この時期は、とにかく洗濯物が多い。
稽古などで流す汗は見ていて清々しいものだし爽やかだとは思うけれど、洗濯することを考えると汗なんて全部同じものだ。
そんなことを考えながら千鶴ちゃんと庭で洗濯をしていると、旅支度をした平ちゃんが姿を見せた。
「よお、千鶴、なまえ」
「平助君…どうしたの、その恰好」
平ちゃんの姿に驚いたのか、千鶴ちゃんが首を傾げる。
「千鶴、お前の江戸の家を教えてくれない?」
いきなりそんなことを尋ねた平ちゃんに、正直ぎょっとする。
「え?いいけど…どうして?」
「平ちゃん、いきなり女の子に家はどこか聞くのってどうかと思うよ
私の言葉に、平ちゃんは慌てた様子で手をぶんぶんと横に振った。
「ちょ、なまえ、そんな目で見るなよ!隊士募集の為に、江戸に行くことになったんだ」
「隊士募集?」
「ああ。このところの俺たちの働きが認められて、新選組の警護地が広がっちゃってさ」
「そうなんだ、すごい!」
平ちゃんと千鶴ちゃんの会話を聞きながら、そういえば近藤さんや土方さんが江戸の誰かについて話していたのを思い出した。
たしか、名前は伊東甲子太郎、だったような。
おそらく、平ちゃんの江戸行の目的は、隊士募集だけでなくその人物の勧誘も含まれているんだろう。
でも私の記憶が正しければ、その人は尊王攘夷派の人間だったはずだ。
果たしてそんな人が、新選組に賛同するのだろうか。
「ついでに綱道さんのこともできるだけ調べてくるから、期待しててくれよ」
「うん!じゃあ、ちょっと待ってて」
家の場所を記すために、千鶴ちゃんは部屋へ戻っていく。
その姿を目で追いながら、口を開いた。
「伊東甲子太郎の勧誘も兼ての江戸?」
「ああ。俺が仲介役になったってわけ」
「そっか…綱道さんのこと、何か分かったらすぐに連絡してあげてね」
「おう、土方さんを通じて連絡するよ」
そんなことを話しているうちに千鶴ちゃんが戻ってきて、平ちゃんに紙を渡す。
そうして、彼は江戸へと旅立って行った。
その日の夕刻。
夕餉の時間になっても山南さんの姿が見えないことに気付いた私は、山南さんの部屋を訪ねた。
「山南さん、なまえです」
声をかけるけれど、返事が返ってこない。
灯りは点いているのに。
「開けますよ…?」
そっと襖を開いてみるけれど、誰の姿も見えない。
嫌な予感がした。
踵を返して屯所を出て、とある場所へと向かう。
変若水の研究は、屯所とは別の場所で行われている。
あの薬については、幹部でも一握りしか知らないものだ。
隊士たちの目に触れることがないよう、隔離する必要がある。
そこに向かってみると、案の定、灯りが点いていた。
「山南さん、いるんでしょう?」
そう言いながら襖を開ければ、今度こそ探していた人物はそこに座っていた。
その人の目の前には、鈍い光を放つ赤い液体。
「おや、どうしたんですか?なまえさん」
「…最近、やけに研究熱心なんですね」
襖を閉め、山南さんの近くに腰を下ろす。
以前負った左肩の傷が疼くのを感じながら、私は変若水へ視線を送った。
「ええ、これの開発は幕府の密命ですから」
変若水の開発と改良はもともと、千鶴ちゃんの父である綱道さんが幕府の命で行っていたものだ。
綱道さんが行方不明になってからは、彼が残した資料を基に山南さんが引き継いでいる。
「あなたにとって、変若水と羅刹はきっと、恐ろしいものなのでしょう。ですが今のこれは、あのときよりも改良されている。理論上は、幾分か暴走は抑えられそうなのです。もう少しで、そこまで辿り着く」
変若水を服用した隊士がどうなるか、私は身を以てよく知っている。
変若水の実験体とされていたのは、隊旗違反の隊士たちだった。
