げていたのが嘘のように声を失っている。

「俺に命令するのか、あんたが……なに、似合わねえ真似してんだよ…」

少しの間の後にようやく絞り出したような土方さんの声は、震えていた。

「局長の命令は絶対なんだろう?隊士には切腹や羅刹化を命じておいて、自分だけは特別扱いか?」

そう告げる近藤さんの表情は、やはり穏やかだった。

「島田君」
「はっ」
「トシと一緒に逃げてくれ。敵が押し入ってきてからでは、俺が投降する意味がなくなる」

島田さんは戸惑うように一度俯いたあと、意を決して土方さんを見た。

「副長、行きましょう」

でも、土方さんは歯を食いしばって視線を下に落としたままだ。
そんな土方さんに、近藤さんはさらに口を開く。

「なあトシ、そろそろ楽にさせてくれ。俺を担ぎ上げるためにあちこち走り回って、終まいには羅刹にまでなって…そんなお前を見てるのは、辛いんだ」

かけられた言葉に、土方さんが弾かれたように顔を上げて近藤さんを見据えた。

「俺は……俺のしてきたことが、あんたを苦しめてたのか」

その表情に、震える声に、思わず視線を逸らす。
幼い頃から一緒にいるから、土方さんがどんな思いを抱いてここまできたのか知っている。
だからこそ、それが全て仇となっていたことを知った姿が、辛かった。

「侍になって、お上に仕えて…そうすりゃ、あんたが一緒に喜んでくれると思って…俺は…」
「すまん…お前をそこまで追い詰めたのは、俺だな」

申し訳なさそうに、近藤さんが俯く。
少しの沈黙の後に、土方さんが俯きがちだった顔を上げた。

「局長命令なんだな?」
「そうだ」
「じゃあ仕方ねえ。島田、残った隊士たちに伝令だ。逃走経路を確保しとかねえと…」
「はい」

土方さんの命を受けて、島田さんが階段を駆け下りていく。
それを見届け、土方さんは私と千鶴ちゃんに向き直った。

「千鶴となまえはここで待っていろ」
「分かりました」

私たちが頷くと、土方さんも踵を返して階段を降りて行った。



土方さんたちがいなくなったあと、近藤さんは千鶴ちゃんに逃亡資金を渡して逃げるよう勧めていた。
けれど、彼女はそれを受け取らずに新選組に残ることを選んだ。
千鶴ちゃんは土方さんの手伝いをしたいと告げて、今この場にいるのは私と近藤さんの二人だけ。
千鶴ちゃんが一階へと降りる姿を見送ってから、彼はこちらを見る。

「私は、残ります」

何か言いかけたように口を開いた近藤さんを遮って、言い放った。
困らせることは分かっている。
それでも、これだけは譲りたくなかった。

「近藤さんだけを残すなんて嫌です。私も一緒に残ります」

案の定、近藤さんは苦笑を浮かべる。

「なまえ…」
「時間稼ぎのために投降すると言うのなら、止めません。充分に時間を稼いだら、私が隙を作ります。その間に、近藤さんは逃げて下さい」
「では俺が逃れたとして、君はどうするつもりだ?」
「それ、は……」

もしそうなったとき、きっと私は捕まるだろう。
いや、その場で殺される可能性さえある。
生きたまま捕らえられたとして、その先に待つのは死ぬより辛い仕打ちかもしれない。
それで近藤さんが助かるのなら構わない。
でも、私がそうなることを近藤さんが許すはずがなかった。
だから、その先を言えないまま閉口する。

「君のことは、歳の離れた妹のように接してきた。そんななまえを盾にして、俺が逃げられると思うか?」

近藤さんの穏やかな声に、熱いものが込み上げてくる。
こんなときだというのに、その言葉が嬉しくて堪らなかった。
近藤さんは手を伸ばして、私の頭に手を置く。

「懐かしいな。引き取ったときはあんなに小さかったというのに…月日の流れは早い」

大きな不安を抱えながらも、それを表に出さないように必死に取り繕っていたあの頃。
あちこちの家に引き取られては移ることを繰り返して、その度にどうしようもない孤独を抱えていた。
迷惑がかからないように、少しでも長く置いてもらえるようにと、不安に耐え忍んでいた。
けれど近藤さんは、私の中から孤独も、不安も、丸ごと消し去ってくれたのだ。
あの穏やかな声で、快く私を引き取ってくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、その思いがあったから、私はここまで来たのに。

「本当は、なまえにも安全なところへ逃げてほしいところだったんだが、どうせ聞き入れてはくれんだろう。だからせめて、トシたちと一緒に行ってくれないか」
「…近藤さんがいなくなったら、新選組はどうなるんですか?」

この新選組は、近藤さんがいてこそのものだ。
近藤さんがいて、土方さんがいて。
どちらかが欠けては意味がない。

「俺がいなくともトシがいる限り、新選組は生き続けるさ。それにトシになら、俺は何の心配もなく託すことができる」

その口調に、遠くを見つめる視線に、近藤さんが何を思っているかを察した。
ああ、やはりこの人は、死ぬつもりなのだ。

「やっぱり、近藤さん……」
「なに、さっきも言っただろう。そう簡単に殺されはしない。だから、そんな顔をするのはやめなさい」

もう、何を言っても近藤さんは譲らないだろう。
何としてでも残ろうと思っていたのに、私は涙を堪えて立ち竦むことしかできない。
込み上げる熱いものを抑えながら、顔を上げて近藤さんを見据える。

