私は久々に男装をやめ、芸妓の姿で街を歩いていた。
茶屋などでは芸妓である小春でいた方が顔が効くし、いろいろな話も聞ける。
化粧をうまくしてしまえば、男装のときと女装のときでは、じっと見ない限り同一人物とは分からないようになる。
これは、忍だった母から教わった術だ。
角屋などに顔を出してから、最近不穏な動きをしていると報告があった桝屋の近くへと向かう。
その向かいの茶屋に入ると、店の奥で山崎さんが薬屋に扮して桝屋を張っていた。
「あら、薬屋さんやないの」
さりげなく歩み寄り、その近くに腰を下ろす。
あくまで今の私は芸妓であり、彼は薬屋だ。
「これは小春はん。久しぶりでんなあ。あれからお加減はいかがでっか?」
「お陰でこの通りどす。これ、この前のお代。遅くなってかんにんえ」
そう言いながら懐からお金を包んだ紙、もとい土方さんから預かった文を差し出す。
それを受け取ると、彼はすかさず懐へそれをしまい込んだ。
こうして情報をやり取りするのが、私たちのやり方だった。
桝屋の方へ視線を向けると、入り口前では島田さんが張り込んでいる。
「見てみ、壬生狼や…」
誰かがそう言ったのを皮切りに、茶屋の中がざわめく。
その表情は一様に険しい。
新選組のことを壬生の狼と呼んで、京の人たちは毛嫌いしている。
誰かが指差した方向を見てみると、たしかにそこには浅葱をまとった新選組がいた。
沖田さんの姿が見えるから、おそらく一番組だろう。
新選組を嫌う声を聞きながら巡察の彼らから視線を外そうとすると、いるのはずのない彼女の姿が目に入って視線を止めた。
千鶴ちゃんだ。
土方さんがようやく外出を許可してくれたのだろう。
沖田さんがいるのなら大丈夫だろうと安心したのも束の間、千鶴ちゃんが桝屋の中へと入っていくのが見えた。
気付いた沖田さんが追おうとするけれど、隊士たちが浪人と口論になっているのに気付いてそちらへ行ってしまう。
このままではまずい。
彼女が新選組と一緒に歩いているのは見られているだろうし、何をされるか分からない。
「あ、そや、うち桝屋さんに用があったんどす。ほな、これで」
止めようとする山崎さんを振り払って、私は茶屋を出て足早に桝屋へと入って行った。
私が桝屋へ足を踏み入れたのは、千鶴ちゃんが新選組の者とばれたのとほとんど同時だった。
非常にまずい。
そう思って、千鶴ちゃんを背に庇うようにして浪人の前に出る。
「何だ、貴様は!貴様も新選組の者か!」
「うちは角屋の小春どす。この人はうちのお客さんさかい、どうか堪忍しておくれやす」
そう微笑みながら言ってはみるけれど、たったこれだけに聞く耳を持ってくれるとは到底思えない。
案の定、角屋という言葉に何人かが反応はしたものの、刀を納める様子は見られなかった。
「そのようなことは関係ない、今すぐそこをどけ!どかなければ貴様も斬るぞ!」
ああ、やっぱり無理か。
浪士たちは、今にもこちらに斬りかかってくる勢いだ。
その勢いに気圧されたのか、背後にいた千鶴ちゃんが後ずさろうとして転んでしまう。
それを合図にして、浪士たちが刀を振り上げた。
咄嗟に千鶴ちゃんを抱きしめて庇ったけれど、刀がぶつかり合う音がしただけで、私の身体に痛みが走ることはなかった。
「お、沖田さん…!」
振り返ると、浪士の刀を沖田さんが刀で受け止めていた。
彼は視線だけをこちらに向ける。
「大丈夫?そこの芸妓さん」
「へ、へえ…」
「君って本当に運がないよね。ある意味、僕もこいつらもだけどね」
その後、沖田さん率いる一番組によって桝屋の討ち入りが行われた。
討ち入りが行われている間に、私は桝屋の外へと千鶴ちゃんを連れ出す。
「ごめんなさい、私…」
「お怪我はあらしまへんか?」
怪我がないか確認するふりをして、彼女の耳に口を寄せて囁く。
「私が女の姿をしているときは角屋の小春。だから、そう接して」
私の囁きに千鶴ちゃんは頷いた。
「さっきは、ありがとうございました。小春さん」
「かまいまへん。最近物騒やから、気をつけておくれやす。ほな」
そう言って一礼して、私はその場を離れた。
その日の夕方。
男装に着替えてから屯所へと戻ると、門のすぐ傍に誰かが立っているのが見えた。
近づくにつれて見えてきたその人は、険しい表情を浮かべている。
「お疲れ様です、山崎さん」