ある者は脱走しようとしたり、ある者は規律を破ったりと、本来なら切腹になるであろう隊士たちに変若水が与えられたのだ。
死にたくない、と懇願した彼らの末路が、羅刹。
当初はまだ、変若水の改良もそれほど進んでいなかった。
変若水を服用した隊士たちは血を求めて狂い、その並外れた力を駆使して何度も脱走しようとする。
中には脱走に成功した羅刹もいて、その度に私たちは、夜な夜な羅刹の捜索に駆り出されなければならない。
変若水の改良があまり進んでいなかた頃、私は脱走しようとした羅刹を止めようとして左肩に深手を負った。
今思えば、とても無謀なことだったと思う。
いくら私が身軽で人並み以上に動きが素早いとしても、羅刹の動きには敵わなかった。
羅刹となった隊士の鋭い歯が私の左肩に喰らいついてきたときの痛みは、今でも覚えている。
激しい痛みと出血のお陰で意識を失った私は、それから数日間生死の境を彷徨った。
私がやっと意識を取り戻したとき、看病の為に付き添ってくれていた山崎さんの一喝が屯所中に響き渡ったのは、隊士の中でも有名な話だ。
「また、隊士に試すんですか?」
「……改良が済んだら、私が飲もうと思います」
一瞬、自分の耳を疑った。
今、彼は何と言っただろうか。
「変若水を飲めば、私の左腕はもう一度動くかもしれない。また再び、剣客として生きることができるかもしれない」
「何を、言ってるんですか…?」
困惑する私を見て、山南さんは少しの沈黙の後、柔らかく微笑んだ。
「冗談ですよ、安心してください」
「…冗談でも、そんなことを言わないでください」
山南さんは穏やかな表情を浮かべていたけれど、さっきの言葉と彼の顔が焼き付いて離れない。
硝子の瓶に入った変若水は、月明かりに照らされて不気味に光を放っていた。
それから二ヶ月後の、元治元年十月。
「伊東殿!お待ちしておりましたぞ!」
「これは局長自らのお出迎え、痛み入ります」
屯所の前で、新選組に加わることになった伊東甲子太郎を、近藤さんが出迎えている。
江戸に行った平ちゃんの働きで、新選組は新たな隊士と、伊東甲子太郎を迎えることができたようだ。
その様子を、私と新八さん、斎藤さん、原田さんと沖田さんで少し離れた場所から眺める。
「あれが伊東甲子太郎…伊東流の免許皆伝らしいな」
「伊東さんは尊王攘夷派の人間と聞いたが、よく新選組に名を連ねる気になったものだ…」
「平ちゃんが仲介役になったそうですけど、まさか本当にこちらに来るなんて…」
「長州の奴らと同じ考えってことだろ?そんな人間が、俺らとうまくやれるのかねえ」
そんなことを話していると、私たちの後ろを山南さんが通りかかる。
「伊東さんは学識も高く、弁舌に優れた方ですよ」
「へえ…じゃあ山南さんは知り合い……」
左之さんがそう言いかけるも、山南さんはそれに構わず奥へと行ってしまった。
「山南さん、最近ますます愛想ないよな…」
「ああ、ここんとこ、めったに話をしねえし…。まあもともと、無駄口叩くような人じゃねえけどよ」
新八さんと左之さんの会話に、この前の山南さんの言葉を思い出す。
冗談だとは言っていたけれど、山南さんがあんなたちの悪い冗談を言ったりするだろうか。
「なまえちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げると、沖田さんがじっとこちらを見ていた。
気付けば、左之さんたちは既にどこかに行っていて、この場には私と沖田さんしか残っていない。
「何か考え事?」
「え、ええ、まぁ…」
「もしかして、山南さんのこと?」
少し逡巡したのち、私は小さく頷く。
この人になら、相談しても大丈夫だろう。
人気のない場所に移り、私は山南さんとの会話を全て沖田さんに伝えた。
