慶応四年、四月末。
私たちは宇都宮の戦いで負傷した土方さんと共に、街道を北上していた。
先行していた新選組の本隊は、既に会津へと向かっている。
彼らと合流するため、日光口より大内峠を経て、鶴ヶ城のある会津若松を目指しているのだ。
進軍の途中で日が暮れてきたこともあり、私たちは街道沿いの宿場で夜を越すことになった。

井戸で水を汲もうと桶を手にしたところで、馬の蹄の音が鼓膜を叩く。
ひょっとすると、近藤さんの消息を辿るため江戸へ行っていた斎藤さんが、帰ってきたのかもしれない。
逸る気持ちを抑えながら、門の方へと急いだ。
月明かりに照らされた、馬に乗る人影。
でもそれは私が想像していた人のものではなく、むしろ思いもよらない人の姿だった。

「沖田さん……?」

驚きのあまりその場に立ち竦んで、馬から降りるその人を凝視する。
その姿は紛れもなく、江戸で療養していたはずの沖田さんだった。

「なまえちゃん、土方さんはどこ?」

沖田さんの表情に、いつものような笑みはない。
その声音に滲んでいるのは、怒りだ。

「ちょ、ちょっと待ってください!どうしてここに……」
「なまえ、どうした」

私の声を遮って、背後から土方さんの声が聞こえた。
振り返ると、土方さんは沖田さんの姿に気づいて目を見開いている。
沖田さんは私の横をすり抜けて土方さんに詰め寄ると、その肩に掴み掛った。

「なんで近藤さんを見殺しにしたんだ!」

悔しげに顔を歪めて、沖田さんがそう叫ぶ。
土方さんは無言のまま、視線を下げただけだった。

「何とか言えよ!!」
「やめてください、沖田さん!土方さんは怪我をしてるんです!」

沖田さんに揺さぶられて顔を歪めた土方さんを見て、慌てて沖田さんを止めようと彼の腕に縋り付く。
それでも私の力でどうにかできるものではなく、沖田さんは私に構わず土方さんを睨んだ。

「あんたがついていながら、どうして近藤さんを助けられなかったんだ!!」

彼の悲痛な叫びに、涙が滲む。
この様子だと、近藤さんは、もう。
沖田さんの気持ちは分かる。
私だって、あの人に助けられて、救われたから。

「お願いです、沖田さん…!」

土方さんは、ただ目を閉じて黙っているだけだった。
沖田さんの手が、ようやく土方さんから離れる。
ほっとして沖田さんから身体を離すと、彼は踵を返して歩き始めた。

「沖田さん、どこに……」

追いかけようとしたところで、向こうから斎藤さんがこちらに向かってくるのが見えて足を止める。
沖田さんは斎藤さんに目もくれずに、そのままどこかへと行ってしまった。
土方さんも斎藤さんの姿に気づいて、歩みを進める。

「斎藤…近藤さんは、だめだったのか?」

土方さんの問いに、斎藤さんは視線を落として口を開く。

「近藤局長、四月二十五日、板橋の刑場にて斬首に処されたそうです」

心臓が、どくんと一際大きく跳ねた。

「斬首……」

思わず唇から漏れた言葉は、掠れていた。

「そうか……近藤さんは、腹も斬らせてもらえなかったのか…」

そう呟いて、土方さんは空を仰ぐ。
近藤さんが、死んでしまった。
武士として切腹することも許されず、罪人として首を落とされて。
斬首とはそういうことだ。
あれだけ武士になることを望み、大名の位を得て、あんなに喜んでいた近藤さんが。
武士という立場に焦がれていたあの人が。
身体の力が抜けて、その場に座り込む。
ぽたぽたと地に落ちていくのは、涙なのだろうか。
心のどこかでは、近藤さんは必ず生きて戻ってくると信じていた。
信じることしか、私にはできなかったから。
震えそうになる唇を噛みしめて、顔を上げる。
挫けてはいけない。
近藤さんは、土方さんを頼むと、私に言っていたではないか。
ここで挫けては、言いつけに背くことになる。
ゆっくりと立ち上がって、深く呼吸をする。
まだ私には、やるべきことが残っている。
いなくなってしまった人たちとの約束が。



慶応四年、五月。
怪我の回復が思わしくない土方さんを治療するため、私たちは会津の宿場町に潜伏していた。
近藤さんの訃報が届いたあの夜から、沖田さんが私たちの元へ戻ってくる気配はない。
会津の町中で姿を見かけたことがあったから、おそらく共に来てはいるようだ。
でも、このままにしておくわけにはいかない。
彼がどんなに剣術に長けた人間であったとしても、その身体を蝕む病が消えることはないし、彼は羅刹なのだ。
見慣れた姿を探して、人々が行き交う町を練り歩く。
それでも、やはり簡単に見つかるようなものではなく、気づけば空は茜色に染まっていた。
今日はここまでか、とため息を漏らしたところで、不意に子供たちの楽しげな笑い声に気付く。
何気なくその方向へ歩みを進めると、名も知らない神社の境内に、子供たちの姿を見つけた。
そして、奥の本殿の階段にもたれるようにして座る人影に、私は安堵と呆れの混じった笑みを浮かべてその人に歩み寄る。