桝屋の一件が終わったのだろう、私よりも早い帰りだったようだ。
私の労いの言葉を聞いても、その人は険しい顔をしたまま。
何か私はしくじったのだろうか、と首を傾げるけれど、別に心当たりはない。
「怪我はなかったか」
「怪我……?あ、桝屋のときですか?」
突然何を言われるのかと思えば、そんなことかと肩の力を抜く。
別に戦闘に参加したわけでもないから、私はかすり傷ひとつ負っていない。
無事だと言うことを証明する為に、手をひらひらと振って見せる。
「大丈夫ですよ。そもそも、怪我するようなことをしてませんし」
それでも信用できないのか、彼は私の手を掴んで見つめる。
相変わらず心配性だな、と思って思わず苦笑する。
「本当に大丈夫ですから、とりあえず中に入りませんか」
「…あまり無茶をするな」
私が本当に怪我をしていないことを確認したのか、山崎さんはそれだけ言って私の手を引いて屯所内へと入り、そのまま広間へと連れて行かれた。
「大したお手柄ですね。桝屋に運び込まれた武器弾薬を押収し、長州間者の元締め、古高俊太郎を捕えてくるとは…」
「ほんと、ついてましたよね」
座敷に入ると、そんな会話が既に始まっていた。
笑いながら答える沖田さんに、山南さんは厳しい表情で口を開く。
「笑いごとではありません。桝屋の主人が、長州の間者という情報を得て泳がせていたんじゃありませんか」
「島田くんや山崎くんに悪いと思わないわけ?なまえだって、いろいろ情報集めてくれてたのにさ」
平ちゃんが呆れた様子でそう言った。
「我々のことなら、気にしないでください」
「桝屋の監視を続けてきたものの、手詰まり状態でしたから、沖田さんたちが動いてくれたおかげで、古高を抑えることができたんです」
「そうです。私もそこまで重要な情報を掴めていたというわけではありませんでしたし…」
「それは結果論です」
山崎さんと島田さんに続いて私も弁解したけれど、山南さんにそう言われてしまうと、たしかに何も言えない。
でも、手詰まりだったのは事実だった。
やはり、最も重要な話は芸妓なしに話すもの。
いくら芸妓は口が堅いと言っても、そこまでは気を許せないのだろう。
多少の情報は集まっても核心に触れるような代物は得られなかった。
「お前らは殊勝だねぇ。それに引き替え総司は……」
「私が悪かったんです。父を見かけたという話を聞いて、後先考えずに店に行ってしまったから…」
新八さんの言葉を遮るように、千鶴ちゃんはそう言った。
「仕方ないよ、せっかく聞けた綱道さんの情報だったんだから…」
「仕方ないで済まされる問題ではありませんよ、なまえさん」
落ち込む千鶴ちゃんを励まそうと声をかけるけれど、それですら山南さんに跳ね除けられてしまった。
隣の山崎さんが私の手を握り、小さく首を横に振る。
これ以上、口を出すなということだろう。
「君の監督不行き届きの責任は、沖田くんにあります」
山南さんは沖田さんへ視線を向け、厳しく言い放った。
その直後、襖がさっと開いて、桝屋の主人、古高を尋問していた土方さんが姿を現す。
「それに関しちゃあ、外出を許可した俺にも責任がある。こいつらばかり責めないでやってくれ」
「土方さん…古高は、何か吐いたのか?」
左之さんの問いに、土方さんは険しい顔をして、重々しく口を開いた。
「…風の強い日を選んで京の町に火を放ち、その期に乗じて天子様を長州へ連れ出す」
その言葉に、この場の誰もが驚いた。
「京の町に火を!?」
「それって単に天子様を誘拐するってことだろ?尊王掲げてるくせに、全然敬ってないじゃん」
「町に火を放つなんざ、長州の奴ら、頭のねじが緩んでんじゃねえか」
驚きで目を見開く近藤さん、呆れた様子を見せる平ちゃん、怒りを隠せないのか険しい表情を浮かべる新八さん。
火を、放つ。
その言葉に、頭痛と共に私の脳裏にいつかの記憶が甦った。
燃え盛る炎。
誰のものとも分からない、悲鳴と絶叫。
私の手を引く誰か。
倒れる誰か。
逃げろと叫んだ誰か。
眩暈を感じて、慌てて目を閉じ頭を振って無理矢理記憶を払う。
「大丈夫か、なまえ」
まだ少しだけ眩暈を感じたまま、瞼を持ちあげて隣を見ると、心配そうな表情を浮かべた山崎さんがいた。
解散になったのか、広間にはもう私と彼しかいない。
「あ…すみません、皆は…?」
「召集がかかった。これから出陣の準備に入るそうだが……」