「それならせめて、近藤さんが投降するまでを見届けさせてください。敵には見つからないようにします。だから……お願いします」

私の懇願の言葉に、近藤さんは困ったように眉を下げながらも、頷いてくれた。

「分かった。だが、もし敵に見つかったらすぐにでも逃げなさい」
「…分かりました」

私が頷くと、近藤さんはまた笑みを浮かべて、私に向けて頭を下げた。

「新選組と、トシを頼む」



私たちは、近藤さんを残して裏口から外へと出た。
私は全員が出て行くのを見届けたあと、敵に見つからないよう木の上に登って、生い茂る緑の隙間から様子を伺う。
新政府軍が酒屋に突入したのは、私たちが裏口から脱出してすぐのことだった。
酒屋から私のいる場所までは距離があるから、新政府軍が何を言っているのかは聞こえない。
それでも、近藤さんの表情はとても穏やかで、それでいて堂々としていた。
彼が新政府軍に囲まれる姿を見ながら、駆け出そうとする身体を何度も抑え込む。
そうしながら、見ていることしかできない自分の身を何度も恨んだ。
ここで私が介入すれば、近藤さんの意志を裏切ることになる。
それに、土方さんがこのままにするはずがない。
きっと嘆願書を出して、なんとかしてくれるはずだ。

近藤さんの投降は、案外呆気ないものだった。
その姿が見えなくなるまで見送ったあと、目を閉じて深く深呼吸をする。
泣いてはいけない。
まだ、終わったわけではないのだから。
そう自分に言い聞かせて、再び瞼を開けた。
まずは、土方さんたちに合流しなくては。
木の上から飛び降りて、森の中を駆け抜ける。
隊士たちが向かっている方へ進んでいくと、鉄のような臭いが鼻先を掠めた。
思わず立ち止まって、視線を巡らせる。
私の視界に広がるのは、木々ばかりだ。
それでもたしかに、血の臭いが満ちている。
酒屋のまわりにあれだけ新政府軍がいたのだから、この森の中にいてもおかしくはない。
土方さんもそのことは予想していたし、やはり戦闘になったのだろうか。
逸る気持ちを抑えて再び走り出すと、木々のない開けている場所に出た。
そして、そこに倒れているのは、新政府軍の軍服を纏った骸。

「これは……」

まわりを見渡してみると、倒れている骸はどれも新政府軍のものだ。
そのことに安堵しながらも、ゆっくりと目の前の丘を登って行く。

「何してやがる。さっさと行け!」

不意に聞こえた土方さんの声に、思わず足が止まった。

「すみません、その命令は聞けません」

続けて聞こえた千鶴ちゃんの声は、小さいけれどはっきりと聞こえた。
おそらく、この丘の上に二人がいるのだろう。
他の隊士たちは、どこに行ったのだろうか。

「なに…?」
「邪魔にならないようにします。だから…今は傍にいさせてください」

聞こえてくる会話に、ここで起きたであろうことを察した。
きっと土方さんは、島田さんたちを先に行かせて一人で戦ったのだ。
今の土方さんならやりかねない。
私はその場に立ち竦んだまま、その会話にじっと耳を傾ける。

「俺は…何のために、ここまでやってきたんだろうな…」

初めて聞くような土方さんの震える声に、堪えていたはずの涙が視界を滲ませた。

「あんなところで、近藤さんを敵に譲り渡すためか?あの人を押し上げて、関聖帝君や清正公どころじゃねえ、本物の武将にしてやりたかった…」

関聖帝君も清正公も、近藤さんが好んで読んでいた軍記物に描かれる偉人だ。
近藤さんが口癖のように、いつか自分もこうなりたい、と言っていたのを思い出す。
そう語るあの人の顔はとても晴れやかで、輝いていて。

「片田舎の貧乏道場の主と農民の子で、どこまで行けるのか試してみたかった。俺たちは、同じ夢を見てたはずだ……なのに、どうして俺はここにいるんだ?」

溢れだした涙を止めることができないまま、唇を噛みしめて拳を握る。
嗚咽を堪えながら脳裏に浮かんだのは、まだ私が幼かったあの日々。
今となっては、あの頃は夢のまた夢だ。

「近藤さんを置き去りにして、どうしててめえだけ助かってるんだよ…!ぜってえ見捨てちゃいけねえ相手を見捨てて、てめえだけ生き残って…!!」

悲痛な叫びが、私の鼓膜を震わせた。
止まらない涙が頬を伝って落ちていく。
見ていることしかできないのは、もう嫌だった。
そんなことは、鳥羽伏見の戦いで嫌と言うほど感じていたのに。
あの人を失ってしまったときに、誓ったはずなのに。
それなのに、私は何もできなくて。
大事なところで何もできなくては、意味がないではないか。

「土方さんが近藤さんのことを思っているように、近藤さんも土方さんに死んでほしくなくて…もっともっと生きて欲しくて……だから、どうしても、ああならざるを得なかったんだと思います…」

聞こえた千鶴ちゃんの声も、震えていた。
どうして、こんなにもうまくいかないのだろう。
私たちはただ、信じるものを貫こうとしているだけなのに。
嗚咽を堪えながら、茜色に染まる空を見上げる。
見上げた空は驚くほど赤くて、なぜだか余計に涙が溢れた。

崩れていく