「見つけましたよ、沖田さん」

そう声をかけると、その人は顔を上げ私を見て、笑みを浮かべた。

「あーあ、見つかっちゃったか」
「見つかっちゃったか、じゃないですよ。こんなところで何してるんですか?」
「何、してるんだろうね…」

沖田さんは力なく笑いながら、座っている階段に再び寄り掛かる。
それきり何も言わない彼に小さく溜息をつくと、その隣に腰を下ろした。
私の様子に、彼はゆっくりとこちらに視線を向ける。

「戻らないの?」
「沖田さんが戻るなら、私も戻ります」
「我儘だなあ、なまえちゃんは」
「沖田さんほどじゃありません」

沖田さんは軽く笑っただけで、立ち上がろうとはしない。
その横顔に視線を向けると、彼はどこか遠くを見ているようだった。

「……本当はさ、分かってたんだ」

少しの沈黙の後、沖田さんは遠くを見つめたまま、小さく呟く。

「土方さんが近藤さんを見殺しにしたわけじゃないって、本当は分かってる」
「…はい」
「僕が一番許せないのは、僕自身なんだよ。こんな身体になって、何もできない自分が何よりも許せないし、悔しい」

そう言って、彼は拳を握りしめた。
哀しくて、悔しくて堪らないのだ。
私だって、そうだった。
あのとき、近藤さんの言葉に逆らってでも助けに入っていたら、近藤さんは死なずに済んだんじゃないかと考えなかったわけじゃない。

「僕は、近藤さんのために刀を振るってたんだけどな…」

掠れた声で呟かれた言葉に、胸が締め付けられるような思いがする。

「…近藤さんは、土方さんになら、新選組を託せると言っていました」

脳裏に焼き付いたあの姿を思い出して、視界が滲んだ。
新政府軍の前であっても堂々とした姿を、私はずっと忘れないだろう。

「そうだったんだ……近藤さんらしいね」

そう呟いた沖田さんは、どこか寂しげに見えた。
結局その後、私が何を言っても沖田さんは戻る意志を示してはくれなかった。
すっかり日が暮れた街中を、一人歩んでいく。
何が何でも沖田さんを連れ戻すという気持ちではいたものの、怪我をした土方さんのいる宿場を長く離れているのは心配だった。
でも、沖田さんがどこにいるのかは大体見当がついたから、また明日も行ってみよう。
いくらあの人でも、何度も訪ねて行けばきっと戻ってきてくれるだろう。
そう考えながら歩みを進めていると、不意にすれ違う浪士たちが目に入った。
その手には銃が抱えられていることに気付いて、歩きながら彼らの様子を伺う。

「急げ。遅れるわけにはいかん」
「ああ…今日こそ土方を……」
「おい!誰かに聞かれでもしたらどうする!」

彼らの会話は小声だったけれど、交わされた内容はしっかりと私の耳に届いていた。
驚きと怒りに歩みを止めそうになりながらも、必死に湧き上がる感情を抑えながら路地に入る。
あの浪士たちは、土方さんの命を狙っているのだ。
新政府軍にでも差し出すつもりなのだろうか。
どうにしろ、このまま放っておくわけにはいかない。
私は路地を出て、浪士たちの後を追った。
浪士たちの後をつけている途中で、見覚えのある姿を見つけて息を飲む。
急いで駆け寄って、引き止めるようにその衣を掴んだ。

「何してるんですか?沖田さん」

彼は驚いたように振り返り、私の姿を見て安堵したような表情を見せた。

「なまえちゃん…あの人たち、なんだか怪しいよね」

どうやら沖田さんも、あの浪士たちを見かけたのだろう。
彼らが発している殺気は尋常ではない。

「おそらく、彼らは土方さんの命を狙っています。さっき、そう言っていたのを聞きました」
「土方さんを…?へえ…」

沖田さんはそれだけ言うと、浪士たちの行った方向へ歩み始めた。
慌ててその後を追って、彼を引き留めようと前に立ちはだかる。

「待ってください、沖田さん。ここは私が行きます」
「様子を見に行くだけだよ。なまえちゃんこそ、早く土方さんたちのところに戻ったほうがいい」

反論しようと私が口を開きかけたのにも構わず、沖田さんは私の横をすり抜けて再び歩みを進めた。
そのまま沖田さんだけを行かせるわけにもいかず、私は彼の後をついて浪士たちを追った。
彼らの後を追って辿り着いたのは、町外れの峠だった。
沖田さんと、木の陰から浪士たちの様子を伺う。
十人か、それ以上はいるようだ。
刀はもちろんのこと、銃を持っている浪士もいる。

