三味線の音、芸妓の唄、大きな笑い声。
そんなものが、ここ角屋には溢れている。
座敷の向こうの喧騒を聞きながら、行灯に照らされた廊下を進んでいく。
足を止めた場所は、角屋の中でも奥まった位置にある座敷の内のひとつ。
周囲に人目がないことを確認すると、襖をそっと開けて中へと足を踏み入れた。
座敷の中を照らす灯りは、たったひとつの行灯だけ。
決して明るいとは言えないそこに、彼は座っていた。

「遅くなってしまって、申し訳ありません。山崎さん」

襖を閉め、私は彼の前に腰を下ろす。

「いや、こちらこそ急に呼び出してしまってすまない。どうしても君に頼まなければならないことがあってだな…」

そう告げながら、山崎さんは眉間に皺を寄せ険しい表情を浮かべた。
この人がこういう顔を見せるのは、厄介なことがあったとき。
もうこの人の下で隊務をこなし始めてからずいぶんと経ったから、それくらいのことはすぐに分かる。
その上、いつもは薬屋に扮して勝手口までしか来ない彼がここまで来るなんて珍しいことだ。
何か良からぬことでもあったのだろうかと思い、自然と私の表情にも緊張が走る。

「実は、今屯所に女がいる。その者の面倒を、君に任せたい」

彼の言葉に驚いて目を見開きながら、己の耳を疑った。
風紀の乱れを防ぐ為、新選組には女隊士という存在がいない。
私だって、ほとんど角屋に潜入している身だからこそ特別に許されているくらいだ。
そこまで厳しい新選組に、どうして女人が。

「それはまた…一体どのような経緯で?」
「…薬の件を、見られた」

私は再び、驚きに動きを止めた。

「その上、どうやら雪村綱道氏の一人娘らしい。真偽の程は分からないが、現状では生かしておく、ということになっている」

なるほど、と呟く。
あの綱道さんの娘ならば、確かに無下にはできない。
綱道さん自身が行方不明の今、新選組にとって重大な秘密を知っている人間を野放しにしておくわけにはいかないのだ。
もし本当に一人娘であるなら、彼の行方について何か知っているかもしれない。

「年齢も、きっと君とそう変わらないはずだ。副長は君に面倒を見るよう仰っている」
「そういうことでしたか…」
「詳しいことはこれを読んでくれ。目を通したら速やかに処分を頼む」

そう言って差し出された紙切れを懐にしまい、頷く。
たしかに、そういう事情なら私を呼んだ方が手っ取り早い。
男ばかりでは、聞ける話も聞けないのだろう。
相手が相手だし、何か罪を犯してしまったわけではないから、尋問するわけにもいかない。

「それにしても、よく沖田さんが生かしておきましたね」

あの人のことだから、きっと斬るだの殺すだの言っていそうだ。
苦笑混じりにそう言うと、山崎さんは呆れたように溜息を洩らした。

「あの人は、殺してしまえばいいと言っていた。まったく、冗談にならない冗談を言うのはいい加減やめて欲しいものだ」

その言葉に、思わず笑みを零す。

「仲がよろしくないのですね、相変わらず」
「俺と沖田さんでは考えが違う。仕方ない」
「はいはい、分かりました」

この人たちの反りが合わないのはいつものことだ。
初めははらはらしていたけれど、今では微笑ましいくらいに思える。

「では、しばらく暇を出して頂けるよう、店にお願いしておきます」
「すまないな」
「いえ…それでは、お気をつけて」

座敷を出て、店主の元へ行こうと歩みを進めていると、私を探していたという見習いに呼び止められた。

「坂本はんがお呼びどす、小春姐はんがおらんと酒が飲めへんって言うてました」
「ほな、お伺いせな。おおきに」

芸妓として、私は小春と呼ばれている。
角屋のような花街には、様々な人が訪れる。
幕府のお役人であったり、旅の者であったり、地方からやってきた浪人であったり。
そして彼ら客の相手をしながら、諜報活動をするのが私の役目だ。
それが、新選組諸士調役兼監察方である、私の仕事。

呼ばれた座敷の襖の前に座して呼びかけると、返ってくるのは大層上機嫌な声。
笑みを浮かべて襖を開き、再び私の諜報活動は始まった。



-----------



私が暇を頂いて屯所に戻ってきたのは、文久四年の一月。
すっかり雪が積もっていて、厚着をしていても十分肌寒い。
屯所へ入り、衣についた雪を払った。

「お、なまえじゃん」

名前を呼ばれて振り返ると、元気そうな笑みを浮かべてその人 藤堂平助は手を振っていた。
それに応えるように、私も笑顔を浮かべる。
というか、この人の笑顔を見ると自然と笑みが浮かんでしまう。