沖田さんは私が話している間ずっと黙っていて、少し考え込んだ後にようやく口を開く。
「それなら、僕が山南さんの様子を見ておくよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
沖田さんが気にかけてくれるなら、これ以上頼もしいものはない。
頭を下げる私に、沖田さんはいつものように笑う。
「もし本当に山南さんが変若水を飲んだりして暴走したら、僕が何とかする。その代わり、なまえちゃんは絶対に止めようなんてしちゃ駄目だよ。もしまた怪我なんかしたら、怒る人がいるんだからさ」
「気を付けます…」
苦笑しながら答えると、沖田さんはそれじゃあ、とだけ言ってその場を去った。
沖田さんが様子を見てくれるのであれば、ひとまずは安心だ。
きっと山南さんが変若水を飲もうとしても、あの人であれば力ずくでも止めてくれるだろう。
そう思ってはいながらも、不安が消える事はなかった。
その日の夜、隣の部屋の物音で目を覚ました私は、襖を開けて外の様子を伺った。
袴に着替えた千鶴ちゃんの背中が、どこかへ行こうとしている。
彼女がこんな夜中に出歩くなんて、一体何があったのだろう。
私も着替えを済ませると、すぐに彼女の後を追った。
辿り着いたのは、山南さんが変若水の研究に使っている場所。
また、嫌な予感がした。
鼓動が早まるのを感じながら中へ入ると、案の定、山南さんと千鶴ちゃんの声が聞こえてくる。
「危険すぎます!そんなものに頼らなくたって、山南さんは…」
「こんなものに頼らないと、私の腕は治らないんです!私は最早、用済みとなった人間です!」
滅多に大きな声を出さない山南さんの、絶望にも似た声が響いた。
どうしたらいいだろう。
沖田さんを呼びに行くべきだろうか。
でも、この状態で山南さんと千鶴ちゃんを残してはいけない気がする。
「そんなことありません!皆も優しい山南さんのことが好きです。だから……」
意を決して、震える手で襖を開けた。
千鶴ちゃんと山南さんが驚いたようにこちらを見る。
山南さんの手に握られているのは、変若水。
身体が震えるのを抑えながら、私は彼に歩み寄ってその手を掴む。
「やめて下さい、山南さん」
「なまえさん…」
「お願いです、こんなもの飲まないで…!」
縋る想いで、そう告げる。
山南さんは、驚くほど穏やかな瞳を私に向けた。
ああ、いつもの山南さんだ。
優しくて、暖かくて、いつも微笑んでいた山南さん。
その表情を見て、泣きそうになる。
「剣客として死に、ただ生きた屍になれと言うのであれば…人として、死なせてください」
「っ…駄目!!」
私の手を振り払い、山南さんは小瓶の蓋を開ける。
手を伸ばしても、間に合わない。
その赤い液体が、山南さんの喉を通るのを見ていることしかできなかった。
飲んでしまった。
山南さんが。
「山南さん!」
千鶴ちゃんの叫びに、はっとする。
山南さんが変若水を口にしてしまった以上、何が起こるか分からない。
この場に、千鶴ちゃんを居させるわけにはいかない。
変若水を飲んだ山南さんは、胸元を抑えて呻き声を上げ、その場に崩れ落ちた。
その髪が白く染まっていく様を見て、息を飲む。
羅刹だ。
山南さんに駆け寄ろうとする千鶴ちゃんの腕を掴んで引き留める。
「千鶴ちゃん、今すぐここを出て、土方さんたちを呼んできて!」
「で、でも、山南さんが……」
「いいから早く!!行って!!」
私の焦り様に戸惑う千鶴ちゃんを、部屋の外へ無理矢理押し退ける。
土方さんたちが来るまでに、なんとか私が食い止めなくては。
山南さんの方へ向き直った瞬間、息苦しさに呻き声をあげた。
彼の手が、私の首をぎりぎりと絞め上げている。