「分かりました、行きましょう」
これから動くのだとしたら、私の役目は伝令になるだろう。
それなら、ここで昔を思い出している場合じゃない。
そう思って立ち上がろうとすると、山崎さんに肩を掴まれた。
「体調が優れないのなら、ここに残れ。皆に迷惑をかけるつもりか」
「すこぶる好調ですし、迷惑をかけるつもりもありません。それに、今は動ける隊士が少ない。そんな状況で、休んでいるなんてできませんから」
ここのところ猛暑で、体調の優れない隊士は少なくない。
動ける者が動かなければ。
肩を掴んでいる手を退けようとするけれど、さっきよりも強く掴まれる。
僅かな痛みに、眉を寄せて非難するように彼を見る。
対する山崎さんの顔は、真剣だった。
「戦闘になるかもしれない」
「戦闘が避けられないのは当たり前です。私が大丈夫だと言っているから、大丈夫なんです」
「そういう問題ではない」
「それなら、何が問題なんですか?もう平気です、私は戦える。だから……」
「俺の気持ちを察しろ…!」
むきになった私の言葉を遮って、その人は険しい表情の中に、苦しそうな表情を浮かべて懇願するようにそう言った。
久々に見る表情に、私は思わず閉口する。
彼が掴んでいない方の肩、左肩に負った昔の傷が、小さく疼いたのを感じた。
「…すみません。でも、本当に大丈夫ですから…」
右肩を未だ掴んでいる彼の手に、自分の手を重ねる。
その手が小さく震えているのに気付いて、彼がどれだけ私を心配しているかを改めて思い知った。
「もう以前のような無茶はしないと、約束します。だから、行きましょう」
「絶対に、だな」
「はい、絶対です」
彼は眉間に皺を寄せたままだったけれど、ゆっくりと私の肩を離し、その代りのように手を握ってきた。
事実、動ける隊士は三十名程度しかいない。
集まった隊士の人数を見て、土方さんが驚いたのも無理はなかった。
会津藩と所司代に報せを出したはいいけれど、何の動きも見せていないようで土方さんが苛立っているのが感じられる。
古高が捕縛されたことによって、長州が会合を開くのは四国屋ではないかという仮説が立てられ、可能性が低いと考えられる池田屋に近藤さん、沖田さん、平ちゃん、新八さん以下十名が向かい、土方さんが率いる私を含めた二十五名が四国屋へ向かうことが決まった。
「もし四国屋だった場合、増援はお前にかかっている。頼めるな」
「はい、もちろんです」
出発する間際、確認するようにそう言ってきた土方さんに、大きく頷く。
動きやすいように、私はいつもの袴ではなく忍によく似た黒装束に着替えている。
これなら闇夜に紛れるには打ってつけだし、あちこちに武器を仕込んでいるから戦闘になってもある程度は戦えるのだ。
私は伝令だから、戦闘には参加しない予定だけれど、どうなるか分からない。
「気を付けてね、なまえちゃん」
「うん、ありがとう。留守をお願いね」
門前で千鶴ちゃんと言葉を交わし、私は隊士たちと共に四国屋へと向かった。
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四国屋に着いたはいいけれど、座敷の灯りは点いていても中の様子は分からない。
伝令を走らせたはずの会津藩と所司代も、今のところ何の動きも見せてはいなかった。
「それにしても遅いな、所司代は」
「もう一度遣いを走らせますか?」
苛立った様子で、左之さんが呟き、斎藤さんも土方さんに尋ねる。
伝令が発ったのはもうずっと前だ。
いくらなんでも遅すぎる。
土方さんが苛立ちに舌打ちをした直後、誰かの走ってくる足音が聞えた。
「伝令!!」
響いたのは、その場にいるはずのない千鶴ちゃんの声。
「本命は…池田屋!!」
肩で息をしながら、彼女はそう告げる。
おかしい。
どうして彼女が。
伝令に来るなら、山崎さんのはずだ。
まさか、彼に何かあったのだろうか。
途端に鼓動が早まる。
「千鶴ちゃん、どうして……山崎さんは?山崎さんはどこ?」
千鶴ちゃんに駆け寄って尋ねる。
彼はそんなに弱い人間じゃない。
分かってる。
分かっていても、不安が渦巻いて大きくなる。
「一緒に屯所を出て来たんだけど、屯所近くに浪士がいて…自分がなんとかするから、先に行け、って…」
荒い呼吸を整えながら、彼女は告げた。