どうすればいいだろう。
今から土方さんに知らせに行っても、間に合わない可能性が高い。
かと言って沖田さんを戦わせるわけにはいかないし、私ではあの人数を相手にはできない。
どうすれば。
そう思案していると、隣の沖田さんが急に咳き込んだ。

「沖田さん…!」

彼の手から垣間見える、紅。
その色に、血が引いていくのを感じる。
仕方ない。
ここはもう、私が行くしか。

「私が……」
「なまえちゃんは、ここにいて」

私の言葉を遮って、沖田さんはそう言った。
彼は懐から包帯を取り出すと、刀を握った右手を縛って固定する。
戦うつもりなのだ。

「冗談やめてください。そんな身体で戦うつもりなんですか?」
「こんな身体だから、だよ。それに……」

沖田さんはそこまで言うと、空を仰いだ。

「近藤さんが新選組を託した土方さんなら…僕も守らなきゃ、だめだよね」

その横顔は、消えてしまいそうなほど儚い。
それでいて、彼の決意が固いことを悟る。
きっと私が何を言っても、沖田さんは戦うつもりだ。

「それなら、私も戦います」
「駄目だよ。君はここに残るか、土方さんたちのところに」
「嫌です、私だって戦えます。沖田さんが戦うなら、私も傍にいさせてください」
「戦えるか戦えないかじゃないんだよ」

真剣な瞳で、その人は私を見つめる。
その視線に、私は思わず閉口した。

「もしここに残るなら…僕の姿を見ていて欲しいんだ。最期まで」
「え……?」

どういうことか分からず、私は沖田さんを見つめた。
いや、本当は分かっている。
この人が何を考えているのか、何を言っているのか、知りたくなかった。
知らないふりをしていたかった。
知ってしまったら、私は。

「自分の身体があとどれくらいもつのか、なんとなく分かってる。ここで羅刹の力を使えば、おそらく僕は死ぬんだろうね。でも、それでもいいんだ」

なんて穏やかな顔で、言葉を紡ぐんだろう。
自分の死期を知りながら、どうしてそんなに穏やかでいられるんだろう。

「病で床に就いて死を迎えるより、僕は戦って散りたい。新選組を守れるのなら、僕はその方がずっといい」

ああ、そうか。
この人も、同じなのだ。
鳥羽伏見で散ったあの人と。
下総で残ると言ったあの人と。
己が命の期限を知りながら、自らの志を私へと託したあの人たちと、同じ。

「だから、その最期の姿を、見届けて欲しいんだ。なまえ」

見送った人たちの姿が、彼に重なる。
死に近づいているというのに、その姿はなんて凛々しく、美しいのだろう。
溢れそうになる涙を堪えて、私は俯く。

「行くぞ!」

何も言えないまま唇を噛みしめていると、浪士たちの声が聞こえてはっと顔を上げた。
沖田さんも、険しい表情で浪士たちを見ている。
彼は一度だけ私に視線を戻すと、口元に笑みを浮かべて木陰から街道へと足を踏み出した。
呼び止めそうになるのを必死で抑えて、じっと息を潜めて成り行きを見守る。

「貴様、そこを退け!」

沖田さんに気づいた浪士が声をあげるも、彼はただじっとそこに佇むだけ。
動く様子のない沖田さんに、銃を構えた浪士が前に出る。

「退かぬか!邪魔立てするのなら容赦はせぬぞ!」

鼓膜を震わせる鋭い銃声。
銃弾を受けた沖田さんが、地に片膝をつく。

「止めを刺してやれ」

数人の浪士が、沖田さんに歩み寄って刀を振り上げる。
その瞬間、沖田さんの濃茶の髪が白へと変わった。
そして彼は、右腕を振って浪士たちを薙ぎ払う。
その様子を見ていた浪士たちは、狼狽した様子で騒めいた。

「き、貴様、何者だ!」

白髪に、血のような赤い瞳。
それはまさしく、羅刹そのものだった。
沖田さんは、ゆっくりと立ち上がって口を開く。

「新選組一番組組長、沖田総司」

それからの彼の動きは、病人とは思えないほどだった。
それでも身体は限界に近いのか、その身体は返り血と自らの血で鮮やかな色で染まっていく。
何度斬られようと、刺されようと、傾ぐ身体を制して刀を振るう。
これが、新選組の、沖田総司の姿。
幼いころからずっと傍で見てきた、この人の最期の勇姿。