白髪のその人は口元に笑みを浮かべて、血のように紅い瞳に私を映していた。
同じだ。あのときの羅刹と同じ、狂気を孕んだ瞳。
「なまえちゃん!!」
千鶴ちゃんの悲鳴が鼓膜を叩いた。
早く。早く逃げて。そう叫びたいのに、私の口からは苦痛に歪む呻きしか出てこない。
なんて強い力だろう。
朦朧とする意識を必死に保ちながら、山南さんの腕を弱々しく掴む。
「さ…な、ん…さ……」
お願い、戻って。
そう願いながら、彼を呼ぶ。
これだけで羅刹の狂気が収まるはずがないことは分かっている。
それでも、縋る思いで彼の名を呼んだ。
その瞬間、山南さんの力が緩んで私の身体は解放される。
どさりとその場に倒れこんで、肺が求めるままに空気を吸い込んでは激しく咳き込んだ。
千鶴ちゃんが私を呼ぶ声を最後に、私の意識は途絶えた。
目が覚めると、私の部屋だった。
障子の向こうから、明るい光が差し込んでいる。
もう朝になったのだろうか。
「なまえちゃん…?」
視線を巡らせて声の方へ意識を向けると、千鶴ちゃんが私の傍らで安堵の表情を浮かべている。
ああ、そうだ。
変若水を飲んだ山南さんに首を絞められて、そのまま気を失ってしまったんだった。
見たところ、千鶴ちゃんは元気そうだ。
良かった、無事でいてくれて。
「千鶴ちゃん…山南さんは…?」
「今、沖田さんたちが様子を見てくれてる。それより、気分はどう?」
「私は大丈夫。千鶴ちゃんは?何もされなかった?」
ゆっくりと起き上がりながら尋ねると、彼女は首を縦に振ってから俯いた。
「ごめんね、なまえちゃん…私のせいで…」
千鶴ちゃんの声は、小さく震えていた。
「私があの時すぐに土方さんたちを呼びに行っていれば、こんなことには…」
膝の上で握りしめられている彼女の手に、そっと自分の手を重ねる。
顔を上げた千鶴ちゃんの瞳には、涙が浮かんでいた。
「千鶴ちゃんのせいじゃない、自分を責めないで。これくらい私は平気。千鶴ちゃんに怪我がなくて、本当に良かった」
安心させようと微笑んでそう告げると、千鶴ちゃんは目元を拭って微笑み返してくれた。
それから身支度を整え、私と千鶴ちゃんは皆が集まっているであろう広間へと向かった。
私が姿を現すと、その場にいた皆が一様に安堵の表情を浮かべる。
「なまえ、もう起きて大丈夫なのか?」
「はい、ゆっくり休んだのでもう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「そうか。それなら良かった」
心配そうに眉を下げる近藤さんに、私は笑みを浮かべて答える。
そんな私を見て、隣の土方さんは呆れたように口を開いた。
「ったく、心配ばっかりかけさせるのはいつまで経っても変わらねえな」
「すいません、土方さん」
そんな土方さんに、苦笑しながら頭を下げる。
そうしていると、襖が開いて沖田さんと源さんが姿を現した。
「山南さん、峠は越えたみたいだよ」
「今はまだ寝てる。静かなもんだ」
二人の言葉に、重かった空気が少しだけ軽くなったのを感じる。
新八さんが安堵の表情を浮かべながら口を開いた。
「じゃあ、山南さんは成功したのか?」
「確かなことは、目が覚めるまで分からんな。見た目には昨日とは変わらないんだが…」
昨夜の山南さんの様子を見る限り、何もかもが成功したとは思えなかった。
あの狂気に満ちた瞳は、羅刹のものだ。
私の左肩に噛みついた羅刹の瞳と、そう変わらない。
「おはようございます」
突然襖が開いたかと思うと、一番居合わせたくない人物がそこにいた。
伊東甲子太郎。
その瞬間、広間の空気が一変する。
沖田さんなんて、空気が澱んだからと言いながら咳き込んでいる。
そういうことは口にしなければいいのに、と心の内で溜息を吐く。
