裏切り少女の追憶

「やまざき、さん……」

止めどなく流れる涙の理由を、私は知らない。
どうしてこんなに切ないのかも。
どうしてこんなに苦しいのかも。
まるであの夢のように、身体が動かない。
瞼から溢れた涙は、頬を伝って落ちていく。
息苦しさと得体の知れない感情に押し流されそうになりながらも、必死にその場に足を踏みしめる。
そうしていないと、私が私でいられなくなるような気がした。

私の名を呼んだその人は、私の口から発された名を聞いて目を見開いている。
そして、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。

「なまえ……!」

さっきよりもしっかりとした声音で、彼は歩み寄りながら私の名を呼ぶ。
いつの間にか、その人は手を伸ばせば届く距離にいた。
躊躇いがちに、その腕が伸ばされる。
そして手が私に触れる瞬間、私の身体は弾かれたように動いて、よろめきながらも後退った。
私の様子に、その人ははっとした表情を浮かべた後、哀しそうに眉を下げて俯く。
その表情に、泣き叫びたくなるほど胸が痛んだ。
苦しい。
哀しい。
切ない。
複雑に絡み合った感情に耐えきれずに、私は思わず駆けだした。
視線を下げるその人の脇をすり抜け、屋上を飛び出す。
階段を一気に駆け下りて、息を切らしながら学園の外へと走った。
途中ですれ違った生徒たちが何事かと私を見ていたけれど、そんなのはどうでも良かった。
ただ、あの場所から、あの人の近くから少しでも離れたかった。
頬を伝う涙は、まだ止まらない。
息苦しさを感じる程の胸の痛みも、哀しみも切なさも、全く癒える気配がない。

学園の敷地を飛び出したところで、灰色の空からぽつぽつと雨が降り始めた。
雨は瞬く間に土砂降りになって、私の身体を冷やしていく。
鞄の中にある折り畳み傘を出すことも忘れて、私はようやく立ち止まって空を仰いだ。
瞼を閉じれば、あの菖蒲色の瞳が鮮明に甦る。
その途端に、泣き叫びたくなるような衝動に駆られた。
斎藤さんと藤堂さんと話していたときとは比にならないくらいの、強い衝動。
ざあざあと音を立てて降り続く雨の中で、私は声をあげて泣いた。
頬を伝うのが雨なのか、涙なのか、もう分からない。
苦しくてたまらない。
哀しくてたまらない。
次々と流れ落ちる涙と口から漏れる嗚咽を抑えようともせずに、私は気が済むまでずっと泣き続けていた。



翌日、案の定私は風邪を引いた。
枕元に置いていたスマホで学園に体調不良で休む連絡を入れて、怠い身体をベッドに横たえて息をつく。
帰宅してからすぐにお風呂に入ったけれど、あれほどずぶ濡れになればこんな風邪を引くのは当たり前だ。
それに、正直に言えば、学園に行きたくなかった。
またあの人に会ってしまったら、今度こそ私は耐えられないだろう。
湧き上がる感情に押しつぶされてしまうかもしれない。
そうなることが、たまらなく怖いと感じる自分がいた。
布団を頭まで被って身体を小さく丸めると、脳裏に甦るあの人の表情。
それを振り払うように強く瞼を閉じると、突然睡魔が襲ってくる。
眠りに落ちる直前、またあの押し殺した泣き声が聞こえた。



次に瞼を上げて飛び込んできた景色に、私は唖然とするしかなかった。
どうせまた、あの夢だろうと思った。
だけど私の予想と反して、私は見覚えのない広い部屋にいる。
今まで見ていた夢の中の部屋よりもずっと広くて、置かれている家具も立派だ。
きっと、あの部屋よりも裕福な人間が所有している部屋か何かなのだろう。
その部屋の奥には優しげな表情を浮かべた着物姿のおじさんが座っていて、その向かい側には私に背を向けるようにして座る小さな女の子がいた。
少女は俯いているようで、肩まで伸びた髪を前に垂らしている。

「そう固くならなくても良いのだよ。お前はこれから、この家の子なのだから」

初めて見る光景に戸惑っていると、おじさんは優しい声音でそう言った。
その言葉に、俯いていた少女がゆっくりと顔を上げる。

「この家、の……?」
「ああ。だから、お前の名を教えておくれ」

聞こえてくる会話に、なぜか心臓がどくどくと脈打つのを感じた。
その少女に向かって、ゆっくりと足を踏み出す。
身体が動いたことへの驚きも忘れて、得体の知れない動悸に突き動かされていく。
逸る気持ちを抑えながら、女の子の顔が見える位置まで移動する。
そしてその顔が明らかになったとき、私は自分の呼吸すら止まるような心地がした。

「なまえ…なまえ、です」

そこに座っていたのは、幼い頃の私と瓜二つの女の子だった。
そう気付いた瞬間、まわりの景色が大きく歪む。
縦に長く伸びてぐにゃりと曲がる様子に、私は思わず目を閉じた。
まだ心臓がばくばくと言っている。
あの女の子は、誰なんだろう。
幼い頃の私と同じ顔で、同じ名前で。

「旦那様!」

混乱する頭を抱えていると、突然明るい声が聞こえてきた。
はっとして目を開けると、私は中庭のような場所にいた。
そしてそこには、少し白髪の増えたさっきのおじさんと、成長したあの女の子の姿がある。
その成長した姿も、アルバムの中の写真で見見た私と同じ。