「ただいま、平ちゃん」
「こっちに帰ってくるの久しぶりだよな。角屋の方のは終わったのか?」
「終わったっていうわけじゃないんだけど、土方さんに呼び出されちゃって。だから、しばらく暇を頂いてきたの」

そう言うと、彼は私が呼ばれた意味を察したようで、苦笑いのようなものを浮かべる。
やっぱり、扱いに少し戸惑っているのだろう。

「あー、なるほどな。とりあえずおつかれ」
「ありがとう」

そのまま彼と別れて、私は自分の部屋へと足を運んだ。

久々に入る部屋。
数ヶ月ぶりだろうか。
しばらく角屋で諜報作業にまわっていたから、なかなか帰って来れなかった。
女物の着物から袴に着替え、結い上げていた長い髪を一度解いて、一つに束ねる。
私が女だということは隊士に知られてはいるものの、形だけでも男装しなければならない。
身支度を整えて部屋を出ると、現れたのは猫のようなあの人。

「あ、沖田さん…ただいま戻りました」
「おかえり、なまえちゃん。一緒にこれでもどう?」
「また、それですか…」

彼が手にしているのは、豊玉発句集。
私の目の前に立っていながら、その手は発句集を捲り、内容を面白そうに目で追っている。
大声で読み上げないだけ、今回はまだましなのかもしれない。
こんな光景を目にするのは、もうこれで何度目だろう。

「懲りませんね、沖田さんも」
「仕方ないじゃない、楽しいんだし」
「そのうち、また土方さんが取り返しに来ますよ?」
「それが楽しいんだよ」

そう言いながら、清々しいまでの笑顔を向けられても、私は苦笑いするしかない。
この人は本当に楽しそうにやっているから、なんだか憎めないのだ。
きっと、土方さんもそうなんだろう。

「これから、土方さんのところかな?」
「そうですよ」
「なら、これは僕が預かってるって言っておいてもらえる?気付いてもらえないんじゃ、こっちもやりがいがないしさ」

そっと溜息をついて、頷く。
正直、頷くことしかできない。
この人を敵にまわしてしまうのはどうしても避けたい。

「分かりました。伝えておきます」
「ありがとう。それじゃ、いってらっしゃい」

楽しそうな彼に見送られて、私はその場を後にした。



----------------------



「土方さん、なまえです。ただいま戻りました」
「ああ、入れ」

襖を向けると、その人は相変わらず文机に向かって筆を滑らせていた。
座るよう促されて、腰を下ろす。

「話は山崎さんから粗方聞いています。例の件を見てしまった方が、綱道さんの一人娘だとか…」
「ああ、話が早くて助かる。ついて来い」

部屋を出ていく土方さんの後を追って、廊下へと出る。
彼の後ろを歩いていると、どうしても長い髪に目が行ってしまうのは、仕方がないことだと思う。
女の私ですら羨ましいくらい、綺麗な黒髪。
それに加えて、あの端正な顔立ち。
役者のような二枚目、と新選組の内外から言われているのも納得だ。
しかも、烏合の衆と言っても過言ではない新選組を統率する力まで持っているのだから、人は見かけによらない。
だからこそ、私はこの人についてきたのだけれど。

そんなことを考えているうちに、土方さんはある一室の前で立ち止まった。
どうやら、この部屋に例の人がいるらしい。

「今は、この部屋で寝起きさせている。後は、よろしく頼んだぞ」
「分かりました」
「戻ってきたばかりで悪いな。何かあったらすぐに知らせてくれ」
「…あ、土方さん」

言伝があったことを思い出して、その場を去ろうとする土方さんを慌てて呼び止める。
危ない危ない。すっかり忘れていた。
振り返る土方さんに、思わず苦笑いを浮かべながら口を開く。

「あの…沖田さんがまた、豊玉発句集を…」

私が言い終わるのを待たずに、その端正な顔が徐々に鬼の面に変わっていく。
正直、怖い。ものすごく怖い。
もともとが綺麗な顔立ちだから、その変貌ぶりが凄まじい。
それから程なくして、屯所内で盛大な鬼ごっこが始まったのは言うまでもない。