「あら、こんな爽やかな朝なのに、皆さんの顔が優れませんのは、昨晩の騒ぎと関係あるんじゃありません?」
「ああ、いや、その……」
まわりを見渡しながら核心を突いてくる伊東さんに、近藤さんは困ったように言葉を濁す。
「おい、誤魔化せよ、左之」
「え、俺が?」
「はいはい、そういうことは説明上手な人に任せましょうね」
左之さんに誤魔化すように言った新八さんと、戸惑う左之さんの間に入った沖田さんが、斎藤さんへと視線を向ける。
その視線に気付いた斎藤さんは黙って立ち上がり、伊東さんに向き直った。
「伊東参謀のお察しの通り、昨晩屯所内にて、事件が発生しました。しかし状況は未だ芳しくなく…」
「まぁ、それは大変ですこと」
「参謀のお心に負荷をかけてしまう結果は、我々も望むところではありません。事態を収拾し、今晩にでも改めて伝えさせていただきたく存じます」
「なるほど…事情は分かりましてよ。そういうことでしたら、今晩のお呼ばれ、心待ちにしていますわ」
斎藤さんの言葉に、伊東さんは満足そうに頷いてその場を後にした。
伊東さんの遠ざかる足音を聞いて、皆が一様に溜息を吐く。
もちろん、私も例外ではない。
「なんだか見逃してもらえたみたいだけど?もしかして、一くんの対応が気に入ったのかな」
「そう願いたいものだが」
土方さんが眉間に皺を寄せて腕を組みながら口を開いた。
「幹部が勢揃いしているのに、山南さんだけいねえんだぞ。あの人絡みで何か起きたってことくらい、伊東ならすぐ察しがつくだろうな」
「そうだったね。あの人めんどくさいなあ」
「どうする、トシ」
近藤さんの問いに、土方さんは考え込んでいるのか黙ったままだった。
その後、私は近藤さん、土方さん、沖田さんと一緒に、山南さんの元を訪れていた。
三人には止められたけど、ここで止めたとしても私が一人で山南さんの元へ行くと思ったのだろう、渋々ながらも連れて行ってくれた。
「私はもう、人間ではありません」
山南さんはこちらを見ないまま、静かにそう言った。
「だが、君が生きていてくれて良かった。それだけで十分だとも」
「それで、腕は治ったんですか?」
沖田さんがそう尋ねると、山南さんは左手を挙げて開いたり閉じたりを繰り返している。
その手は以前のように震えてはいない。
「治っているようですね…少なくとも、不便はない」
「でも、昼間は動けないんでしょう?そんな状態で、隊務に参加できるんですか?」
さらに尋ねる沖田さんの言葉に、山南さんはようやくこちらを振り返る。
彼は僅かに笑みを浮かべていた。
「私は、死んだことにすればいい」
思いがけない答えに、私たちは言葉を失う。
本気で言っているのかと自分の耳を疑った私は、身を乗り出して口を開いた。
「何を…何を言ってるんですか?山南さん」
「これから私は薬の成功例として、新選組を束ねていこうと思っています。我々は薬の存在を伏せるよう、幕府から命じられている。私さえ死んだことにすれば、薬の存在は隠し通せます。薬から副作用が消えるのなら、それを使わない手はないでしょう」
私の言葉に構わず、山南さんはそう続けた。
その表情には、笑みさえ浮かんでいる。
さらに口を開こうとする私の肩を、沖田さんが掴む。
それを振り払おうと沖田さんを振り返ると、彼は強い視線で私を見つめていた。
これ以上言うな、ということだろう。
その視線に逆らえず、私は口を噤んで再び山南さんを見た。
「それしか、ないか…」
「ま、山南さんが自分で選んだ道ですし」
近藤さんも沖田さんも、山南さんの案を受け入れるようだ。
頭が混乱して、言葉がうまく出てこない。
「ならば、屯所移転の話、冗談じゃ済まされなくなった」
土方さんが、いつもと変わらぬ口調で話し出す。