「修行に励んでいるようだな、なまえ」
「はい!いつでも旦那様のお役に立てるようにしておきたいので」

そう言って明るく笑う女の子はもう、私とそう変わらない年齢のようだ。
まるで知らない自分が一人歩きしているような気がして、気分が悪い。

「そうか……ならば、そろそろ頃合いか」

おじさんは、そう言って彼女の肩に手を置いた。
不思議そうに首を傾げる女の子に、おじさんは低い声で告げる。

「お前には、あるところに潜入してもらいたい」
「潜入……?」
「そうだ。私と懇意にしている御方は長州のお役人でね…お前にしかできないことを頼みたい」

長州、という言葉に心臓が一際大きく跳ねた。
震え出した身体を抑えようと、両腕で自分の身体を抱く。
それでも、視線は彼らから外さない。
いや、外せなかった。

「お前に潜入してもらいたいところの名は、壬生浪士組と言う。やってくれるね?」
「はい!旦那様のお役にたてるなら!」

そう言って彼女が笑ったのを最後に、また視界が歪んだ。
歪む世界に佇みながら、私はそっと口を開く。

「長州…旦那様……」

私は知っている。
この言葉を。
この意味を。

「壬生、浪士組…」

そう呟くと、歪んでいた視界がさっきとは違う風景に変わった。
その光景に、私は息を飲む。

「はじめまして。本日から監察に配属になった、みょうじなまえです。よろしくお願いします」

袴を着て、長い髪をひとつに結いあげているのは、私と同じ名のあの少女。
そして、その前に座っているのは。

「山崎烝だ。よろしく頼む」

真っ直ぐな瞳で告げるその姿に、その声に、私はその場にずるずると座り込む。
がたがたと震える身体もそのままに、私はその人から目を離せなかった。
あの短い髪、顔立ち、菖蒲色の瞳、静かな声。
知っている。
私は知っている。
だって、この人は。

「山崎、さん……」

その名を口にした途端、懐かしさと愛しさが洪水のように押し寄せてきた。
同時に、脳裏に次々と甦る記憶に涙が溢れる。

ずっと、分からないことばかりだった。
話しているときに、時折寂しそうな、哀しそうな笑顔を見せる千鶴ちゃん。
覚えていないのかと尋ねてきた斎藤さんと沖田さん。
すれ違ったときに戸惑ったような顔をして、私から目を逸らす藤堂さん。
私を見る度に、はっとしたような表情を一瞬だけ見せた原田先生や土方先生、永倉先生。
それ以外にも、分からないことはたくさんあった。
でも、今なら分かる。

「あの子は…私…」

あの子は、私自身だったのだから。



「それで、奴らはお前を信用しきっていると?」
「ええ。彼らは私にとてもよくしてくれていますから…壬生の狼と言えど、女子供には優しいようで」

次に現れた景色の中で、彼女は嘲笑に似た笑みを浮かべていた。
そして彼女の言葉を聞いて、旦那様と呼ばれたあの男は、嬉しそうに笑う。
あのおじさんは、火事で身寄りをなくした私を拾ってくれた人だ。
商人をしていて、長州の人たちに手を貸していた、私の命の恩人。
そして、長州との仲を確固とするために、私を利用した。

それから私は、多くの記憶を見た。
新選組の中で楽しそうに笑う彼女を見たし、おじさんの元で嘲笑うような表情を浮かべる彼女も見た。
だけど、日を追う毎に、彼女の笑顔は歪んでいった。
恩人がいる長州と、共にありたいと思ってしまった新選組の間で、心が揺らぎ始めたのだ。
そして当時の私は、考えることをやめた。

何度目か分からない歪みの後に広がった景色の中で、彼女は妙に清々しい顔で、菖蒲色の瞳のあの人と対峙していた。

「これから話すことは、全て真実です。何もかも、あなたに話します」

そう言って、かつての私は語り始める。
幼い頃に身寄りを亡くして、商人に拾われたこと。
そこで剣術や偵察の訓練を受けていたこと。
その商人が長州の人間として通じていて、新選組に潜り込んだのも偵察が目的だったこと。
その全てが、彼女が今まで隠し通していたことだった。

私は黙ったまま、じっと目の前の様子を眺める。
彼女はとても穏やかな表情を浮かべていて、その口元には小さく弧を描いてすらいた。
一方、その向かいに座る人の表情は、瞬く間に歪んでいく。
その様子に、息苦しさを覚えた。

「やめて……」

喘ぐように呟いた言葉は、誰にも届かない。
目の前の彼女は自分のことに精一杯で、彼の顔が痛々しく歪んでいることに気付いていない。

「これが、私の全てです」

彼女がそう言い終えるか言い終えないかの間に、彼女は山崎さんに押し倒され首元に刃を宛がわれた。
思わず、片手で自分の首元に触れる。
ああ、私はこの光景を知っている。
あの刃の冷たさを覚えている。
頬に落ちたあの人の涙を、覚えている。
目の前で起こる光景を、私はただただ黙って見ていることしかできなかった。
視界が滲んで涙が溢れても、目を逸らすことすらできない。

いくつか言葉を交わした後、彼女は自らの手で命を絶った。
鮮血が、緑色の衣を濡らす。
事切れた彼女を抱いて、あの人は涙を流した。
声を押し殺すようにして泣くその姿は、私が何度も見続けてきた背中。
私がずっと見続けていた姿は、この後ろ姿だったのだ。