やはり、手薄になった屯所を狙う浪士がいたのか。
きっと一人や二人ではないのだろう。
逸る気持ちを抑えて土方さんの元へと行く。
「土方さん、私、山崎さんの援護に行ってきます。千鶴ちゃんを頼みます!」
復調の返事も聞かずに、私は走り出した。
急げ、早く、もっと早く。
きっと彼は、複数人の浪士に対して一人で戦っている。
急がなくては。
いつもより遅いと感じる自分の脚を叱咤しながら、私は屯所への道を駆けた。
屯所のすぐ傍まで来たとき、刀のぶつかり合う音が鼓膜を叩く。
そちらの方へ向かうと、浪士に囲まれている山崎さんの姿が見えた。
囲まれてはいるものの、大きな怪我を負っている様子はない。
ああ、良かった。
浪士は四人。
この人数ならば、なんとかなる。
私の足音を聞きつけた浪士の一人が、こちらを振り向いた。
「こんな夜中に屯所を訪ねて来るなんて、無粋な人たちですね。一体何の御用でしょう?」
腰に差した小太刀を抜きながら、私はわざと明るい声をかける。
小太刀が月明かりに反射して、銀色の光を放った。
「貴様も新選組か!」
「だったら、どうします?」
私が答えているうちに、その男はこちらに刃を振り上げてきた。
遅い。
鈍い動きで振り下ろされる刃を避け、男の腕に小太刀を滑らせて再び距離を取った。
私の動きに男が怯んだ隙に地を蹴って、男の顔を踏みつけてさらに高く跳躍する。
そして、浪士と山崎さんの間に降り立った。
「遅くなりました、すみません」
何か言いたげなその人に一瞬だけ視線を向けて、再び浪士たちに向き直る。
私が踏みつけた男は顔を抑えて呻いていた。
「言っておきますけれど、この小太刀には毒が塗ってあります。体内に入れば身体が痺れてしばらく動くことができなくなる代物ですよ」
先程の男につけたのはかすり傷程度。
けれど、毒の効果が出るには十分だ。
案の定、私が斬りつけた男は腕に違和感を感じたのか、青ざめた顔で自らの腕と私を交互に見ている。
その様子に気付いた他の浪士たちは苦々しげな表情を浮かべたかと思うと、勝算がないとでも思ったのか、一目散に走り去っていった。
なんだ、思ったよりも呆気なかった。
今回の本命は池田屋だ。わざわざ追う必要はないだろう。
「無茶はしないと、約束したばかりだったはずだが」
浪士が走り去っていった方向を眺めていると、背後から不満そうな声がかかった。
今日一日で何度心配されているだろうと苦笑しながら、そちらを向く。
「今のは無茶じゃありませんよ。私にとっては、あんな動きを避けるのなんて朝飯前ですし。それより、お怪我は?」
「大丈夫だ。雪村君は、無事伝令を果たしてくれたようだな」
「ええ。お陰でだいぶ驚きましたけど」
大袈裟に肩をすくめてみせると、彼は今度は彼が苦笑を浮かべた。
「池田屋へ向かおう。土方さんたちも、向かっているはずだ」
「はい!」
そうして、私たちは池田屋へと向かった。
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池田屋の前には、ようやく動き出した会津藩を、たった一人で止めている土方さんがいた。
「このまま役人が踏み込めば、長州浪士制圧は奴らの手柄…」
私の隣で、山崎さんが呟く。
その声に千鶴ちゃんがこちらに気付いて、安心したような表情を浮かべた。
「山崎さん、なまえちゃん…」
「先に踏み込んだ新選組の武勇など、なかったことにもなりかねない…」
「会津藩からしてみれば、私たちはただの烏合の衆くらいにしか思われてない。ここで会津を通してしまったら、隊士が血を流した努力が水の泡になってしまうの」
「そんな……」
山崎さんや私の言葉に、千鶴ちゃんは不安げに瞳を揺らす。
「それだけ、我ら新選組は軽んじられてるということだ……副長はたった一人で新選組の盾となり、仲間の手柄を守ろうとしている」
そのとき、池田屋から負傷した隊士が出てくるのが見えた。
その隊士に駆け寄って傷の具合を確認しようとすると、私の隣を走り抜けて誰かが池田屋の中へと入っていくのが視界の隅に映る。
思わず視線を向けると、千鶴ちゃんだった。
今、池田屋の中は戦場だ。
いくら剣術の心得があるからと言って、無事では済まされない。
「千鶴ちゃん…!駄目!戻って!」
私の必死な声が聞こえないのか、彼女の後姿は池田屋の乱闘の中に消えて行ってしまう。