「山南さんを伊東派の目から隠すには広い屯所が必要だ。今のままでは狭すぎる」
その話をしている間、山南さんはずっと笑みを浮かべるだけだった。
「あなたには、申し訳ないことをしてしまいましたね」
山南さんは眉を下げて微笑んでいる。
その微笑みはどこか憂いを湛えていて、私はどうしても笑みを返すことができなかった。
あの会話の後、近藤さんと土方さんに頼んで、沖田さんが残ることを条件に山南さんと二人で話をすることを許してもらった。
沖田さんには部屋の外で控えていてもらい、部屋には私と山南さんしかいない。
「本当に、いいんですか?」
「おや、一体何のことですか?」
「死んだことにするって…本当に山南さんは、それでいいんですか?」
私が絞り出すような声でそう言うと、山南さんは眉を下げる。
「私はもはや、人ではありませんから…」
「山南さんは、人間です」
そんな彼に、私は泣きそうになるのを堪えながら、はっきりと告げた。
私は、優しい山南さんが好きだった。
いつも少し後ろから皆を見守っているような、山南さんが好きだった。
山南さんが試衛館に顔を出すようになった頃から、穏やかで優しいこの人に何度我儘を聞いてもらったか分からない。
そんな人を、もう亡き者として扱うなんて。
「なまえさん。今の私は、あなたの左肩に傷を負わせたあの隊士とそう変わらないのですよ。多少改良はされていたとしても、私がいつ狂うか分からない」
そう言い聞かせるように告げる山南さんは、もう私を見ていなかった。
「羅刹になった私に、あなたが近付くことを快く思わない人もいるでしょう。もう行きなさい。沖田君も待っているのでしょう」
「でも……」
「私は平気ですから。さあ、行ってください」
まるで、私を突き放そうとするような口調だ。
もう以前のように、一緒に過ごすことはできないのだろうか。
それほどまでに、私たちと彼の溝は深まってしまったのだろうか。
有無を言わせない山南さんの様子に、部屋を出て行く他無かった。
部屋を出て、沖田さんと一緒に屯所へと戻るべく歩みを進める。
「ごめんね、なまえちゃん」
不意に立ち止まった沖田さんが、静かに告げた。
驚いて彼を見ると、いつもの飄々とした態度はどこへ行ったのか、辛そうな表情で私を見つめている。
「首、痛かったでしょ?僕がもっと早く駆けつけていれば…」
「沖田さんのせいじゃありませんよ。私が無謀すぎたんです」
すまなそうに視線を下げる沖田さんに、微笑んで答えた。
「それに前のように怪我をしたわけじゃありませんから、大丈夫ですよ。もう何ともありません」
そう言い終えるか言い終えないかのうちに、沖田さんの腕が私の身体に回された。
私を抱きしめ、彼は私の肩に顔を埋める。
私に縋り付く彼の身体は、小さく震えていた。
「沖田さん…?どうしました?」
「ごめん…」
何を尋ねても謝る沖田さんを不思議に思いながらも、手を伸ばして彼の頭を優しく撫でる。
そういえばまだ試衛館にいた頃に、土方さんに稽古で負けたと言って不貞腐れていた彼を、こうして慰めていたな、とふと思い出した。
あの頃は彼の身体の方が少し大きい程度だったけど、今では身長も体格も何もかもが違う。
彼の方が身長も断然高くて年上であるはずなのに、こういうところは変わっていないようだ。
私は彼の気が済むまで、その頭を撫でていた。
その後、新選組内には山南さんの死が伝えられた。
山南さんが羅刹となって生きていることを知っているのは、ごく限られた人数だけ。
そして半月後、新選組は半ば強引に屯所を西本願寺へと移すこととなった。
人としての死
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