肩を怒らせて踵を返した後ろ姿を見送ってから、再び目の前の襖に向き直る。
さて、一体どんな子なのだろうか。
男ばかりの新選組で女二人だから、できるなら仲良くしたいものだ。

「雪村さん…開けてもよろしいですか?」
「…ど、どうぞ」

襖越しに声をかけると、驚いたような気配の後に遠慮がちな声が返ってくる。
怯えるのも無理ないな、と思いながら、私はそっと襖を開けた。
声の主は、緊張した面持ちで部屋の隅に座っていた。

「初めまして、みょうじなまえです。そんなに緊張せずに、楽にしてください」

なるべく脅かさないよう、優しい笑みを作りながら、彼女の前に腰を下ろす。
ひとつに束ねた長い黒髪、大きな瞳。
どこからどう見ても女の子だ。
正直、この程度で女の子だと気付かなかった隊士がいることに驚きだ。

「改めまして、諸士調役兼監察方の、みょうじなまえと申します。土方さんから、屯所での貴女の世話を任されました。どうぞよろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします…」

軽く頭を下げて自己紹介すると、彼女も慌てた様子で頭を下げた。
戸惑いを隠せていないのか、大きな瞳で私をじっと見つめている。

「ごめんなさいね。こんなところに押し込めるようなことをして…不便でしょう?」
「あ…いえ、そんなことは……」

雪村さんは視線を落として、首を小さく横に振った。
口ではそう言っているけれど、きっと窮屈だろう。
その上、まわりは男ばかりで、軟禁されて。
やはり、土方さんが私を呼んだのは正しかったようだ。

「新選組で、女の隊士は私だけです。ここは男所帯ですから、不便も多いと思います。困ったことは何でも相談してください。微力ながらも、力になれるでしょうから」
「ありがとうございます。それなら…ひとつ、お聞きしたいことが……」

彼女が安堵の表情を浮かべたのも束の間、今度は思いつめたような表情で私を見た。

「私、父さまを探しに京へ来たんです。しばらく連絡もとれていなくて、どうしても心配で…。だから、なるべく早く父さまを探したい…もし、何か大変なことに巻き込まれているとしたら……」
「雪村さん」

不安げに瞳を揺らす彼女になるべく優しい微笑みを浮かべながら、やんわりと言葉を遮った。

「お父上が心配なのは分かります。でも、土方さんや近藤さんの許可が下りない限り、あなたを屯所の外へ出してあげることはできません」
「どうか、そこを何とかお願いします。父さまは私のたった一人の家族なんです。今どこで何をしているのかさえ分かれば……」
「でもあなたは、"あれ"を見てしまったのでしょう?」

懇願する彼女にそう告げると、雪村さんははっとした様子で口を噤んだ。
何を、と言わなくても分かったのだろう。
彼女の肩がびくりと震えたのを私は見逃さなかった。
私自身も、あれの恐ろしさは身を以て知っている。
肩の傷が、ずきりと痛んだ気がした。

「今のあなたには、この状況は辛いものかもしれません。けれど、あなた自身を守るためには、こうしなければならない。どうか理解してください」

羅刹という存在を知ってしまった彼女を解放したとして、もしどこかに口外でもされれば、私たちは彼女を殺めることになる。
たとえ相手が女子供であろうが、躊躇いなく確実にそれを遂行できる人間が、この新選組にはいる。
私の言葉に納得しきれてはいないのか、彼女は悲し気に視線を下げた。
なんだかいたたまれなくなって、口を開く。

「でも、さすがにずっとこのまま、という訳にはいきません。時を見て私が土方さんに相談してみますから、どうかそれまではお待ち頂けませんか?」

そう言うと、彼女は今度はぱっと顔を上げて嬉しそうに微笑む。
その様子が小動物のようで、私も釣られるように笑みを深めた。

「はい…!」
「いい返事ですね。それじゃあ、この話は置いておいて……」

私の言葉に、雪村さんは不思議そうに首を傾げる。

「私たち、歳もそんなに離れていないようだから、堅苦しいのはやめにしましょう?私のことはなまえって呼んで欲しいの。あなたが良ければ、だけど…どうかな、千鶴ちゃん」
「あ……もちろん!よろしくね、なまえちゃん」

さらに嬉しそうに顔を綻ばせた彼女を、かわいらしい子だな、と心からそう思った。

芸妓