最後の一人を斬り捨てたところで、ようやく沖田さんの動きが止まった。
その身体がぐらりと揺らいだのを見て、思わず飛び出して駆け寄る。

「沖田さん!!」

今にも倒れてしまいそうなその身体に腕をまわして、支えようと抱きしめる。
沖田さんは荒く呼吸を繰り返しながら、刀を地に突き刺し、両膝をついて座り込んだ。
それにつられるように、私もその場に座り込んで沖田さんを見上げる。

「今ので…最後、かな……」
「はい…もう、もういいんです……」

沖田さんは私の言葉に、安堵したような表情を浮かべる。

「そっか……良かっ、た…」

そう呟いた直後、沖田さんの身体から力が抜ける。

「っ…沖田さん!」

縋る思いで、必死に名前を呼ぶ。
留めておきたいのに、この手からすり抜けて行ってしまいそうな気がした。
生きて。逝かないで。
そんな言葉が喉まであがってくるけれど、嗚咽となって言葉にはならない。

「なまえちゃん…」

荒い呼吸を繰り返しながら、沖田さんは私の身体を押し返す。
何事かとそっと身体を離すと、彼の穏やかな瞳に気づいた。
その穏やかさが、近藤さんと重なる。

「最後に…笑って……?」
「こんなときに、笑えって言うんですか?」

掠れた声に、思わず眉を寄せて声をあげた。
最後なんて言葉は聞きたくない。
そんな言葉はいらないのに。

「こんなときだから、だよ…」

穏やかな顔のまま、沖田さんは小さく言葉を紡ぐ。
その表情と声に、私は何も言えないまま彼を見つめた。
私に構わず、沖田さんは笑みを浮かべて震える手で私の頬に触れる。

「ね…笑って…?」

溢れ出た涙を止めることはできなかった。
それが最後のこの人の望みなら、私は。

「本当に…我儘なんですから、沖田さんは…」

涙を拭って、なんとか笑顔を浮かべる。
彼の瞳には、私がどんなふうに映っているのか分からない。
きっと、笑顔とは言い難い顔をしているんだろう。
だけど、沖田さんは満足そうに笑みを深くした。
そして、私の頬を力無く撫でて、震える唇を開く。

「ありがとう……大好きだよ」

その直後、風が吹いて目の前にいたはずの沖田さんが掻き消える。
腕に感じていた温もりが、風に攫われるようにふわりとなくなった。

「お、きたさ……」

まわりを見渡しても、求めている姿はない。
ただ、あの人がいたはずの場所の傍らに、地に突き刺さる一本の刀。
その柄に巻き付く包帯と、風になびくその先端が煤けたようになっていることに気付く。
地に視線を戻すと、仄かに燃える青い炎。
以前にも同じものを、私は見たことがあった。

知っている。
この炎が何を意味しているのか。
沖田さんが、どうなったのか。
胸のあたりから熱いものが込み上げてきて、唇がわなわなと震えた。
うまく呼吸ができなくて、喉がひゅうひゅうと音を立てる。
沖田さんは、死ぬのなら戦って散りたいと言った。
じっと床に臥せって死を待つよりも、戦う方を選んだ。
それは分かっている。
分かっていても、それでも。

「どうして…置いて逝くんですか……!!」

大切だった。
幼い頃から、まるで兄のようで。
いつも傍にいてくれて。
沖田さんだけじゃない、源さんも、近藤さんも、そして山崎さんも。
大切だと、傍にいたいと心から願う人たちが、いなくなってしまう。
怖い。
また一人になることが怖いんじゃない、大切な人たちがいなくなってしまうことが、本当に怖かった。
だから、生きてと言いたかった。
生きていれば、必ず何かがあると。
それでも、彼らの意志は私にどうにかできるものでもない。
彼らはそれぞれの誠を胸に抱いて、それを貫いた末なのだ。
不意に眩しさを感じて顔を上げると、山の麓から朝日が昇り始めていた。

ああ。
あのときとまるで同じだ。
ゆっくりと立ち上がり、眩しすぎる朝日に目を細める。
源さんも山崎さんも、近藤さんも沖田さんも。
誰もが、新選組のために命を散らした。
そうして散ることを、選んだ。
大切な人を、何人も失った。
失いたくなかったものを、手放してしまった。
倒れそうで挫けそうで、苦しくて堪らない。
自分の歩む道の先が暗闇に包まれていて、何も見えないことが恐ろしくて堪らない。
それでも私は、光を求めて歩み続けなければならない。
暗闇しか見えなくても、きっとその先に何かがあるとまだ信じているからこそ、私は立ち止まれないのだ。
土方さんが暗闇の中を進み続ける限り、私はその背を追い続けると、あの人を失ったときに誓った。
逝ってしまった彼らに託された思いを、意志を抱いて。
私は前に進まなければならない。
私にできることを、為すために。

為すべきこと