目の前の隊士が死に至るほどの怪我をしていないことを確認して、私は彼女を追って池田屋の中へと足を踏み入れた。
その途端に鼻をつく、強い血の臭い。
思わず顔をしかめ、口布の上から手で鼻を覆う。
「なまえ!?お前、なんでこんなところに…!」
新八さんが刀を手にしたままこちらへと寄ってくる。
敵のものか、それとも彼自身のものか分からない鮮やかな赤で、その衣は染まっていた。
「新八さん、千鶴ちゃんを見てませんか!?あの子、この中に入ってしまって…」
「千鶴なら上だ、行くなら早く行け!」
そう言って、彼は斬りかかってきた浪士に応戦する。
御礼など言っている暇はない。
千鶴ちゃんのような人間がこんな場所にいてはいけない。
早く連れ戻さなければ、危険すぎる。
階段を駆け上がって、二階を目指す。
途中で浪士が向かってきたけれど、それを避けて小太刀で応戦した。
なんとか浪士を退けて二階へ上がると、ひとつだけ襖の開いている座敷が目に入った。
「駄目です!血を吐いてるのに!」
千鶴ちゃんの叫びが、その座敷から聞こえてくる。
迷わずその座敷の中へ足を踏み入れると、口元を血で汚し伏している沖田さんと、その傍らに縋る千鶴ちゃん、そして窓際に佇む人影が見えた。
小太刀をその人影に向け、二人を背に庇うように立ちはだかる。
「なまえちゃん…!?」
千鶴ちゃんの驚いたような声が耳に入ったけれど、振り向かずに人影を見据える。
月明かりが逆光になっているせいで、その顔は見えない。
けれど、その人物が醸し出す異様な空気に、ぞわりと鳥肌が立った。
私の敵う相手じゃない。
本能が、そう告げている。
「なまえ…僕が……」
「沖田さんは大人しくしていて下さい」
自分が戦うとでも言いたいのだろうが、吐血している彼を無理に動かすわけにはいかない。
視線を目の前の人影に向けたまま、それだけ言って私は小太刀を握り直した。
ふいに雲が月を隠して、相手の表情が露わになる。
金色の髪と鮮やかな紅の瞳を持った男が、こちらを凝視していた。
「まさか……」
切れ長なその瞳を大きく見開いて、男は小さく呟く。
「あなたも、長州の者ですか?」
その人は私の声など聞こえていないのか、信じられないというような表情を浮かべて私を見ていた。
それに構わず、私は尋ねる。
この人も長州の人間ならば、逃がすわけにはいかない。
私が敵う相手ではないけれど、時間稼ぎくらいにはなるはずだ。
誰か来てくれれば、捕らえるのは不可能じゃない。
「…貴様、名を何と言う」
「私の質問に答えなさい!」
半ば叫ぶように答えると、その男は一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべ、窓に足をかけた。
まさか、ここから逃げるというつもりか。
「何のつもりだ…!」
背後で、沖田さんの声が聞こえる。
金髪の男は沖田さんへと視線を向けて、口を開いた。
「お前たちが踏み込んできた時点で、俺の務めも終わっている」
「待て…!」
止める沖田さんにも構わず、男は窓から身を乗り出す。
そして不意にこちらを振り返って、複雑な表情を浮かべた。
しかしそれも束の間、男はそこから姿を消した。
「くそっ、僕は…僕はまだ、戦える……!」
「沖田さん!」
振り返ると、沖田さんは意識を失っていた。
千鶴ちゃんが泣きそうな顔で、何度も沖田さんの名前を呼んでいる。
耳をすましてみると、一階での戦闘も終わっているようだ。
「千鶴ちゃん、今はとにかく屯所に戻ろう。そうしないと、沖田さんの容態も分からない」
取り乱す彼女の肩に手を置いてなるべく優しく語りかければ、彼女は唇を引き結んで何度も頷いた。
今回の討ち入りで、新選組は池田屋に集まっていた長州浪士二十数名のうち、七名を討ち取り、四名に手傷を負わせた。
長州浪士制圧という私たちの目的は達成されたのだ。
でも、新選組も無傷というわけにはいかなかった。
討ち入りに参加した隊士のうち、一名が戦死、二名が重傷。
平ちゃんは額を斬られ、沖田さんは吐血、新八さんは左手を負傷した。
後に、この事件は池田屋事件と呼ばれ、新選組の名を世間に知らしめるきっかけのひとつとなった。
池田屋事件
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